チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

久米島、日本軍による住民虐殺事件の跡をたどる

2010年06月06日 | 沖縄日記・沖縄の戦跡

 (久米島・宇根の集落に残る防空壕)


 6月4日~6日、沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会が主催する久米島戦跡巡りに参加させてもらった。

 久米島では、大戦当時、鹿山曹長を隊長に、30数名の日本軍が駐屯していた。沖縄での組織的な戦闘が終わった6月26日、米軍が島に上陸。その後、鹿山部隊は、4回にわたって、スパイときめつけた21名の住民を虐殺。生後数カ月の乳児まで惨殺し、家に火をつけるというこの凄惨な事件は、「沖縄のソンミ事件」といわれている。
 1945年6月27日  安里正二郎さん
      6月29日  宮城栄明さん、比嘉亀さん一家ら9名
      8月18日  仲村渠明勇さん一家4名
      8月20日  谷川昇さん一家7名

 当時の状況や今回の戦跡巡りの詳細は後ほど改めて紹介するとして、とりあえずは、いくつかの写真だけアップしておく。



 (那覇を出た船は、渡嘉敷・座間味の北を通る。)


 (島を案内していただいた上江洲盛元さん。長く教員をした後、村会議員を務められ、久米島の戦争の記録をまとめられてきた。)


(島の南部、イーフビーチ。1945年6月26日、約1000名の米軍がこの海岸に上陸した。)


 (北原集落のはずれ、宮城栄明さんの家があったところ。1945年6月29日、ここで宮城さんら9名が虐殺された。今は、井戸の跡だけが残っている。)


 (島の中央、上田森の日本軍の監視所跡。)


(上田森の慰霊碑の両脇には、戦争で亡くなった島民1119名の名前が刻まれている。この広場には、鹿山隊の本部があった。)


 (1945年8月20日には、朝鮮出身の谷川昇さん一家7人、10、7、5、2歳と2ケ月の乳児までもが虐殺された。)


 (喜久村家の防空壕内部。3家族25人ほどが避難していたという。)


 (「痛恨の碑」。日本軍に虐殺された20人の名前が刻まれている。)


 (「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民久米島在朝鮮人痛恨の碑」と書かれている。)


 (ヤジャーガマ。当時、避難壕として使われた。昔は、風葬の場所でもあったという。今も骨壷がいくつか置かれ、骨が散乱していた。)


 (5日の夜は、沖縄戦争記録フィルムの上映会が行われた。島の人ら50名ほどが参加。)




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