以前、東京に行ったときのことです。
上野駅で降り、墨田川を目指し浅草橋に向かいました。
この辺りは、何回か歩いたことがあります。その時は黒塀に囲まれた料理屋、柳橋から望む両国橋の写真撮ってきました。
この時、浅草橋から川沿いに出る途中で、懐かしい建物を発見したのです。建物の裏は隅田川で住所は柳橋一丁目です。
入り口の『浅草橋産業会館』の文字を見て、三十七年前の記憶が蘇ったのです。
高校を卒業してすぐに入った会社での出来事です。その会社が作った立体駐車場がここにあるのです。
入社して間もなくの頃、先輩社員に連れられて、定期点検に来たときのことです。
駐車場入り口にある受付の部屋で、先輩が駐車場の操作盤を点検しているのを、傍らで見学していると、馴染み客と駐車場の係り員との世間話が耳に入ったのです。
その係り員の、切れのあるしゃべり方、言葉使い、声の響きが耳に心地よかったのです。
これが『江戸っ子の職人言葉』なのかと思いました。
名人の落語家が江戸っ子の職人を演じているように聞こえたのです。
その人は、五十代の後半で、頭は角刈り? だった気が? 雪駄履きだったのは間違いありません。つま先を浅く入れ、踵とが雪駄からはみ出ていたのを不思議に思った記憶があるのです。
駐車場の点検作業が終わったのが昼時だったので、雪駄履きの粋な係りの人に、近くに食事をする場所はないか聞いてみたのです。
その人が、
『そこの路地を右に入った先に、小料理屋があるから、昼間は焼き魚とか刺身で、安く喰わしてくれるから、行ってみなよ、美人の女将さんがやっているから』
・・・・・・そんな内容でした。口調がとても「粋」でかっこよかったのです。
言われた店に行ってみました。店はカウンターとテーブル席が幾つかある小さな店で、和服姿の女将が一人でやっていました。
その時はかなりおばさんに見えたのですが、いま思うと四十代の前半位だったのでしょう。
髪型、化粧、着こなし、立ち振る舞い、言葉使い、すべてがこれまで見てきた女性とは違っていました。
さすが柳橋と思いました。きっと芸者として、最近までお座敷に出ていた人だと、かってに思い込んだのです。
今まで経験したことのない『花柳界』という『おとなの世界』の妖しい匂いを、ほんの一時、少しだけ嗅いだ気がしたのです。
入り口には「盛り塩」があり、店内は、綺麗に片づけられ、掃除 も行き届き、『小粋』な落ち着いた色調だった気がします。
作業服姿の自分が場違いのようで、落ち着かなかった記憶があります。
何を食べたのか、味はどうだったのか、他に客は居たのか、そういうことは思い出せません。
いまにして思うと、その時が、花柳界に一番接近したときでした。それ以来、今日までまったく縁がありません……。
もしかして、当時の店が有るかもしれないと思い、辺りを歩いたのですが、それらしい店は見つかりませんでした。
あの時の、駐車場にいた「おじさん」が、八代目桂文楽のような人だった気がしてきました。記憶の中に、想像が入り込んでしまったかもしれませんが・・・・・・。
落語が聞きたくなりました・・・・・・・・「黒門町の師匠」の話が。
ここはやっぱり、「愛宕山」ですかね。
テープを探そう・・・・・・・・。
荒川区には都内唯一の都電「荒川線」が走っています。起点になる「三ノ輪橋、町屋駅前・熊野前・荒川遊園前・荒川車庫前」この駅名を聞くと、何故か惹かれるものがあり、懐かしくなるのです。
懐かしいといっても昔この荒川線を利用していた訳でわありません。
生まれてから小学校の4年生までは、板橋区の蓮根町に住んでいました。家から都電が通る中山道は歩いてすぐでした。
何歳の時だったのかはまったく記憶にありませんが、都電に乗り巣鴨の「とげ抜き地蔵」にお参りに行き、参道の露天商で靴下を買って貰ったこと、又、駅前で食べた「ホカホカ饅頭...黄粉が振りかけてあった気がする」何故か今でも憶えています。その記憶が荒川線の駅名に、何処かでつながっているようです。
私の記憶は食べものにつながっています。
小豆沢の映画館で見た「隠し砦での三悪人」、帰りに食べた50円の「肉なしカレー」(肉なし50円は鮮明に憶えている)の美味しかったこと、又、初めて食べた「餃子とラーメン」これは御徒町中華屋さんの何故か2階で食べた記憶があります。
初めて外で食べた天ぷら、その時のアナゴの味、金属のせいろのような器に乗って出てきた記憶があり、これは、池袋駅の豊島区役所の側です。
遠い昔の思い出は、食べ物の記憶と繋がりよみがえります、お腹がいつも空いていたのでした。
あの頃は食べる事が幸せでした。
お腹一杯食べる幸せ。
もう一度、そんな時代が来るのかも知れない。
食べられるだけで幸せと思う時代が・・・・・・・。
懐かしいといっても昔この荒川線を利用していた訳でわありません。
生まれてから小学校の4年生までは、板橋区の蓮根町に住んでいました。家から都電が通る中山道は歩いてすぐでした。
何歳の時だったのかはまったく記憶にありませんが、都電に乗り巣鴨の「とげ抜き地蔵」にお参りに行き、参道の露天商で靴下を買って貰ったこと、又、駅前で食べた「ホカホカ饅頭...黄粉が振りかけてあった気がする」何故か今でも憶えています。その記憶が荒川線の駅名に、何処かでつながっているようです。
私の記憶は食べものにつながっています。
小豆沢の映画館で見た「隠し砦での三悪人」、帰りに食べた50円の「肉なしカレー」(肉なし50円は鮮明に憶えている)の美味しかったこと、又、初めて食べた「餃子とラーメン」これは御徒町中華屋さんの何故か2階で食べた記憶があります。
初めて外で食べた天ぷら、その時のアナゴの味、金属のせいろのような器に乗って出てきた記憶があり、これは、池袋駅の豊島区役所の側です。
遠い昔の思い出は、食べ物の記憶と繋がりよみがえります、お腹がいつも空いていたのでした。
あの頃は食べる事が幸せでした。
お腹一杯食べる幸せ。
もう一度、そんな時代が来るのかも知れない。
食べられるだけで幸せと思う時代が・・・・・・・。
時々、「ポテトピザ」が食べたくなります。
「ポテトピザ」と私が呼んでいるのであり、世間ではあまり聞いたことはありません。
今、ここまで書いてきて気になったので、チョット中断してネットで「ポテトピザ」を検索してみます。
少々、お待ちあれ。
えーと、ステータスを「下書き(公開しない)」をクリックして、えーと「投稿」をクリックだな・・・・・。
ハーイ。戻ってきました。ポテトピザはかなりポピュラーな食べ物の様でした。私の周りの人間達だけが知らないだけでした。
ポテトピザは2種類ありました。
一つは普通のピザのトッピングにポテトを使う物。
もう一つが、ピザの生地の部分がポテトで、その他は普通のピザと同じ物。
ただ、ポテトを千切りにしたり、半分にカットしたり、適当な大きさスライスしたり、切り方はいろいろでした。私が言うポテトピザは後者の方でスライスしたものを使用。
ここから、やっと本題に入ります。
ポテトピザが食べたくなると、必ず思い出すのです「あの人の名前」を、ところが最近は名前がなかなか出てこないのです。「あの人の名前」とは「山谷初男」なんですが、今回もこれを書くのに、「ハッポン・・・・愛称」「角館」「旅館の息子」は記憶に鮮明に残っているのですが、肝心の名前がでないのです。出てこなくても問題はないのですが、気持ち悪いのです。
今回、名前に辿り着くまでに、先ず、思い出したのがNHKの「朝の連続ドラマ」で「調理人」の役で2~3年前に出演していたのを思い出し、朝の連ドラから探し当てたのですが、連ドラを「ほんまもん」と記憶していて、「ほんまもん」の配役を見たところに載っていませんでした。「主要な配役」と書いてあってなので、彼は、そのなかに入らないのかと思ったのですが、良く考えてみると、「ほんまもん」は確かに食い物屋が舞台でしたが関西制作の連ドラで、確か「彼」が出ていたのは東京を舞台にしたドラマであったと気が付き、「東京、食い物屋」から、「こころ」を思い出し、「山谷初男」にやっと到着しました。おじさんの記憶はかなり壊れてきている。
今回調べてみて、これまで「ヤマタニ」と思っていたのが「ヤマヤ」ということが解りました。今までは「ヤマタニ・ハツオ」と呼んでいました。
それで、ここからです。
タイトルが何故?「ポテトピザそして山谷初男」なのかは・・・・・・。
二十五~六歳の頃でしたから、今から三十年ほど前の話しです。
山梨県大月市にあるスナックで私は「ポテトピザ」と始めて出会いました。
山梨には会社の出張で行っていました。
ポテトでも、アンチョビでも、ミックスでも、ピザが未だ私にとって珍しい食べ物であった時代です。
スナックのカウンターに会社の同僚(この同僚が誰だったのか記憶が消えています)と腰掛け飲んでいたのす。
店には我々二人しかいなかったと思います。
二人の会話が途切れたタイミングで、カウンターの中の女性(年齢の記憶なし)が、
おすすめの「ポテトピザ」があるけどと言われ、注文しました。
暫くしてピザができあがりました。
ピザを食べていると、
「このピザ。“ハッポン”ちゃんが好きなのよ」
二人で女性の方を見ました。
「ハッポンちゃん。来るのよこの店に、ハッポンちゃん。知ってるでしよ?」
私はピザを食べながら頷いたのです。
ハッポンちゃんが山谷初男であることは知っていました。
あの頃は、それなりに役者として有名でした。
どうして?ハッポンちゃんが山梨の大月の小さなスナックに来て、ポテトピザを食べるのか、女性とどういう関係なの?
私も聞かなかったようで、女性もそれ以上のことは話さなかったと記憶しています。
その為か。
「ハッポンちゃんが、山梨の、大月市の、小さなスナックで、ポテトピザを食べていた」記憶だけが鮮明に残ったのです。
最近、山谷初男を観る事はあまりなくなりました。あまりと言うかまったくありません。ウィキペディアで調べたら、ポツリ、ポツリと今でもテレビ・映画に出演していました。
東北なまりで、純朴そのもの、善人の見本のような役柄を演じていましたが、そんな人間が現実社会から消えてしまった為に、彼のような役者の出番が無くなってしまったのかもしれませんね・・・・・・。
彼も、もう70歳になっています(1935年生まれ)
日本の文化遺産かもしれない。
さてと、ポテトピザを作るぞー!
※写真は、柳橋です。本文とは関係ありません。 (^^;)