昨日の続きです。
元三大師安楽寺は、祖父が修行し暮らした場所だったのです。
その当時、祖父が眼にしていた風景で現在も残っているのは、南山門と鐘楼だけとなりました。
明治の末期から、昭和初期のことですから、今から、何と、百年以上も前の事になるのです。母が現在87歳ですから、そう云う事になるのです。
母が小学校の頃の話で、年に2~3度、安楽寺に祖父に連れられて行っていたそうで、その時、必ず“俊澄さん”から“はい”と云って、扇子に載せて“50銭銀貨”をお小遣いとして貰っていたそうです。
この頃には、祖父は現在の寺の住職として独立?していたのです。母が生まれてた大正11年の頃に、たぶん独立したのでしょう。母もその辺の事については、聞いてもいないし、覚えてもいないそうです。
でも、しかし、扇子の上の50銭銀貨を“はい”と云って差し出すその情景だけは、今でもハッキリ覚えているそうです。
住職になった祖父も貧乏だったようで、母を“だし”に、連れていったようなのです。まあ、その辺りの事情は当然、俊澄和尚も承知の上での事でしょう。
それで、“今東光さん”の話なのですが、“コンさん”と呼んでいた記憶があるそうです。コンさんにもお小遣いを貰った記憶があるそうです。いろんな人にお金を貰っていたのです。
今東光さんは、昭和4年(1929)頃に、安楽寺の近く移り住んで来たのです。その頃は文壇でも、それなりに有名な方で、当時、文壇での“いろいろな対立”から、文壇を離れ、妻の郷里に居を移したそうです。
そこで、弓削俊澄さんと出会ったのです。その時、俊澄僧正は62歳、今東光は32歳でした。実は、祖父も今さんと同い年だったのです。
今さんは、移り住む数年前より出家を考えていたそうで、俊澄僧正と出会い、その人柄に惹かれたようで、非常勤秘書みたいなことを、自ら申し出てやっていたようです。
そして、翌年、32歳で出家し、比叡山延暦寺で修行し、4年後の昭和9年(1934)の3月に安楽寺の僧侶として戻って来たのでした。
俊澄僧正はその年の11月には癌で亡くなられました。数年前から癌を患い床についていたそうです。
戻ってきた「今さん」も、2年ほどして心臓病を患い、4年ほど闘病生活を続け、回復後の昭和16年(1941)に、安楽寺を去って行きました。
俊澄僧正は独身であったようです。俊澄僧正が亡くなり、今東光も去り、祖父も安楽寺との関係も途絶えたようです。
祖父は、今東光と兄弟弟子と云う関係になるわけですが、今東光の事について余り語る事は無かったそうで、母は仲はあまり良くなかったような気がするそうです。
今さんは、有名な文人で、豪放磊落で、毒舌で、喧嘩好きで、兎に角、桁外れの方ですから、並の人間では相当に付き合い辛かった事と想像します。
祖父は、幼い頃の母を自転車の後ろに載せて、水海道市を抜けて、この寺に来ていたのです。
私も、この日、水海道市街を通ってこの寺に来ました。もしかして、たぶん、途中からから、同じ道をペダルを漕いで来たのです。
80年近くも前、親子で辿った道を、いま、私も辿り、同じ風景を見ていると想うと、何だか、とっても、不思議な気分になるのでした。
祖父は昭和35年に62歳でこの世を去り、今さんは昭和52年に79歳でこの世を去りました。母は87歳で、ボケたらどうしょう?と、心配しつつ、今日も元気に生きております。
本日は、いろいろと年号調べに時間を費やし、かなり書くのに手間取りました。
この後は、“坂野住宅”に向かってペダルを漕ぎます。6段変速で快調に走ります。
それでは、また明日。