前回の続きです。
旧日光街道を目指して歩いています。
途中でこんなものが眼に入ってきました。
見た瞬間に、これは、もう、町会の、祭り道具の、御神輿の、収納庫と直ぐに分かる建物。
それで、この『日光道中 粕壁宿』の文字ですが、”粕”の文字が”柏”に見えて、何じゃ?「カシワカベ」!と、思ったのです。老化は眼からです。
硝子越しに中を覗き込み、うん、神輿、神輿と、それなりに納得して、
その場は、何だか分からないけど、まあ、イイか、で通り過ぎたのでした。
暫く歩いていると、この看板下の文字が眼に入り、そうか「かしわかべ」ではなく、「かすかべ」だった!と、気付いたのです。春日部は粕壁なの?
と、云う事で調べて見ました。
春日部市は、江戸時代に入ってから「粕壁」で、昭和の始めに粕壁から春日部に変更したようです。
鎌倉時代(1185年頃~1333年)から、南北朝時代(1336年~1392年)にかけて「春日部氏」が支配し、春日部郷と呼ばれていたそうです。
そして、昭和19年に内牧村を合併した時に、粕壁から春日部になったそうです。
と、云うことで、春日部は「春日部 → 粕壁 → 春日部」に変遷しているのでした。それにしても、「粕壁 → 春日部」は、大変よく理解できるのですが、「春日部 → 粕壁」の改名は、大変よく理解できないのです。
粕壁ですよ!粕の壁ですよ!粕とは、「残り物、役に立たない、つまらない、最も下等とか」とても、とても、自慢できる文字ではありません。
地質的には、「かす」とは「やせた土地」を表し、地形的には「かべ」は「崖」を表す用語のようです。やせて土地で、崖のある場所で、粕壁となるようです。
因みに、春日部市内には、北東部の宝珠花台地、南東部の金杉台地、南西部に花積台地、北西部に内牧台地が存在するそうですから、台地と平地の境には崖があるのでしょう。
春の日から、「かすのかべ」への変更ですが、やせた土地で、崖があり、農業に適さないのと、外に向かって表明する、その事で、それなりに何かメリットがあったかと?思ったり・・・するのです。
でも、もしかして、世間体など気にせず、地形的、地質的な特徴を、そのまま、素直に、正直に、価値判断を加えずに、「かすのかべ」だから、「粕壁」としたのかも?
はい、これで、歴史と、地理と、ネイティブ粕壁のお勉強を終わります。
兎に角です。春日部は粕壁で、その昔は春日部だったと云う、実に、為になる?発見をしたのでした。
はい、旧日光街道を目指します。宿場町の面影を名残を、探し求めて歩きます。
それで、歩いて居ると、「碁 1日700円 (コーヒー付)」の貼り紙。そうなのか、コーヒー飲みながら一日700円で碁ができるのか!ヘェ~!とか、それにしても、「銀座サロン」ですか?と呟きつつ、通り過ぎたのでした。
因みに、こんな経路で歩いています。この時は、この先に、 郷土資料館があるとは、夢にも思わなかったのです。
本日の話しの地点は、だいたい、「たかさご耳鼻科」辺りだと思います。
まだまだ粕壁歩きは旅の途中です。
それでは、また次回。