前回の続きになります。
そして、たぶん、“海街diary”のお話は最終回です。
それで、700円で買い求めたパンフレットでの是枝監督のお話です。
『もちろんこの映画の主人公は四姉妹であり、すずが自らの生を肯定し、幸が父と母を受け入れるまでの物語だと考えても間違いではない』
はい、確かに、間違いなく、“幸が父と母を受け入れる物語”であることは、観ていて自然に受けとめられる展開になっていました。
でも、“すずが自らの生を肯定し”は、それなりに分かるのですが、それなりに受けとめられる、印象に残るシーンが記憶に無いのです。
オジサンとしては、只一つ印象に残ったシーンは、風呂上がりバスタオル一枚で身体を包み、縁側に出て、庭に向かって両手を目一杯広げて、バスタオルを解き放ったシーンです。すずちゃん、とても、とても、可愛かったです。
と、ここまで書いてきて、そうか!そうか!このシーンが、このシーンこそ、“自らの生の肯定”を象徴していたのか、と今になって思うのでした。
バスタオルを解き放ち、こころも解き放ったのです。でも、このシーンが物語の展開で、どのあたりだったかは記憶にないのです。
それで、やっぱり、幸を演じた“綾瀬はるか”と、すずを演じた“広瀬すず”の、それなりの存在感の差と、わたしとの年齢的な距離感の差が、観ているときの、受け止め方、印象の差になっていたのかも知れません。
そして、
『しかし、それ以上にこの映画の中心にあるのは、街とそこに日々積み重なっていく時間であるのではないか。・・・過去も未来をも飲み込んだ「時間」こそが、この作品の主人公ではないか』
映画の中心は、主人公は、街、そして、過去も未来も飲み込んだ時間ですか。ムズカシイ表現です。
いろいろな人が居て、去って行く人が居て、来る人が居て、いろいろな人が暮らして、いろいろな物語があって、いろいろな人が生まれて死んで、そして、そして、それらが、いろいろ絡み合って、いろいろ繫がりあって、移ろうこと・・・・・。
『・・・この映画を、もし、美しいと感じてもらえるのだとするならば、それは、鎌倉の風景や四姉妹の容姿が美しいからだけではなく、恐らくは、海のそばの街が、すずも二ノ宮さんの死も幸の選択も、すべてを受け入れてそこにあるというその包容力に起因するのではないか?』
“海のそばの街が・・・すべてを受け入れ・・・そこにある・・・包容力に起因”ですか、ますますムズカシクなります。
街に包容力ですか・・・、街とは、自然条件と人の営みです。自然条件は人の選択です。海の見える風景を選び、そこに街をつくる、街の風景も、歴史も、作ったのは人、街に何を想い、なにを感じるかは人それぞれ。
この作品“海街diary”では、当然、海の街としての鎌倉が描かれています。でも、鎌倉は山の街でもあるのです。自然条件の海街。歴史条件の山街。
作品には、歴史的なものを感じるシーンは映し出されません。しかし、鎌倉と聞いただけで、それなりに観る側は、いろいろとその背景を想像し、いろいろと思い描き、物語に入っていくのです。
それで、何だっけ? そうでした街の包容力でした。まあ、人の目に映る自然条件と、人のこころに映る歴史条件と、いろいろな人の営みが、いろいろ絡み合って、街の包容力ですかね。
海街で、目の前は海で、遙かなたで、水平線で、雄大で、人の営みの、あれやこれやの小ささを、すべて流し、すべて赦し、すべてを受け入れる・・・・・・。
東北の地で、鎌倉に似ている景色をすずと眺めていた父、鎌倉に似た景色に残してきた三姉妹に想いを馳せていた父。父のすずへの愛情は、残してきた“三姉妹への愛情”でもあった、と思います。
幸は、すずに逢い、すずと暮らし、すずを知り、父を知り、母を知り、これまでの想いを清算したのでしょう。そして、医師との不倫関係も清算したのだと・・・・・・。
医師との不倫関係を続けていた幸、父への、母への、復讐という気持ちが、気づかない、こころの奥底に、無意識の中に、潜んでいた気がするのです。
父と母から“捨てられた子供”と云う意識から解き放たれ、自由に一人のおとなの女性として生きていく幸・・・・・・・。
まあ、うる覚えの記憶を手繰りよせ、パンフレットで監督の意図を読み、いろいろと、作品を捏ねくり回しまし、書き散らしました。
そして、いま、もう一度、観たくなりました。“海街diary”とても楽しめる作品でした。
でも、もう一度は、数年先になると思います。たぶん、来年にはフジテレビで放送される筈です。そして、数年後にはNHKBSで放送される筈です。
もう一度は、NHKBSを録画してじっくり観たいと思います。そのころは70代になっている訳で、いろいろ見方も変わっていることでしょう。
これで“海街diary”のお話はお終い。
それでは、また。
そして、たぶん、“海街diary”のお話は最終回です。
それで、700円で買い求めたパンフレットでの是枝監督のお話です。
『もちろんこの映画の主人公は四姉妹であり、すずが自らの生を肯定し、幸が父と母を受け入れるまでの物語だと考えても間違いではない』
はい、確かに、間違いなく、“幸が父と母を受け入れる物語”であることは、観ていて自然に受けとめられる展開になっていました。
でも、“すずが自らの生を肯定し”は、それなりに分かるのですが、それなりに受けとめられる、印象に残るシーンが記憶に無いのです。
オジサンとしては、只一つ印象に残ったシーンは、風呂上がりバスタオル一枚で身体を包み、縁側に出て、庭に向かって両手を目一杯広げて、バスタオルを解き放ったシーンです。すずちゃん、とても、とても、可愛かったです。
と、ここまで書いてきて、そうか!そうか!このシーンが、このシーンこそ、“自らの生の肯定”を象徴していたのか、と今になって思うのでした。
バスタオルを解き放ち、こころも解き放ったのです。でも、このシーンが物語の展開で、どのあたりだったかは記憶にないのです。
それで、やっぱり、幸を演じた“綾瀬はるか”と、すずを演じた“広瀬すず”の、それなりの存在感の差と、わたしとの年齢的な距離感の差が、観ているときの、受け止め方、印象の差になっていたのかも知れません。
そして、
『しかし、それ以上にこの映画の中心にあるのは、街とそこに日々積み重なっていく時間であるのではないか。・・・過去も未来をも飲み込んだ「時間」こそが、この作品の主人公ではないか』
映画の中心は、主人公は、街、そして、過去も未来も飲み込んだ時間ですか。ムズカシイ表現です。
いろいろな人が居て、去って行く人が居て、来る人が居て、いろいろな人が暮らして、いろいろな物語があって、いろいろな人が生まれて死んで、そして、そして、それらが、いろいろ絡み合って、いろいろ繫がりあって、移ろうこと・・・・・。
『・・・この映画を、もし、美しいと感じてもらえるのだとするならば、それは、鎌倉の風景や四姉妹の容姿が美しいからだけではなく、恐らくは、海のそばの街が、すずも二ノ宮さんの死も幸の選択も、すべてを受け入れてそこにあるというその包容力に起因するのではないか?』
“海のそばの街が・・・すべてを受け入れ・・・そこにある・・・包容力に起因”ですか、ますますムズカシクなります。
街に包容力ですか・・・、街とは、自然条件と人の営みです。自然条件は人の選択です。海の見える風景を選び、そこに街をつくる、街の風景も、歴史も、作ったのは人、街に何を想い、なにを感じるかは人それぞれ。
この作品“海街diary”では、当然、海の街としての鎌倉が描かれています。でも、鎌倉は山の街でもあるのです。自然条件の海街。歴史条件の山街。
作品には、歴史的なものを感じるシーンは映し出されません。しかし、鎌倉と聞いただけで、それなりに観る側は、いろいろとその背景を想像し、いろいろと思い描き、物語に入っていくのです。
それで、何だっけ? そうでした街の包容力でした。まあ、人の目に映る自然条件と、人のこころに映る歴史条件と、いろいろな人の営みが、いろいろ絡み合って、街の包容力ですかね。
海街で、目の前は海で、遙かなたで、水平線で、雄大で、人の営みの、あれやこれやの小ささを、すべて流し、すべて赦し、すべてを受け入れる・・・・・・。
東北の地で、鎌倉に似ている景色をすずと眺めていた父、鎌倉に似た景色に残してきた三姉妹に想いを馳せていた父。父のすずへの愛情は、残してきた“三姉妹への愛情”でもあった、と思います。
幸は、すずに逢い、すずと暮らし、すずを知り、父を知り、母を知り、これまでの想いを清算したのでしょう。そして、医師との不倫関係も清算したのだと・・・・・・。
医師との不倫関係を続けていた幸、父への、母への、復讐という気持ちが、気づかない、こころの奥底に、無意識の中に、潜んでいた気がするのです。
父と母から“捨てられた子供”と云う意識から解き放たれ、自由に一人のおとなの女性として生きていく幸・・・・・・・。
まあ、うる覚えの記憶を手繰りよせ、パンフレットで監督の意図を読み、いろいろと、作品を捏ねくり回しまし、書き散らしました。
そして、いま、もう一度、観たくなりました。“海街diary”とても楽しめる作品でした。
でも、もう一度は、数年先になると思います。たぶん、来年にはフジテレビで放送される筈です。そして、数年後にはNHKBSで放送される筈です。
もう一度は、NHKBSを録画してじっくり観たいと思います。そのころは70代になっている訳で、いろいろ見方も変わっていることでしょう。
これで“海街diary”のお話はお終い。
それでは、また。