歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

七五三のお祝いです

2006年10月31日 | その他
先日、三歳になった  初孫の「七五三のお祝い」で神社に参拝してきました。



  孫は可愛いと言いますが「ホントにホント」に  可愛いですよ。

よく「眼に入れても痛くない」と言われますが、この言葉は「可愛い」ことを強調した、単なる「比喩」と思っているでしょう、皆さん。

これは違いますねェ  ホントに眼のなかに入れても「痛く」ない気がするのです。ホントですよ!!!。 



みんなで一緒に   食事をしました。
ホントに・ホントに美味しかったァ~ 



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小津の「東京物語」と寛永寺の不二ネオン 

2006年10月30日 | 映画の話し

先日、小津安二郎監督の映画「東京物語」のロケ地を歩いて来ました。

私が「東京物語」を観たのは、年齢からして当然リアルタイムではなくビデオです。東京物語は1953年の製作ですから、当時、私は未だ3歳です。

上野の科学博物館脇の道路を隔てた先に「寛永寺旧本坊表門」があります。
この門前の石垣に老夫婦の「笠智衆」と「東山千栄子」が腰掛けていたのです。

二人は、戦死した次男の「嫁・・・原節子」のアパートを訪問する前に、ここで時間潰しをていました。

 


   

そのシーンで、カメラがゆっくりと移動して、門の脇にある石柱を撮していく行くカットがあり、その後で座っている二人の姿が映ります。

石柱に彫られた寄贈者の名前を読んでいるような不自然なカットなのです。
一番下の写真程度の大きさの画面でした。

劇場のスクリーンで観ていたら、寄贈者の名前がかなりの「ドアップ」で映し出されたでしょう。

小料理屋、企業名がかなりあり、本編に「CM」をもぐり込ませたようなカットで、以前から、不自然なカットだと感じていました。

そして、この日、50年以上前に撮られた石柱を、いま眼の前にしていることの不思議。当たり前なのですが、映画の中とまったく同じ名前がそこには彫ってあるのです。

話しはそれますが、この日、あの有名な洋食屋の「ねぎし 香味屋」の石柱を発見しました。メンチカツが食べたくなったりして、あそこは、やっぱり、一人で行くには寂しいですからね・・・・・・。

話しは戻ります。
そのなかで、以前より頭の中に残っていたのが「ねぎし・不二ネオン」という企業です。当日、あらためて現物をじっくりと眺めました。

飲食業の多いなか、そして「漢字・平仮名」表記のなかに、ただ一つ「ネオン」という「カタカナ」表記の企業名。

現物は、やっはり「不二ネオン」と刻まれた石柱は異質に見えました。

半世紀以上前に制作された映画の中に描かれた情景と、現実の情景を重ね合わせていると、何か不思議な感覚・・・・・・映画の世界に迷い込むような感覚に囚われるのでした・・・・・・。

そうです。それで「不二ネオン」のことなんです。

 家に戻り、気になってネットで調べてみたのです。
便利ですねェ~ネットは! 

いろいろ判りました。「不二ネオン」のことが。
それは「社団法人全日本ネオン協会」のホームページに載っていました。

そこで理事の人が書かれた「エッセー風の文章」で、東京物語に映し出された「不二ネオン」のことを書いているのです。

それによりますと、「根岸の不二ネオン」は転業して現在はないそうです。当時、業界ではかなり知られた会社であったそうです。
あの銀座四丁目交差点にあった初代「森永製菓」のネオンを製作したのがこの会社だそうです。

日本画家の「横山操」という人が「不二ネオン」で働いていたそうです。働いていたと言っても「ネオンの取り付け工事」ではなく、画家ですから「デザイン」の仕事をしていたんですね。

「横山さん」は当時そこそこ名は知られていた画家だったようです。その横山さんが小津と交友関係があったらしいのです。

それでですね、ここからは私の推測なんですが聞いて下さい。

『東京物語の撮影の際に、寛永寺あたりをロケハンでブラブラと歩いていたんですね小津が、その時、たまたま眼に入ったのです。「不二ネオン」と刻まれた石柱が。そこで、咄嗟に思い付いたのです、横山を驚かしてやろうと・・・・・・』

面白半分の「楽屋落ち」的な発想でいれたのです。そうです、きっとそうですね。

 ※きょうの結論
 東京物語に出てくる「不二ネオン」のカットは小津の「悪戯こころ」であった。

    ※こんなどうでもいいことを調べるのって、楽しいですね。

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その時!運転士は跨線橋の幼児に手を振って応えました! 

2006年10月29日 | その他

先日、東京からの帰りに遭遇したのです。
一番先頭の車両に乗りました。最近はここが指定席です。


途中の駅で運転手が交代になりました。
交代の運転手は、帽子からはみ出した髪には白髪が混じり、定年を間近にしたベテランのように見えました。

入り口ドアーの閉め方・閉めた後の確認の仕方、鞄の定位置への置き方、運転レバーの装着・確認の仕方、各計器類の確認、運行表の確認、乗降ドアーの開閉ランプの確認、発車の合図、レバーの握り方、前方を見つめる眼差し、座る姿勢、すべてがカッコイイのです。動きに無駄がなく、ベテランの落ち着きを感じました。

私はそんな様子を顔はまっすぐ前に向け、目だけを運転席に向け観察していました。

彼は私の視線を当然意識していたでしよう。
中年の変な「おっさん」が空席だらけの車両で、運転席の後ろに立って、ガラスに顔を近づけて、前方を眺めているのですからね。
 
駅を発車してて、5分ぐらい経ったでしょうか、前方に歩行者専用の跨線橋が見えてきました。



距離が縮まり、橋の真ん中辺りに、 おばあちゃんが、 孫を抱えて立っているのが確認できました。
ふたりは、こちらに向かって手を振っていました。 
よくある風景です。



その時、運転席に視線を向けると、驚いた事にその運転手は、左の手のひらを肩のところまで上げて、手を振ったのです。 

口元が一瞬緩んだように見えました。きっと。橋の上にいた子にも見えたと思います。

こんなことに出会うのが楽しいのです。 


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「戦争」は人間を美しくする???

2006年10月28日 | 世間話し
ふつうですね、映画とかテレビドラマに登場する主役って、いわゆる「美男」「美女」ですよね。

以前に観た、中国映画の「山の郵便配達」なんですけど、ホントに辺鄙な山奥で、徒歩で郵便を配達しているのですが、その、「清く、正しく、貧しい」配達夫の役者は「それなり」なんですが、その「奥さん」が何と!、何と!「都会的美人」なんですね。

もの凄~く、不自然なんですが「主役」の「奥さん」となると、それなりの女優になってしまうんでしょうね。それなりの女優は、それなりに「美人」ですから。

中国の映画が変だと言っている訳ではありません。
日本でも、寂れた漁港の漁師や、ローカル線の定年を目前にした駅長が、あの「高倉健」ですよ。

映画としての「一つのお約束」ですから、その方が、お客さんも観に来てくれる訳です。みんな、「映画」は「娯楽」としてみている訳ですし、やっぱり、主役は「美男・美女」ですから・・・・・・。

それで~。それでなんですが、「戦争」を描いた映画のことなんです。
まァ。当然なこととして「戦争は良くない」という主題になる訳です。

表立って戦争を賛美する映画は、いくら何でも作ることは憚れますよいくら何でも。
でも。でもですよ、表だって戦争に反対する「映画」も、やっぱり「映画」ですから、出演者がみんな「美男・美女」で「カッコィー」ですよね。

それに戦争映画は情景、映像が美しすぎますよ特に別れのシーンがねェ。

桜の花びらの散る樹の下、言葉少なく歩く二人、戦場に行く男は二等兵ではなく、制服姿も凛々しい将校ですね、ふつう。

死を覚悟して、最後の別れのシーン、ここでは、アップで悲しい女性の美しい表情。バックには別れの悲しさ、残酷さを強調する曲が流れる。

戦争という残酷な現実のまえに、翻弄される二人の愛。ここは、やっぱり永瀬正敏とか、原田知代とかですかね。

反戦映画だからリアルにといって、「出川哲朗」と「光浦靖子」では「興行的」に絶対に無理があります。これでは「糞リアリズム」です。

 ※二人はそれなりに面白く、嫌いではないですよホントに!

戦争を描いた映画って、実体験がある人とか、そんな人が周辺にいた人には反戦映画になると思いますが、まったく知らない若い世代には逆に、戦争に「憧れる効果」がある気がするのです。

自分探しをしている段階において、「自分のためではなく、他の人の為に命を捧げる」「これが正しい生き方である」として一定の権威付けがされる方が楽チンですからね。

それに、死に赴く男は「ある意味、それなり」に「カッコィー」ですから。
みっともなく老いていくよりも、精神も肉体も「若く美しいまま」人生を終わらせる・・・・・・。

極限状況の中での人間を描く・・・・・、ドラマってみんなそうですよ、何たって最大最高の極限状態は戦争ですから。

平和は退屈? 戦争はドラマチック?

軍人の制服姿はやはり「立派で、凛々しくて、美しく」て「カッコィー」のです。昔の人に聞くと、予科練の制服とか、陸軍・海軍の士官学校の制服とか、将校の軍服に憧れって軍隊に入った人がいたそうですから。

三島由紀夫も軍服姿で切腹しましたからね、軍服は男の「凛々シズム」の極致?

美しく描いた「反戦映画」は「賛戦映画」になってしまうと思うのです。
歳を重ねるほど過去はやっぱり美しいものと誰しもが思いたいですからね。

それで、それでなんですが。
普通の人の普通の戦争は、高倉健や、永瀬正敏や、吉永小百合や、原田知代ではありません。

将校は一部のエリートですから、普通はみんな下っ端の兵隊です。
桜の樹の下で美しい恋人との別れもなく、一人戦場に行って寂しく死んでしまうのですよ、ふつうの人は、そんなもんですよ、ふつうの人は・・・・・・。
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好戦?・賛戦?・厭戦?・非戦?・反戦?長~い眼で!!

2006年10月27日 | 世間話し
「朝鮮民主主義人民共和国」こうやって書くと「ギャグ」になるけど、北朝鮮のことなんですけどね。

「金ちゃん」はやっぱり「壊れて」いるのですかね、でも、トップにうん十年君臨しているのですから、全部壊れているとは思えませんよね。

しかし、「あのような国」で、あのような「王侯貴族」の暮らしぶりは、何カ所かは間違いなく「壊れて」いますよね。

これまでの奥さんはみんな美人で、愛人がいたり、夜な夜な美女を侍らせ、酒池肉林の世界に戯れる・・・・・・。
この点は凡人ですね。そのような事が可能な環境にあるならば、誰でもそうしますよね、普通の男であれば、これは男の「生殖本能」ですからね。

まァ。そんなことはどうでもいいのですが・・・・・・。
やっぱり、「テポドン」とか「核爆弾」とかなんですよね、ふたつを組み合わせると核付き弾道ミサイルですからね。

「金ちゃんは、切れると何をするのか判らない」と、思っている人が世間には割といますよね。
「金ちゃん」もそれを利用して、これまで世界から「食べ物や燃料」を巧くせしめてきたのですからね。

「金ちゃん」は「危ない」と「思い、思わせ、そのふり見せ」ることを利用している輩達が居たりしてね・・・・・・・。お互いに「できレース」を「判って」いながらの「暗黙のゲーム」を継続していたりしてね・・・・・・。

悪いというか・・・、頭が良いというか・・・。いるんですよねェー「そんなの」が世間には。

「金ちゃん」がテポドンや、核爆弾を持つならば、我が日本も「核だァー、ミサイルだァー、迎撃ミサイルだァー、航空母艦だァー、爆撃機だァー、空中給油機だァー、原子力潜水艦だァー・・・・・・・」と興奮する人がいますよね。
みなさん。落ち着きましょうねホントニ、冷静さを失った方が負けなんですからね。

世の中には、
   兎に角戦争が 「好きな派」
   理由さえ正ければ戦争OK 「大義名分派」
   相手が武力を行使するなら 「やもを得ない派」
   怖いこと、残酷なことは 「やりたくない派」
   どんな理由があっても 「絶対反対派」

世の中には、いろいろな考え方がありますが、兎に角、落ち着いて、冷静にですよね。
こういう時、「大きな声で勇ましいことを叫ぶ人」は「金ちゃん」よりも危ないですからホント。ホントですからね。

冷静に考えましょう。
何で「金ちゃん」の国が、「トンデモ国」になっているのか?

共産主義と資本主義が対立し、熱く闘った時代があり、東西の冷戦があり、そして、共産主義国家は敗北して、熱戦も冷戦もなくなったですからね。
 ※中国は資本主義国家ですから

「金ちゃんの国」は世の中の流れに取り残された「博物館行きの国」なんですから、歴史の流れは「改革解放」しかないのですからね。

それに、北朝鮮は鉱物資源(石炭、鉄鉱石等々)が豊富で、政治体制が変われば豊かに暮らせる国ですからね。

 今日の結論
 みなさん。冷静に落ち着いて「なが~~~い眼」で見ていきましょう。

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柴又街道 ・穂高・ 演歌・ 原裕二? その2

2006年10月26日 | 東京の風景
それで、「クリーニング第一穂高」を過ぎて、柴又街道に戻りました。北総線の「新柴又駅」過ぎて、石柱の標識の斜め前に「その店」はありました。      

プラスチック行燈看板には「ラストナイト」の店名があり、上に小さく「原裕二の店」とかかれていて、通りに面した外壁の上に「日本コロンビアレコード・北のみれん唄・期待の新曲堂々全国発売!!・B面 望郷ふたり酒」と書かれていました。
   
いいですね~。 何と言っても柴又街道ですからね。
北、みれん、望郷、ふたり酒・・・・・・演歌の王道をいく言葉ですね。

きっと、きっと、頭は切々と語りかけるように、さびのところは上体を左右に揺すり、顔面を歪め強く叫ぶように、後半は寂しく呟くように、全体に小節を利かせた「ど演歌」が聞こえてきそうな・・・・・・そんな風景ですね。

看板には「裕二」さんの姿が描かれていたのですが、その時は、ほとんど印象に残っていませんでした。

ブログを書くにあたってネットで「原裕二」を検索してみたのです。
するとですね、看板に嘘偽りなく「北のみれん唄」は「期待の新曲堂々の全国発売」をしていました。
2001年3月17日発売になっていました。
そこに「原裕二」さんの写真が載っていました。
  
「ど演歌」のイメージとは異なり「信用金庫の職員」か「中学の国語の先生」の様な真面目な人に見えます。

うーん。やっぱり演歌は、冠二郎さんのよな「あの名前・あの顔・あのアクション・あの衣装」でないといけませんね。

「原裕二」さんは、先ず名前が「ふつう」、顔が「ふつう」でインパクトが弱いですね。

ネットでいろいろ調べていたら、何か他人とは思えなくなりました。
原祐二さん、いつかあなたがNHKテレビの歌謡番組に出演されることを影ながら応援しております。

  ガンバレ 原 裕二      

 
     ※きょうの結論
        「柴又街道は演歌の似合う道である」




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柴又街道 ・穂高・ 演歌・ 原裕二? その1

2006年10月25日 | 東京の風景
先日、゛柴又街道 ゛を歩いてきました。金町から柴又街道は始まります。
京成金町線の金町駅から一つ目の駅、帝釈天のある柴又駅までは線路を右手に見て歩きます。


柴又駅前を過ぎたところで、柴又街道からを少し外れて、裏道を歩いていたとき、それは、突然目の前に現れました。
面白い? 変わった? 似つかわしくない? ネーミングのクリーニング屋さんでした。

写真では見にくいのですが、看板に「クリーニング 第一穂高」と書いてあります。「第一穂高?」といえば「アルプスの穂高連峰」をイメージします。クリーニングとは「しっくり」つながりません。

主人の苗字が「穂高」さんで、穂高さんの「一号店」?
主人の出身地が長野で「第一穂高高等学校」の卒業生?
主人が登山が好きで「穂高」の名前を店名に付けた?

「素人手書き風」看板に「クリーニング第一穂高」
灰色のモルタル外壁に、「前衛的?」模様のヒビ割れの修復跡。

隣が何と「前衛党」の機関紙「赤旗」の販売所。
何と、「前衛的ひび割れ」は販売所にも達しようとしています。
これでは、「前衛的ヒビ割れ」が「ヒビ割れた前衛?」に見えてきます。

志位さん深い意味はありません「ジョーク?」ですからね・・・・・・。(笑)


それでもって。話しは、かなり「トビマス、トビマス」

クリーニング「第一穂高」と何回か書いているうちに突然、頭の中にホントに突然浮かんだのです。

それは「中華第三楼」という名前です。「第」つながりですね。
それと、柴又街道の町並みから連想される「都会の片隅感・・・寂しさ・侘びしさ・悲しさ」そんな風景が、「中華第三楼」を思い起こさせたのでしょう。

それで、「中華第三楼」なんですが、むか~し、昔の、映画に登場する「店」の名前なんです。

主演が「伴淳三郎」。そう「バンジュン」と呼ばれていました。
古いですねェー 

地方から東京に出て来た男が故郷の友人達に、自分は成功して「中華第三楼」という大きな中華料理店を経営していると知らせたのです。

それを知った故郷の友人達が、上京して来て住所を基に「中華第三楼」を探したのですが見つかりません。

夜になり、路地裏の屋台の「中華そば屋」に入ったところ、そこに「バンジュン」演ずる男がいたのです。
屋台の提灯には、小さく「中華第三楼」書いてあった・・・・・・・。

「チュッピリ悲しい人情喜劇」そんな話しが似合うのが柴又街道ですね。


          演歌に、つづきます。
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堀之内のお祖師様・帝釈天・ まん月の狸

2006年10月24日 | 食事の話し
先日の日曜日に、お墓参りに行ってきました。
杉並の堀之内です。

朝が遅かったので、2時過ぎに昼食を摂りました。
そば屋を探して、妙法寺周辺を歩いてみたのですが、そば屋は見つかりませんでした。

環七を越え、はじめて「帝釈天通り商店街」を歩いてみることにしました。商店街が終わりかけ、引き返そうと思った時です、前方にそば屋らしい「暖簾」が揺れているのが見えたのです。

「もしかして」と思い、近づいてみたのです。「そば」の文字が眼に入りました。「ヤッター」と思いました。

店内に入ると「おッ。なかなかの店ではないか、これはもしかして当たりかな」とインテリヤ・照明・店員の服装から、そう思ったのであります。

半端な時間なのに、そこそこ客が入っていました。
先ずはメニューを拝見。配偶者は「冷やしタヌキ」、私は「辛み大根そば」を注文。この日は暑かったですね。

しかし、しかしですね、二つ先の席で食べていたのは、何と「鍋焼きうどん」同年配の夫婦です。かなり「夫婦関係」が「冷え切って」いるのか?

そうです。「うどん」を商っている「そば屋」なのです。

私は配偶者に言いました「ここのそばは、あまり期待できないねかもしれない」
配偶者は「もォー。食べる前にそんなことを言ってェ」と注意されたのです。

10分ほどして注文したそばがテーブルの上に置かれました。
見た瞬間、これは「もしかして当たりかも?」と思いましたね。

「そば」は細く、角がキッチリ出ていて、表面が艶やかに輝いていました。
一本、口に入れました。堅さが「グット」でした。
箸で摘むと、そばの香りがしてきたのです。店の貼り紙にある「新そば」に間違いない。

「そば粉」グット。「打ち・切り」グット。「茹で」グット。 トリプルグット
「つゆ」を浸けて、先ずは最初のひと啜り「つゆ」も「甘さ・辛さ・旨味」グットでした。

それに加えて、そばの量もグットでした。この手の店は量が少ないのです。
いつもは「大盛り」なのですが、この日は「大盛り」にするのを忘れていたのですが、まったく問題ありませんでした。

確かに、「旨い」そば屋はあります。
近くにある環七沿いの「田中屋」は旨い。けれど高くて量が「極端」に少ないのです。価格と量から比較して、通常の4倍ですね。
まァ。「そば」を「味わう」のではなく、「高級感」を「味わう」店です、ああいうお店は、たかがそばですョ・・・・・・ねェ。

「威張るな!ぼるな!」有名店!!!・・・・・・関係ないか。 


 ※この日は、デジカメを持っていかなかったので、携帯で撮りました。
       

そうだ。ここまで店名を書いていなかった。
店の名前は 「まん月」です。

お墓参りコースに入れる事に決定  

美味しい「そば屋」を発見し、いいお墓参りになりました。



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どうしちゃたんだろ? 藤圭子は???

2006年10月23日 | その他
兎に角、ホントに懐かしかったのです。
何十年ぶりに「あの藤圭子」がしゃべるのを見ました。

昨日、「日本シリーズ」の中継で1時間以上遅れて、やっと画面に映ったのです。
すっぴんに近かったけれど、「娘」より美人です。娘は「怪しい感じの親父」に似ているのでしょう。

それで、あのアメリカでの「大金没収・麻薬疑惑」について、「ワンボックスカー」のなかで、早口でしゃべりまくっていました。

「5000万程度の現金はいつも持っている」

「パスポートを見て、この五年間は世界中を旅していて、日本にはほとんどいない」
「一人で世界中のカジノを回り、高級ホテルのスィートに宿泊して、移動はファーストクラス」

「年間、一億円ぐらいは使うから」

話している画面の下にテロップで、彼女の昨年の収入は1億7千万と流れていました。娘の所属事務所の社長としての収入だそうです。

驚きましたね。しかし、一人で大金を抱えて、博打をして世界を歩いている何て、いったいどういう生活なのか?

昔、引退する少し前だったと思うのですが、誰もいない、日比谷野音の客席に座りインタビューに答えている彼女を思い出すのです。

その時、白のブラウスに黒のタイトスカートであったと記憶しています。

「唄う事は楽しくない」
「歌のイメージと本来の自分とではギャップが大きすぎる」

そんな内容の話しをしていた記憶があります。その時は引退することには触れていなかったと思います。

彼女の歌は「演歌」ではなく「怨歌」だと言われていました。

当時、五木寛之の演歌小説が売れ、その主人公の演歌のプロデューサーが、北の寂れた漁港の居酒屋、一人カウンターで『演歌は不幸でなければ唄えない』と顔に皺をよせ、手にはコップ酒、遠くを見つめて呟くように言うシーンがあった・・・・・・・ような気がした。

そんな時代の中で、「小説と怨歌」のイメージにぴったりな、幸薄い、影のある歌手「藤圭子」・・・・・・・という記憶があります。
私も、当時そういう藤圭子が好きでした。

しかし、日比谷野音でインタビューを受ける藤圭子は、別人だったのです。
明るくて、良く笑い、良くしゃべる女性だったのです。
そんなギャップに苦しみ、彼女は引退を決意したのでしょう。
引退した時、私はそう感じました。

そして、今、50代になった藤圭子。
悲しいけれど(何故か悲しそうに見えたのです)。今、彼女の「歌」が聞きたいと思うのです。ここまで、いろいろなことがあったと思います。

焼酎を片手に、画面の藤圭子を見つめ「今のあなたの歌が聴きたい、唄ってほしい」そう思ったのです。



新宿のお寺「大聖院」境内で見つけた「新宿のおんな」の碑。
去年、「太田道潅」の関連で、大聖院に「紅皿欠皿」の碑を見に行った時に、たまたま出会いました。

誰も居ない境内、ひとり碑の前で呟くように唄ってしまいました。
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銀座チョウシ屋のコロッケパンと林家「こぶ平」師匠 その2

2006年10月22日 | 食事の話し

それで、そのコロッケパンなのです。見た目ボリューム感はOKですね。

コロッケの味は「う~ん、まァ~そのォ~、合格点かな」期待を裏切らない味でした。

コロッケパンは庶民の味ですから、そう「ぶったまげる」美味しさではないですからね、美味しさに「感動」・・・ということはないですけどね。

それとですね、銀座3丁目と聞いていたので、それなりの構えの店と思っていたのですか・・・・・・。

同じ、庶民の食べ物を商う、「漬け物、佃煮」の店のなかには、ピカピカで豪華な店構えのビルの一つも建っていますが、やっぱりコロッケ屋は「利幅」が少ない?

贈答品・東京みやげ・地方発送・全国展開とは行きませんよね、コロッケパンは、裏通りでひっそりが似合いますね。
表通りのピカピカ豪華なお店で「コロッケパン」を売っていても、買わないよね、きっと。

「コロッケパン」は裏通りで「ひっそり」と商うものなのですね。
そうです、そこでなんです。

そこで、そこでですね「こぶ平」師匠の話です。
「正蔵」襲名の前にですね、お合いして話しをした・・・・・・訳ではなく、タダ、テレビでしゃべっていたの、ビールを飲みながら聞いてただけなんですが・・・・・・。

そう「裏通り・ひっそり」の「青木屋のコロッケパン」のことなんです。
師匠は『ここのコロッケパンは旨いよ』と言ったのを聞いたのです。

そして、私は直ぐに「青木屋」の「コロッケパン」を食べにに南千住に行ったのです。
しかし、しかしです。青木屋には裏切られました。いや「こぶ平」に裏切られました。

青木屋のコロッケパンの「ポテトコロッケ」がいけませんね。
私的には「コロッケ」として認めることにはできません。

『断じて出来ないのです!!』そんなに「リキ」まなくてもいいのですが     

青木屋のコロッケは「マッショポテトのパン粉揚げ」でした。
じゃがいもを「擂りつぶした」だけの味しかしませんでした。「純粋ポテトコロッケ?」「プレーンポテトコロッケ?」と呼ぶべきものです。

しかし、後で家に帰って考えたのです。
あの、食い道楽のおぼっちゃま゛こぶ平゛師匠が、全国のコロッケパンを食べ尽くし辿り着いたのが、青木屋の「純粋ポテトコロッケパン」ではないのか?

あの「こぶちゃん」いや。「正蔵師匠」が「旨い」と仰ったのですから、あの味こそが「究極」の「ポテトコロッケ」ではないのか、あの味が判らない私こそ、修行が足らない未熟者であると・・・・・・・。

「庶民」の食べ物・・・・・、「おやつ」として、ご飯の「おかず」として、ビールの「つまみ」として、最近では、「そばのタネ」として・・・。

コロッケは最高です。


いつか、青木屋のコロッケを食べて「旨い」「感動した」と言えるように頑張る所存です。 

寄席の客席で、青木屋のコロッケパンをかじりながら正蔵師匠の落語を聞いている客がいたら、それが私です。

今日の結論
「コロッケパン」は青木屋に始まり、青木屋で終わるのだ!!!


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