孫は可愛いと言いますが「ホントにホント」に 可愛いですよ。
よく「眼に入れても痛くない」と言われますが、この言葉は「可愛い」ことを強調した、単なる「比喩」と思っているでしょう、皆さん。
これは違いますねェ ホントに眼のなかに入れても「痛く」ない気がするのです。ホントですよ!!!。
みんなで一緒に 食事をしました。
ホントに・ホントに美味しかったァ~
先日、小津安二郎監督の映画「東京物語」のロケ地を歩いて来ました。
私が「東京物語」を観たのは、年齢からして当然リアルタイムではなくビデオです。東京物語は1953年の製作ですから、当時、私は未だ3歳です。
上野の科学博物館脇の道路を隔てた先に「寛永寺旧本坊表門」があります。
この門前の石垣に老夫婦の「笠智衆」と「東山千栄子」が腰掛けていたのです。
二人は、戦死した次男の「嫁・・・原節子」のアパートを訪問する前に、ここで時間潰しをていました。
そのシーンで、カメラがゆっくりと移動して、門の脇にある石柱を撮していく行くカットがあり、その後で座っている二人の姿が映ります。
石柱に彫られた寄贈者の名前を読んでいるような不自然なカットなのです。
一番下の写真程度の大きさの画面でした。
劇場のスクリーンで観ていたら、寄贈者の名前がかなりの「ドアップ」で映し出されたでしょう。
小料理屋、企業名がかなりあり、本編に「CM」をもぐり込ませたようなカットで、以前から、不自然なカットだと感じていました。
そして、この日、50年以上前に撮られた石柱を、いま眼の前にしていることの不思議。当たり前なのですが、映画の中とまったく同じ名前がそこには彫ってあるのです。
話しはそれますが、この日、あの有名な洋食屋の「ねぎし 香味屋」の石柱を発見しました。メンチカツが食べたくなったりして、あそこは、やっぱり、一人で行くには寂しいですからね・・・・・・。
話しは戻ります。
そのなかで、以前より頭の中に残っていたのが「ねぎし・不二ネオン」という企業です。当日、あらためて現物をじっくりと眺めました。
飲食業の多いなか、そして「漢字・平仮名」表記のなかに、ただ一つ「ネオン」という「カタカナ」表記の企業名。
現物は、やっはり「不二ネオン」と刻まれた石柱は異質に見えました。
半世紀以上前に制作された映画の中に描かれた情景と、現実の情景を重ね合わせていると、何か不思議な感覚・・・・・・映画の世界に迷い込むような感覚に囚われるのでした・・・・・・。
そうです。それで「不二ネオン」のことなんです。
家に戻り、気になってネットで調べてみたのです。
便利ですねェ~ネットは!
いろいろ判りました。「不二ネオン」のことが。
それは「社団法人全日本ネオン協会」のホームページに載っていました。
そこで理事の人が書かれた「エッセー風の文章」で、東京物語に映し出された「不二ネオン」のことを書いているのです。
それによりますと、「根岸の不二ネオン」は転業して現在はないそうです。当時、業界ではかなり知られた会社であったそうです。
あの銀座四丁目交差点にあった初代「森永製菓」のネオンを製作したのがこの会社だそうです。
日本画家の「横山操」という人が「不二ネオン」で働いていたそうです。働いていたと言っても「ネオンの取り付け工事」ではなく、画家ですから「デザイン」の仕事をしていたんですね。
「横山さん」は当時そこそこ名は知られていた画家だったようです。その横山さんが小津と交友関係があったらしいのです。
それでですね、ここからは私の推測なんですが聞いて下さい。
『東京物語の撮影の際に、寛永寺あたりをロケハンでブラブラと歩いていたんですね小津が、その時、たまたま眼に入ったのです。「不二ネオン」と刻まれた石柱が。そこで、咄嗟に思い付いたのです、横山を驚かしてやろうと・・・・・・』
面白半分の「楽屋落ち」的な発想でいれたのです。そうです、きっとそうですね。
※きょうの結論
東京物語に出てくる「不二ネオン」のカットは小津の「悪戯こころ」であった。
※こんなどうでもいいことを調べるのって、楽しいですね。
先日、東京からの帰りに遭遇したのです。
一番先頭の車両に乗りました。最近はここが指定席です。
途中の駅で運転手が交代になりました。
交代の運転手は、帽子からはみ出した髪には白髪が混じり、定年を間近にしたベテランのように見えました。
入り口ドアーの閉め方・閉めた後の確認の仕方、鞄の定位置への置き方、運転レバーの装着・確認の仕方、各計器類の確認、運行表の確認、乗降ドアーの開閉ランプの確認、発車の合図、レバーの握り方、前方を見つめる眼差し、座る姿勢、すべてがカッコイイのです。動きに無駄がなく、ベテランの落ち着きを感じました。
私はそんな様子を顔はまっすぐ前に向け、目だけを運転席に向け観察していました。
彼は私の視線を当然意識していたでしよう。
中年の変な「おっさん」が空席だらけの車両で、運転席の後ろに立って、ガラスに顔を近づけて、前方を眺めているのですからね。
駅を発車してて、5分ぐらい経ったでしょうか、前方に歩行者専用の跨線橋が見えてきました。
距離が縮まり、橋の真ん中辺りに、 おばあちゃんが、 孫を抱えて立っているのが確認できました。
ふたりは、こちらに向かって手を振っていました。
よくある風景です。
その時、運転席に視線を向けると、驚いた事にその運転手は、左の手のひらを肩のところまで上げて、手を振ったのです。
口元が一瞬緩んだように見えました。きっと。橋の上にいた子にも見えたと思います。
こんなことに出会うのが楽しいのです。
それで、そのコロッケパンなのです。見た目ボリューム感はOKですね。
コロッケの味は「う~ん、まァ~そのォ~、合格点かな」期待を裏切らない味でした。
コロッケパンは庶民の味ですから、そう「ぶったまげる」美味しさではないですからね、美味しさに「感動」・・・ということはないですけどね。
それとですね、銀座3丁目と聞いていたので、それなりの構えの店と思っていたのですか・・・・・・。
同じ、庶民の食べ物を商う、「漬け物、佃煮」の店のなかには、ピカピカで豪華な店構えのビルの一つも建っていますが、やっぱりコロッケ屋は「利幅」が少ない?
贈答品・東京みやげ・地方発送・全国展開とは行きませんよね、コロッケパンは、裏通りでひっそりが似合いますね。
表通りのピカピカ豪華なお店で「コロッケパン」を売っていても、買わないよね、きっと。
「コロッケパン」は裏通りで「ひっそり」と商うものなのですね。
そうです、そこでなんです。
そこで、そこでですね「こぶ平」師匠の話です。
「正蔵」襲名の前にですね、お合いして話しをした・・・・・・訳ではなく、タダ、テレビでしゃべっていたの、ビールを飲みながら聞いてただけなんですが・・・・・・。
そう「裏通り・ひっそり」の「青木屋のコロッケパン」のことなんです。
師匠は『ここのコロッケパンは旨いよ』と言ったのを聞いたのです。
そして、私は直ぐに「青木屋」の「コロッケパン」を食べにに南千住に行ったのです。
しかし、しかしです。青木屋には裏切られました。いや「こぶ平」に裏切られました。
青木屋のコロッケパンの「ポテトコロッケ」がいけませんね。
私的には「コロッケ」として認めることにはできません。
『断じて出来ないのです!!』そんなに「リキ」まなくてもいいのですが
青木屋のコロッケは「マッショポテトのパン粉揚げ」でした。
じゃがいもを「擂りつぶした」だけの味しかしませんでした。「純粋ポテトコロッケ?」「プレーンポテトコロッケ?」と呼ぶべきものです。
しかし、後で家に帰って考えたのです。
あの、食い道楽のおぼっちゃま゛こぶ平゛師匠が、全国のコロッケパンを食べ尽くし辿り着いたのが、青木屋の「純粋ポテトコロッケパン」ではないのか?
あの「こぶちゃん」いや。「正蔵師匠」が「旨い」と仰ったのですから、あの味こそが「究極」の「ポテトコロッケ」ではないのか、あの味が判らない私こそ、修行が足らない未熟者であると・・・・・・・。
「庶民」の食べ物・・・・・、「おやつ」として、ご飯の「おかず」として、ビールの「つまみ」として、最近では、「そばのタネ」として・・・。
コロッケは最高です。
いつか、青木屋のコロッケを食べて「旨い」「感動した」と言えるように頑張る所存です。
寄席の客席で、青木屋のコロッケパンをかじりながら正蔵師匠の落語を聞いている客がいたら、それが私です。
今日の結論
「コロッケパン」は青木屋に始まり、青木屋で終わるのだ!!!