昨日の続きです。
今日も、イタリアは、シチリア島の、パレルモを歩いて?ます。
一瞬、コンパクトで化粧を直しているのか?と、携帯で写真を撮っていたのです。
“少女”のようです。所謂少女と云うのは、まぁ、7~8歳から15~6歳を云うのでしょうか、この子は見たところ、12~13歳ぐらい?の“少女中期”と見ました。
わたくしの孫も、今年からは小学一年生で、5月には7歳になり“少女前期”となります。わたくしは今年で60歳になり“高齢者前期”で“お年寄り”の仲間入りです。
少女中期の観光客が撮っていたのは、こんな路地の写真。かなり好みが“渋い”ようです。
少女よ!覗くだけ!撮るだけ!絶対に脚を踏み入れてはいけません。
でも、私は、高齢者前期ですから、それなりの覚悟をもって、薄暗い中世の匂い漂う路地に、ひとり果敢に脚を踏み入れます。
この感じ、この佇まい、煌びやかな、繁栄の、豊かさの、歴史と伝統の、そんなヨーロッパの裏側を見るような気がします。ひとりでぶらつくのは恐いです。でも、ぶらつくのです。
もし、腕にタトゥー、眼にはサングラス、手には鎖、そんな怪しい男の二人連れが、こちらに向かって近づいてきたら、すれ違うまでの緊張感、不安感、恐怖感で、迷わず、即座に、回れ右して、その場から全力疾走です。
でも、しかし、幸いにも、怪しい二人連れは現れず、長閑な二人に遭遇。
確かに、手前の男性の片腕にはちょっぴりタトゥーが見えますが、無防備で、完全なお昼寝状態。
こちらは、少女とお母さんの二人連れ、お母さんは肩に掛けたバックの中を確認中です、これから近所に買い物に出掛けるのか? それとも買い物途中の休憩タイム? 少女の疲れた様子から休憩タイムのようです。
こう云う路地裏は、パレルモの一般的な人達にとって、それなりに“パレルモ的風景と思うのか、それとも、よその国からの観光客には、見せたくない、一般的でない、普通でない、“裏パレルモ的風景”なのか?
我が日本国でもそうなのですが、偶に観る、海外の放送局が東京などを取材した映像に、日本人が観ても珍しく、一般的でない、普通でない、風景や光景を捉えた映像を眼にします。
取材される側の見せたいもの、取材する側の見たいもの。取材される側と、する側の、“その国、その街らしさ”に対する認識の相違。
取材する側とか、よその国からの観光客は、まっ白な状態で見る訳けではなく、それなりのイメージを抱き、イメージに近い風景や光景に目が向けられるのが普通です。
パレルモも旧市街と新市街があるようで、観光客はやはり旧市街に興味を示すのが普通です。新市街はどこの国でも同じような風景ですから。
旧市街が、それなりに、落ち着いて、静かで、明るくて、清潔で、美しくて、歴史と伝統と文化の匂い漂う場所だけなら、それは問題ないのですが、騒がしく、暗くて、不潔で、汚らしくて、朽ち果て、うらぶれた、風景や光景は、見せたくないのが、普通だと思います。
今回歩いた、旧市街の路地裏は、見せたくない、見られたくない、そんな感じが漂う旧市街でした。燦々と輝く太陽、青い空、白い雲、美しい地中海に浮か島のイメージとは、かなり異なるパレルモでした。
NHK“世界ふれあい街歩き”は、偶に、こんな処も歩くのです。でも、見せたくない、見られたくない、隠したい、そんな処ほど、見たくなる、覗きたくなるが人情です。
でも、今回の路地は、覗いたけれど、“だから、それで、どうしたの?”程度の風景、光景でした。こんな事も、偶にはあります。何だか、よく解らないところで今日はお終い。
それでは、また明日。