はい、暫くのご無沙汰です。
方丈記、鴨長明をまだやっております。
そして、今回が最終回となります。
それにしても、長明さんは、晩年いろいろと書き記しているようです。
57歳から没年にかけて、和歌関連の『無名抄』、58歳で『方丈記』、60歳には仏教関連の『発心集』を書き記しているのです。そして、62歳で没。
今から800年まえですから、出版社も、印刷会社も、取次会社も、書店も無い時代、自筆で書き記した原本を、友人知人に貸し出して、借りた人が気に入れば、書き写して、ネズミ算的に世に流通する方式?
方丈記の原本は残っていないようで、現在残っているのは写本だそうです。原本は本人の手元に置いて、亡くなったとき、遺体とともにあの世に?
『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』
人の世は、儚く、虚しく、移り変わり、消え去り、とどまることは無く、ですから、本人の遺言で、遺品ははすべて、原本も含めて、遺体とともに焼却?、埋葬?、された?
それで、前回にも触れたのですが、鴨長明の、すみか、家、住居、屋敷、大邸宅への拘りについての解釈です。
ここで、大胆にも、ずばり結論を述べると、方丈記は、彼の世俗的な欲望に対する、裏返しの、逆説の、葛藤の表れと解釈します。
『・・・世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』の「すみか」ですが、これは、彼が意識する、しないに関わらず、単なる住居だけではなく、権力を、公職を、表現していたと考えます。
住居、「大きな家」は、おおきな屋根で、「おおやけ」であり、「公」で、天皇、朝廷を、支配権力を意味します。
それと、鴨長明さんが生きた時代ですが、平安の貴族社会が衰退し、戦闘集団の武士へと、権力が移行しつつある時代でした。
鴨長明は貴族として、没落してゆく階級に所属していた方ですから、個人的事情に、社会的な背景が重なり、『・・・世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』で、方丈記へとつながっていったのだと考えます。
18歳で父を亡くした頃より、公職から遠ざかり、自然災害、天変地異、飢餓、疾病の流行を経験し、禰宜後継争いに敗れ、隠遁生活に入り、57歳で、再度、公職へ挑戦して、藤原定家との争い敗れ、方丈記で、4年後62歳で没。
最後の最期まで、公職の地位に執着していたのです。
「公職・地位=大きな家」など、地震や火災でひとたまりもなく、崩壊し消え去ると云いつつ、でも、しかし、手に入れたかったのです。
敷地の広さや、門構え、母家の立派さは、公職の地位によって変化するもの、より大きな家を手に入れると云うことは、より上位の公職を、地位と名誉と富を、手に入れることです。
小さな家に、みすぼらしい家に、住むと云うことは、地位も名誉も富も、まったく無いと云うこと。望みが叶わぬたびに度に、運の悪さを嘆くたびに、
『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし。』
を、何度も、何度も、こころの中で呟いていて、こころの平安を保っていたのです。
彼は、心の中で、かなり強く、地位、名誉、富、を欲していたのです。
しかし、それが叶わず、夢幻とし消え去り、死期を迎えて、自らの一生に思いを馳せて、それなりに、価値のある人生だったとして、自分自身を納得させるために、方丈記を記したのです。
心の中で、ひとり呟くだけでなく、書にしたため、それを友人知人に、配り、回覧させ、世俗的欲望の愚かさ、虚しさ、儚さを説いた行為。
あばら家暮らしの、意味を、価値を、世間に知らしめ、書として残した行為に、世俗的欲望への想いが、断ち切れなかったことの現れです。
そして、不運の度に呟いた『ゆく河の流れは絶えずして、・・・又各のごとし』を方丈記の冒頭に記したのです。
世の中は、常に変化しとどまることは無いのです、しかし、方丈記は800年の歳月を生き抜いて、いまでも、その心情は、美意識は、それなりに共感を得ているのです。
いつの時代においても、人は、ときおり、立ちどまり、儚さを、虚しさを、運の悪さを、嘆き、呟き、無常観に浸るのです。
方丈記は、それなりに、生きていくためには必要なのかも・・・。
成功者にとって、方丈記は負け犬の遠吠え ?
これで、5回にわたった「鴨長明の方丈記シリーズ」を終わります。
それでは、また。