歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

坂野家住宅で寂しく、侘びしく、せこく、情けなく・・・・・・

2009年12月15日 | 建物の話し
昨日の続きです。

午前中は、“gooブログ”のシステムメンテナンスの為に更新できませんでした。午後からの更新は、とても、何か、調子がでにくいのです。

でも、しかし、本日は、坂野家住宅の最終回ですので、1日空白があった後での最終回も、何だかな~~と思いつつ、昼食後であろうと、ココは一つ、頑張って、何とか、決着をつける所存であります。

昨日に続き、庭先をウロキョロしております。


それらしく、添え木を施し、無理矢理?枝に捻りを加えているような? そんな分けではないの?


真白い漆喰の壁、真白い障子、とてもイイです。


主屋は二重の塀に囲まれているのです。


この紫の実をつけているのは何でしたっけ? “紫式部”何て品種もありますが、これではなかったような・・・・・・。


こちらは、江戸時代の風景です。


主屋の方から見る、重要文化財の薬医門。


大八車があります。“大八”が有れば、“中八”とか、“小八”とかも有ったりして、前回書いた、裏庭の小さい車輪は“小八車”のものだったりして・・・・・・・。冗談です。


これで、ほぼ、坂野家住宅の見学は終わりです。


見学料金300円を払った分けですが、まぁ、それなりに、適正な料金だったような、チョット物足りないような気も、有るような? 無いような?

そうでした、300円も!払ったのですから、入場者にパンフレットの一枚も配ったら如何なモノかと、薬医門をくぐり、主屋を振り返りつつ、思ったのであります。

最終回は、かなり、寂しいと云うか、侘びしいと云うか、せこいと云うか、情けない感想での締めくくりとなってしまいました。

テンションが完全に下がったところで、お終いとなります。


明日からは、何を書こうか?


それでは、また、あした。


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坂野家住宅で庭から眺める月波楼

2009年12月14日 | 建物の話し
先週の続きです。

月波楼から、主屋の茶の間を抜けます。ここには何代目?かの当主ご夫妻肖像画の掛け軸がありました。


お二人の髪型、とくに奥さんの方からは、大正から昭和の初期の当主かと?思われます。ここには、家系図があったような気がしました。写真に撮ってくばヨカッタァ!と、今になって思うのです。


茶の間を抜け、土間に下り、裏庭に出ます。主屋と書院を繋ぐ太鼓廊下、苔の生えた地面は大正ロマンです。


この風景、これは、かなり、計算された演出です。江戸の匂いを感じます。ドラマ撮影時の背景としてセッティングされ、それがそのまま残されたような?


大きい方は大八車の車輪ですが、大八車は二輪車です、残る二つの小さい車輪は何でしょうか? 坂野家住宅は、かなり時代劇の撮影現場として使われているのです。

“大きい車輪”の方が、小さい車輪より、車軸の入る穴の内径が“小さい”のです。そこのところが、何となく、とても気になったりして・・・・・・。

裏側も、それなりにイイのです。


このあたりの湿っぽさに、時代の想いとか、時の移ろいとか、物語とか、いろいろなものが、漂っているような・・・・・・・。

口の小さいこの瓶は、油でしゅうか? 酒でしょうか? それとも醤油でしょうか? もしかしてお酢でしょうか? なにを入れていた瓶?

北側からの月波楼。


南側からの月波楼。


庭の植木越しに望む月波楼。


文人墨客達も、庭をそぞろ歩き、いろいろ語りあったのでしょう。


こちらは主屋です。


本日は、これで、次回は主屋の方を眺めます。

今日は、何だか、眠い。

それでは、また明日。

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坂野家住宅は月波楼の大正ロマン

2009年12月11日 | 建物の話し
昨日の続きです。

まだ、月波楼の二階に居ます。

この時、二階には見学者も居ませんでしたので、一人座敷の中央に座り部屋をぼんやり眺め、当時ここに集った文人墨客に思いを馳せたのであります。


説明板に東京からも文人墨客が訪れたと記されていましたが、固有名詞の記述はなく、それなりに著名な人たちが訪れていた様子はなさそうです。なかには、食いっぱぐれの“自称文人墨客”が居候などしていたかも?

江戸から明治かけての、第11代当主の久馬、第12代の信寿は、文人としても知られていたそうで、久馬は“耕雨”、信寿は“行斎”と名のっていたようです。

“文人”の父や、祖父に育てられ、そのあとを継いだ大正の当主が、この月波楼を建て替えたわけです。そうなると、先代、先々代より、ずっとずっと文人意識が強かったと思うのです。


文人は生産よりも消費ですから、そうなると、よくある話で、祖先代々の財産を食いつぶしてしまう危険が高まるのです。

この月波楼に文人墨客が集った大正時代が、もしかして坂野家が一番輝いていた時代だったのかと、畳の上に胡座をかきつつ、そんな想いを巡らしたのです。


でも、しかし、坂野家は大正ロマンの時代を乗り越え、今に続いているのですから、文人当主には食いつぶされなかったようです。

裏に眼をやると、それなりに新しい立派な蔵が建っていますし、


その隣には、たぶん、現在のお住まい?と思われる、新しい立派なお家も建っております。


静かで落ち着いた大正ロマン漂う座敷で、他人様の懐など、余計な心配をしてしまいました。あくまでも、私の、勝手なモウソウです。

モウソウから覚め、モウソロソロ一階に降りるかと、階段に向かうと、洒落たデザインの“ツマミ”と云うか、“取っ手”云うか、雨戸を内側から開け閉めする、戸袋の引き戸に付けられて三日月の細工。これは、なかなかと思いました。


でも、しかし、視線を移すと、このチョーク書き“オィ!オィ!チョット!チョット!”でした。


そも、そも、ですよ、雨戸一枚も文化財です、この感覚はどうにも、いけません。三日月の細工が台無しです。

せっかく大正ロマンにひたっていたのが、この大胆なチョークの矢印で現実に引き戻されました。

“引き戸で引き戻されでは洒落にならん!”な~んて、駄洒落の一発を、一人呟いたのであります。兎に角、300円も払ったのですから、少しは云わせてもらうのです。

それで、まだ、坂野家住宅の見学は今のところ、だいたい200円分は見たようなので、残りの100円分をこれから見たいと思います。

残りは、外回りです。庭の方向から建物を眺めて見たいと思います。まだ、まだ、続く坂野家住宅です。

それでは、また来週。


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坂野家の月波楼はキンチョーの夏で二階です。

2009年12月10日 | 建物の話し
昨日の続きです。

“月波楼”の二階に上がります。それにしても、「月」に「波」に「楼」は、見た目には美しいのですが、読みが“ゲッパロウ”とあまり耳に心地良くありません。

楼は楼閣で、摩天楼ですから、高い処なのです。人は見上げるよりも、見下ろす方が心地良いのです。財力もあり、広大な敷地を所有する坂野さんが、二階建てにしたのは、眺望を楽しむ為であったと思います。


階段を上がり、見下ろすとかなりの勾配です。むかし、むかしの家は階段と云うよりも、梯子段に近いのです。これって、むかしの人は足腰が強かったからなのでしょうか? 


まぁ、まぁ、の、お庭です。


こちらの竹林の眺めがいいです。


こちらは主屋、


瓦屋根ですと、ここには“鬼瓦”が積まれる位置ですが、この“寿”の文字、色違い?か、 品種違い?の、藁か茅で造られているようです。こう云うの初めてみました、何て云うのでしょうかね。


説明板にあった、当時としては、最新式の“巻き取り式日除け”です。でも、しかし、これって、“風情”とか、“情緒”とか、“趣”とかに、かなり云うか、相当と云うか、良くない影響を与えそうです。

ここは、やはり、日本家屋で書院造りですから、何と云っても日除けは“簾”でしょう。


夏は簾越しに竹林をぬけた風、風鈴の音、浴衣に団扇で冷酒をかたむける・・・・・・、う~ん。一度やってみたい。それにしても、竹林と云えば藪蚊が付き物ですから、蚊取り線香を相当焚ないとね。“キンチョーの夏、ニホンの夏”


この月波楼には、東京から“文人墨客”が集まったそうですから、きっと夏にはそんな風景が見られたかもしれません。冷酒の前に先ずはビールですかね。


ふすま絵、


かなり“シブイ”です。


この書院を建てた当時の当主は、文人だったようです。お金が貯まると、ふつうの人は誰しも、それにふさわしい、地位とか、名誉とか、教養とか、欲しくなるのです。


そんなことを思いつつ額を見上げていたら、天井に変なモノを発見。


戸の下に取り付ける“戸車”のようです。何故?天井に? ココに紐など通してモノを上下させたり、ぶら下げたりして滑車として使用したような?でも、何を?紐に結んだの? 重いモノはムリですから、書画などを吊り下げ鑑賞したのでしょうか?


まぁ、何をぶら下げようが、上下させようが、兎に角、やはり、月波“楼”ですから、見下ろす眺めの、二階が良いのでした。

まだ、まだ、坂野家住宅の鑑賞は続きます。


それでは、また明日。


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坂野家住宅の月波楼は“つきなみろう”ですか?

2009年12月09日 | 建物の話し
昨日の続きです。

江戸時代の主屋から、明治大正時代に移ります。

主屋から書院へ


障子に、柱に、濡れ縁越しのススキ。“わび”と“さび”の風景です。


この太鼓の渡り廊下は最近のものです。思い出します、母の実家の寺にも、むかし、庫裡と本堂を繋ぐ太鼓の渡り廊下がありました。


“月波楼”だそうです。月波楼と云えば、あの、世界に誇る“桂離宮”です。坂野さんも、かなり、大きくでたものです。

でも、もしかして、“月波楼(げっぱろう)”と読むのでは洒落にならないと、文人として来客に謙遜しつつ、「つきなみろう」と云って笑いをとっていたのかもねェ。


渡り廊下の先の壁際にはオルガンです。新しいモノは好きなようです。


立派なお部屋です。


天井にも飾り細工を施しています。


あかり取りに、


違い棚に、書院に、


こちらは、庭の眺め。


あちらには、女性のグループ。


こちらは北側の廊下です。うす暗い湿っぽさが懐かしい。


書院の欄間。


奥は、手水場です。この感じ、母の実家の風景を思いだします。夏になると、こんな廊下に座って、スイカやトウモロコシや真桑瓜を食べたものです、薄っすらと手水場の臭いが漂っていました。


廊下の灯りもこんな風。


タイル張りで、当時としてはかなり洒落ていたのでしょう。


唐傘天井だそうです。いろいろ凝っているのです。


薄暗い廊下の、古びた戸を開けると、ビックリです! 明るく輝く、最新鋭のトイレが出現したのです。


実は、この月波楼、一部屋一時間千円を払うと、会合などに使用できるのです。常総市の指定文化財ですから、使用目的はそれなりに限定されると思います。会合などでは、トイレはとても重要です。


まだ、まだ、坂野家住宅の見学は続きます。


それでは、また明日。


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坂野家住宅は本陣並でした

2009年12月08日 | 建物の話し
先週の続きです。

昨日は更新をお休みしました。日曜日は孫の幼稚園で発表会があり、そして月曜は“いろいろあって”それなりに忙しかったのです。

まぁ、それは、それで、「坂野家住宅」の続きです。

先ずは、裏口から裏庭に出て、裏からの様子を眺めます。


井戸です。こういう釣瓶式の井戸がいつ頃まで使われ、そして、どうして、何故?今でも残っているのでしょうか?


まぁ、そんな事を云えば、茅葺き屋根の古い民家が、今でも残っている方がもっと、もっと不思議です。茅葺き民家はときどき訪れ見学するには良いのですが、日々暮らして行くには、けっこう不便では?と思うのです。

ここだけではなく、各地いろいろな古民家も、意識して残したのではなく、結果として残ってしまった方が、たぶん多いい様な気がします。これって、貧乏人の“やっかみ”でしょうか?

お金持ちだったならば、江戸、明治、大正、昭和と、その時代にふさわしい最新式の住居に住み変えたと思うのです。

でも、しかし、その時々の、爺ちゃん、婆ちゃんが、ご先祖様の歴史が刻まれ、想いが刻まれ、暮らしが刻まれ、そして、生まれ育った住み慣れた家を、自分の代で取り壊すには忍びなかった?・・・・・・ まぁ、そんな事で、今も残されたりもするか?

でも、ここ坂野家では、時代毎に最新の家を建てたようです。隣には大正時代の書院造りの家が建ち、裏手には現在の家が建っていたような?

まぁ、いろいろな事情のなか、壊される事も無く、ここに残り、保存されている訳です。

それにしても、井戸が、ここにも、


そして、あちらと、そちらに、都合三カ所もあるのです。各時代毎に掘ったのでしょうか? 水は大切ですからね。


このアングルもなかなかと思って眺めていたら、


茅葺きの“茅”が何層にもなっているのを発見。

こういう断面をしみじみ眺めた事は初めてですが、たぶん、これまでになかったと思います。これって葺き方の問題なのか、材料的な問題なのか? 今度、そのうち調べます。

いよいよ、母屋?主屋?の客間から拝見します。廊下も畳敷き? アレ、もしかして、薄縁だったかも?


先ずは、一番奥の主賓の間?からは、庭が見渡せるのです。


こんな眺めになります。


このように客間が四つ並んでいます。


大事なことを忘れていました。主賓の間の裏手には“厠”になっており、こちらが“大”


こちらは“小”の方となっております。当然、現在は使用禁止で見るだけになっています。



それでは、室内に入ります。主賓の間には、床の間に違い棚。


うん。まぁ、そうか、そうかの欄間です。


そして、前に付いていた大きな釘隠の痕が残る、一回り小さい釘隠。右横には解体修理の時に付けられたと思われる“⑥”のチョーク書きが残っています。こういうモノは、復元完了後はしっかり消しましょうね。


まぁ、こんな感じ、


そして、こんな感じです。


確かに、武家屋敷のようです。農民と云っても大地主の豪農だったようですから、このような屋敷を建てることが、財政的にも、格式的にも可能だったのでしょう。

この、次の間付きの主賓の間ですが、もしかして、藩主クラスも?と思ったのですが、ふつう大名クラスが宿泊するのであれば、他の部屋より一段高く造られますから、ここは、やはり、藩の上級武士クラスを招いた部屋だったのでしょう。

それにしても、宿場の本陣並のお屋敷です。まだ、まだ、坂野家住宅の見学は続きます。


それでは、また明日。


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重文坂野家住宅でビデオ鑑賞

2009年12月04日 | 建物の話し
昨日の続きです。

いよいよ、坂野家住宅の主屋を見学します。重文にはこの“主屋と薬医門”が指定されています。元禄年間の中頃の建築だそうですから、だいたい300年ほど前の建築様式です。

現在の建物は、1998年に坂野家から水海道市が買い取り、3年ほど掛けて復元工事が行われ2006年から一般公開されているそうです。復元工事費は約3億2千万円ほどだったそうです。まぁ、そのくらいの費用はかかるしょう。


この手の古民家を何百年も個人で所有するには、何代にも渡り新たに財産を蓄積し続け、そして、明治維新の混乱を乗り越え、戦後の農地解放を乗り越え、何代もの相続税を乗り越え、大変な努力と能力と運と根性が必要なのです。


先ずは、外観から、武家屋敷風の造り、客殿の玄関として、かなりの上級武士、もしかして、藩主クラスもここで出迎えた気がします。駕籠も横付けできそうです。


板戸にはベンガラが塗られているようです。


こちらが博物館の入り口です。家人は通常ここから出入りしていたのでしょう。


受付には誰も居ません。不在の時には脇に置かれた“板木”を叩けとありましたので、木槌で3回叩きあたりを見回し、叩いては見回しを三度繰り返し、数分間待ち、やっと奥の方から60代の男性が現れ、300円を渡したのです。

待ち時間は、たぶん5分以上はあったと思います。その間、このまま黙って入場するか?と、思ったりしもしたのですが、それでは、ゆっくり、じっくり、落ち着いて見学できませんから、じっと待ったのでした。


先客は、見えた限りで4~5人程度で、中高年の方達ばかりでした。若い方はこのような古民家には興味を示さないのがふつうなのです。ぐっと若い小中学生になると、郷土の歴史の“お勉強”で学校から連れてこられるのです。


この竈は復元です。


いつも思うのですが、くねくね曲がった木材で、水平垂直を出して組み上げるのは、“現場合わせ”なのでしょうか?


珍しい継ぎ方です。


これは、増築した際の継ぎ目でしょうかね?


土間のあちらこちら、上を見たり下を見たりしていると、先ほど受付係りの人が近寄って来て、

「短いですから、紹介のビデオをみますか?」
「短い?」、
「はい15分程度です」
「そうですか、それでは」

と云う事で、土間の端っこの長椅子にひとりで座り、ビデオ鑑賞となりました。


ビデオは、復元工事の様子もあり、作業服を着て、安全靴を履き、ヘルメットを被った女性学芸員?の説明する様子が、とても“印象”に残りました。

何処が?どのように?と、聞かれると・・・・・・困るのです。

学術的な内容ではなくて、日常では見かけない女性の出で立ちでの説明風景が、う~ん、やっぱり、何処か変だったのです。

それなりに似合っていたのですが、女性として、その出で立ちで“ビデオを撮られる事”に、何処か納得していない様子を感じたのです。

話が違う方向にいってしまいました。

この先は、次回とします。


金曜日ですから、それでは、また来週。


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坂野家住宅は山城のようでかなりです。

2009年12月03日 | 建物の話し
昨日の続きです。

坂野家住宅に到着です。

しかし、何ですが、“住宅”ですよ、ど~も、住宅と云われると、木造平屋建ての同じような家が建ち並び、“洗濯物ひらひら”で、子供達が路地を駆け回る、そんな風景が浮かんでしまうのです。

まぁ、兎に角、水海道の風土博物館なのです。それで、脇に駐車場があるのですが、住宅は見当たらず、何処をどう行けばいいのか、周囲の様子をキョロキョロ窺ったのです。

奥の方に説明板を発見。


国指定の重要文化財だったのです。知りませんでした。


重文ともなると、やはり、無料とはいかないようで、大人300円です。


かなり、広大な敷地のお屋敷のようです。


住宅への道のとば口は、何となの頼りない細い道なのです。ホントにこれで間違いないの?と、多少の不安を抱きつつ坂を下ったのです。


下った先に東屋が見えてきました。


そして、左手に、これはホント見事!な孟宗竹の竹林です。


建物が見えてきました。これはもう、住宅と云うよりも、山城の趣です。


これは、予想をかなり超えています。坂野さんのお家は相当立派みたい? 


茅葺きの薬医門、かなりの重量感です。


坂野家住宅、これまでの処、かなり期待できそうです。


門から続く塀と云い、石畳と云い、植裁と云い、その先の主屋と云い、かなりです。


茅葺きの主屋、玄関前を飾る樹、その枝ぶり、かなりです。


坂野家住宅、外部も、内部も、これからじっくり見学です。


それでは、また明日。


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青空に”マスト・クライミング・クレ~~~ン”と叫びたい!

2009年02月20日 | 建物の話し
昨日の続きでは・・・ないのですが、昨日に引き続き、土木建設関連の話です。

とは云っても、“アスファルトの穴”のようなマニアックな話しではありのません。

昨日はアクセスが「230」あったのですが、“穴”へのアクセスは「33」しかありませんでした。

まぁ、それは、それでよいのです。そして、今日は、土木建設関連でも、ファンの多い“クレーン”の話しです。

先日、東京へ出かけた際に、水戸街道の金町付近で遭遇しました。


この高架のもう少し先の下を“柴又街道”が通っているのです。左に5分ほど走ると柴又帝釈天です。

それで、この高層マンションですが、これまで何度も建設中に、通りかかっていたのですが、あまり気にならなかったのです。

たぶん、マンションの高さと、運転中の視線の高さと、渋滞中の速度が、マンションを眺めるのに、丁度いい具合だったのでは・・・、そして空も青かったからだと、そう思うのです。



渋滞で停止したので、窓ガラスを下げ、頭を出し撮しました。見上げると“おへそ”のあたりが“こそばゆく”なります。

高架に停止している為、対向車線を大型トラックが疾走して行くと、かなり車体が揺れるのです。

細く高い建物を首を反らして見上げている時、車体が揺れると、かなり気持ち悪いです。一瞬、目眩を感じます。

それにしても、このタイプのクレーンは始めてみました。


ふつうは、てっぺんに設置それています。そして、自分で這い上がりながら、建物が高くなるのに連れて、支柱の設置面を順次上げて行く方式なのです。

このクレーンは、建物の外壁の側面に支柱を立て、下から上まで連続して支柱が伸びています。



支柱から伸びた2本の腕が“ガッチリ”建物を掴んでいます。



何故か、ここだけ3本です。


この方式の“タワークレーン”を、“マスト・クライミング・クレーン”と云うそうです。

ふつう見かける「てっぺん方式」は、“フロア・クライミング・クレーン”と云うそうです。

「てっぺん方式」は、建設終了後のクレーン解体は、所謂“親亀・子亀・孫亀・曾孫亀”方式で、順番にクレーンを小さくして行くのです。

そして、最後の小さなクレーンは、作業者が“ポケット”に入れて、エレベーターで降りてくるのです。←これは冗談。

壁面這い上がり方式は、外壁に支柱を取り付ける為、“ガラスや金属”でお化粧した商業ビルには向かないのです。

こういうマンションには、一台で済むこの方式が採用されるのです。下町に高層マンションが増えて、この方式を眼にすることができたのです。

都会の“お洒落な高層マンション”は、商業ビルと外観が変わりなく、“ベランダ”はありません。

洗濯物を「お日様に当て風に泳がせる」ことは、美観上禁止されているのです。下町ではOKなのです。

それと、以前に聞いた話ですが、このような高層マンションでは、外壁の修繕とか、排水管の修繕とかは実績が無く、いくら費用が係るハッキリしないそうです。購入時に販売員は、その事に触れないようにしているそうです。


あっ! 下世話な方向に話しが! 


兎に角、高~い、高~い、高層マンション。

そして、

青い空に、高~く、高~く伸びる、


“マスト・クライミング・クレーン”のある風景でした。


それでは、また来週。


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我孫子市の旧村川別荘の母屋で扁額と平書院と欄間と床柱を考える

2008年05月09日 | 建物の話し

さぁ!“我孫子シリーズ”です。何故か突然やる気が出てまいりました。

我孫子シリーズは「村川堅固さん」の「旧別荘」のお話です。前回(4/25)から14日ぶりの再開です。

前回は迄は「新館」の見学でした。今日から「母屋」に話は移ります。前回と同じく親切なボランティアガイドさんに案内して頂きました。

玄関を飾る「扁額(横に長い額)」に「天簫」の文字。“簫”は竹を束ねた笛ですが、“天の笛”とは、どう云う意味なのか?


天から聞こえてくる、微かな“笛の音・・・自然の音”に心静かに耳を傾け、世事の雑念から遠ざかり、穏やかなひととき過ごす・・・・・・。

その様なことでしょうか? 兎に角、身も心も、穏やかに、静かに、楽しく過ごす処が別荘なのでしょう。

パンフレットには、【簫は、「ショウ」と読み、竹で作った笛】としか書いてありません、特にガイドさんには、意味については質問しませんでした。

玄関を上がり、左手に進と床の間付きの部屋になります。本陣の「離れ」を移築したのですが、それなりの部屋です。

脇床に付き物の“違い棚”がありません。明かり取りの窓が開けられています。この窓は移築後に開けられたものでは?と考えます。

何故?そう考えたのか、その理由をこれから説明します。

まぁ、そんな大袈裟ではないのですが、

1.床柱が途中で「切れ」、仕切の壁を取り除いた様式になっている。これは、東側からの光りを、脇床まで通す為の細工である。

2.脇床には「違い棚」は付きものですが、それが無いのが変。

3.脇床の壁に窓が切られていれば、明かり取りの「細工」は必要無い。

まぁ。そんなところです。兎に角、見た目、デザイン的にも違い棚を作らないのはトテモ変に見えます。

それと、この床柱は「棕櫚」を使っていました。自然を生かした「茶室風」なのでしょう。

“東側”の書院です、略式の「平書院様式」で、廊下側に出っ張る「机」がありません。


「書院欄間」は「七頭の馬」の透かし彫りです。



この“七頭の馬”は、『足伏走馬』と云う「神事」を彫ったようです。この神事は『七頭の馬』、『七番の神事』とも云うそうで、現在の競馬に似た神事だそうです。

床の間から庭先の眺め。縁側には薄縁が敷いてあります。


鶴の釘隠。


厠前の手水場です。下には、“掃き出し口”が有ります。懐かしい響きです。


ガラス戸越しの裏山。別荘の眺めです。


そして、お風呂です。流し場、壁には、タイルや石が張られていますが、何故か湯船はモルタル仕上げです。あまり浸かりたくない風呂です。


天井と壁の腰から上は「杉の皮」が張ってあります。ここら辺が別荘の趣。


なかなかの母屋でした。

それにしても、当時、東京帝大の教授だった「堅固さん」の俸給は、大変な額だったのでしょう。雑司ヶ谷に家を構え、別荘を2軒も所有していたのです。

堅固さん、息子の堅太郎さん、そして三代目で「この別荘」を手放しました。相続税対策でしょう。

兎に角、予定外の別荘で約1時間を費やしました。少し先を急ぎます。


それでは、また明日。


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