歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

牛久市長の疑惑?の疑惑? その② よくある話し

2011年08月01日 | 女化道標問題
それで、牛久市長の土地疑惑なのですが、ネタとしては、もう、鮮度が落ちてきましたが、それでも、世の中、こんなご時世で、夏休みですから、何となく、第二弾をと思い、綴ってみたいと思うのです。

それで、第二弾は6段抜きで翌日の7月22日に発射されました。

見出しは

「買い取り希望せず」
「牛久市長 購入検討時期に県へ」
「市長の親類購入後、市に転売」


この土地は「公有地拡大推進法」により自治体に優先的買い取り交渉権があるため、市長名でこんな交渉権放棄の書類を県に提出しているのです。


そして、同時期に、県には交渉権を放棄すると云いつつ、何と、何と、市長は部下に買い取り交渉の指示を出しているのです。
それで、この矛盾は如何に?と、問われると、「買い取り放棄」の書類は、担当部長が“勝ってに”やったことで“わしゃ知らん!”と、弁護士を通しておっしゃっているのです。

いつもの、よくある、政治家の言い訳に聞こえます。間に入った部長も可哀想です。

でも、もしかして、市長も市長なら、部長も部長で、課長の所為にしたりて、課長は課長で係長の所為にして、係長は係長で主任の所為にして、主任は主任で担当の平の所為にして、平は平で臨時雇いの職員の所為にしたりして・・・、何て、お笑いコントで一件落着したり・・・しないと思います。

でも、まぁ、あまりにも、あまりにも、笑っちゃうほど分かり易い“事件”だと思います。

もし、です、すべての筋書きを市長が考えて、史跡の土地を一旦、親類に買わせ、改めて、その土地を市が購入して、差額で利益を得ていたとしたら、どんな刑事処分になるのでしょうか?

土地を売り買いしたのは「市長の親類」ですから、市長は売却益を手にしていない訳です。市長が地位を利用して、親類に利益をもたらす・・・・・・・と、何か、そんな罪が、有ったような、無かったような?

それと、市民の税金で購入した訳ですから、サンヨーホームが国際自動車から買った価格よりも、親類が市に売却した価格が高ければ、市の財政に不当な負担増をさせたことで、何か、そんな罪があったような、無かったような?

それとも、刑事罰ではなく、単に、道義的責任だけなの?・・・。

それにしても、

①サンヨーホームが何故この時期に国際自動車と土地の買い取り交渉に入ったのか?

②市長の親類が何故この土地を購入したのか?

③市長は親類の動きを知らなかったのか?

記事からは、そのへんは明確ではないのですが、誰が、どう考えても、一連の動きを伝える記事からは、誰かの脚本があり、その作者は、あんただろ!市長!で、記事は書かれているのです。

市の幹部も、関係部署の職員も“この土地取引はおかしい”と思っていたそうですが、“でも、市長を恐れて何も言えない雰囲気があった”と記事にあります。

これって、市民に不利益を生じる行為を知りながら、黙って見過ごしていた訳ですから、これは、これで、立派に?それなりの罪にならないの?

まぁ、こんな事は、地方の自治体では、良くある話しで、首長の“多少の地位利用”は、それなりに、フツウの出来事なので、誰も声を上げないのがフツウのでしょうか。 

この時、市の職員組合と云うか、自治労は何も知らなかったのでしょうか?行政を監視する筈の市議会は、いったい何をしていたのでしょうか? それとも、もしかして、それなりに利益共同体だったりして?

それにしても、売却益はどの位だったのでしょう? 市が「市長の親類」から購入した価格が6340万円位だったそうです。親類はサンヨーホームからはいくらでで買ったのでしょう。

まぁ、市の購入価格が相場よりも、異常に高いとは思えません。それですと、直ぐに“足が付く”ので、相場より異常に高い“ちょっと手前”の微妙な価格では?と思うのです。

それにしても、私が当事者であれば、数千万円の取引ですから、売却益が1人あたり数十万円ではやりません。数百万円ぐらいの利益が無ければ、こんな危ない橋は渡りません。


この話しの事を夜な夜な考えていたら、こんな妄想をしてしまいました。

・・・・・・私が、ある地方の市長で、ある会社が、バブルの頃にゴルフ場の用地の一部として購入した土地を、バブルが弾け、不良資産として抱えていたのです。

その土地には城跡があり、市の教育委員会で史跡として指定する話しがチラホラとあり、それを耳にしたわたくしは、小銭を稼ぐことを思いつくのです。

先ず、知り合い不動産屋を使って、「御社の所有する土地には城跡があるのをご存じだと思いますが、最近、市の文化財保護審議会で、史跡指定の動きがあるようなのです」と告げるのです。

そして、「もし、史跡に指定されますと、いろいろと土地の利用が制限されますので、通常土地の価格はかなり下落します。こんなご時世ですから相場の半値以下になると思います。それでも売れれば、みっけもんで、たぶん史跡指定の土地は誰も手をだしませんよ」

何て、事になって、相手は都内に本社のある大会社、田舎の、それも、利用計画も無い、ちっぽけな土地など、いまごろ抱えていても・・・・・と、云うことで、二束三文で手放すのです。

そして、相場の半値と云ったところで、従兄弟や、叔父さんや、叔母さん達に売却し、差額の数千万円は、これまで応援に対する感謝の気持ちとして分配するのです。

親類縁者の関係は大切にしなければなりません。人間、誰しも、感謝の気持ちを忘れてはいけないのです。大変に、美しい話しなのでした・・・・・・。


このへんで、妄想は終わりにして、ホントに何故、こんな過去の話が、今頃になって新聞紙面を賑わすのか? 不思議だったのです。

で、その不思議は、翌日の23日に明らかになったのです。これを見て、何~~だァ、そうだったのかァ!でした。 答えは、“市長選挙”が近づいていたのです。

選挙の前哨戦が、新聞社を巻き込んで、アノ手、コノ手で始まっていたのです。この話しも、ソノ手の一つだったようなのです。


このご時世に、何とも、のどかで、素朴で、伝統的な選挙キャンペーンなのでした。市長派も、そろそろ防戦から反転攻勢のタイミングを窺っている筈です。

牛久市民としては、ここは一番、職業政治家同士の争いに一枚噛んで、何か意志表示をする人達が出現するかも知れません。

それにしても、やっばり、それなりの地位につくと、それなりに地位を利用して、それなりの利益を・・・・・・・何て、フツウの人は、フツウに考えるものです。

いつの時代でも、何処の国でも、よくある話しなのです。肌の色、髪の色、眼の色が違っていても、人はあまり変わらないようです。

以上。


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牛久市長の疑惑?の疑惑?

2011年07月27日 | 女化道標問題
第一報がこれでした。

7月21日の茨城版に紙面の四分の一を使って、写真入り7段で大きな記事が眼を引いたのです。

「牛久市が2009年購入史跡整備の土地」
「元地権者7人市長の親類」
「経緯不透明指摘の声」


記事を読むと、史跡ですから、あの教育委員会の、あの“文化財保護審議会”が、それなりに関係しているのです。あの「女化道標問題」以来、久々の文化財保護審議会の登場です。

①2006年7月18日に国際自動車から不動産会社サンヨーホームに土地売却の事前届け出を“県”に提出。

②その6日後、市長が市の幹部に対して、小坂城跡の土地の買い取りと、文化財指定の指示。

③それから1ヶ月後の8月25日、文化財審議会は全員一致で史跡指定に賛成する。

④6日後の8月31日に国際自動車がサンヨーホームに土地を売却。

⑤その3日後にサンヨーホームが「市長の親類」に土地を売却。

⑥6日後の10月31日に、「市長の親類」が文化財指定の申請を文化財保護審議会に提出。

⑦11月24日、審議会は文化財に指定。

そして、この件は、しばらく、動きが止まるのです。それなりに、冷却期間?を置いたのでしょう。

そして、ほぼ2年間、ほとぼりを冷ましていたようです。

⑧2008年12月、市が土地購入の補正予算を計上。

⑨1ヶ月後の、2009年1月26日、「市長の親類」が市に対して土地の買い取りを申請。

⑩1ヶ月後の2月25日、「市長の親類」と、市で売買契約が成立。

こう見てくると、誰が、どう考えても、これは、かなり、ヤバイ話しと云うか、汚いと云うか、ずるいと云うか・・・・・・。

ある所に、ある個人の土地があって、その土地には昔の城跡があって、その土地を不動産会社が購入する動きがあって、それと同時に市長は史跡指定の指示を出し、史跡指定が確実となると、不動産会社が土地を購入し、即、市長の親類に転売。

土地を手に入れた「市長の親類」は史跡指定を申請し、審議会は申請を受理し史跡に指定。指定後に、市が「市長の親類」から土地を買い取る。

本来であれば、国際自動車から、市が直接、土地を買い取り、その後に史跡指定をすれば、簡単明瞭でスッキリなのです。

でも、土地取引に「市長の親類」を間に入れたのは、誰が、どう考えても、疑惑をもたれるのです。「市長の親類」は、購入価格と売却価格との利ザヤを、不当に、不正に、懐にいれたのでは?と、思われてもしかたがないのです。

でも、もしかして、購入価格よりも、売却価格の方が低く、逆ザヤで、市の財政負担を軽減するための、美しくも、清らかな、人間として、市民として、褒め称える行為を、陰で、ひっそりと・・・・・・、何てことは、たぶん、絶対に無いでしょうが・・・・・・。

しかし、こんなことを、堂々と、やってのける、根性と、品性と、人格を持った方が、牛久市長をやっているのです。どんな、言い訳を考えているのか?早く、ホントに、聞きたいものです。

もしかして、なるほど!そうだったのか! 市長!疑ってゴメン! の展開も無い事も?無い?

でも、しかし、なのです、ことの発端は、2006年の7月で、一件落着は2009年の2月25日です。今は、2011年の7月で、2年以上も前の話が、何で、今頃と思ったのです。

この時期に、この事件化も、かなりの“疑惑”です。

いろいろな方面で、いろいろな思惑が、いろいろと絡み、いろいろと複雑に展開して行きそうです。

それで、何で、いまごろ?と、その先の話しは、次回とします。


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牛久市 成井一里塚の決着

2011年04月27日 | 女化道標問題
「女化道標」の決着に合わせて、「成井一里塚」も、ついでに、一応決着となりました事をお知らせします。






こんな文面に訂正されました。


こちらが、以前の説明板です。云いたか無いけど、かなり、いろいろと、いい加減な文章でした。こういう内容で、こういう文章表現が、教育委員会の名で掲げられている事が、とても問題なのでした。


以上で、「女化道標問題」と「成井一里塚問題」は、これでお終いです。いろいろ、また、言い出すと切りがないので・・・・・・。兎に角、いろいろ勉強になりました。


只今の放射線量は、0.10μSv/hです。




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牛久市 女化道標の決着

2011年04月25日 | 女化道標問題
こんな、大地震が起き、大津波が押し寄せ、原発から放射線が漏れる、こんなご時世に、何ですが、やっと、牛久市の女化道標問題が、それなりに決着を見ました。

2009年の1月から、牛久市の教育委員会とか、文化財保護審議会とか、いろいろとあって、2010年を越して、2011年の4月を迎えて、新しい説明板の完成と相成りました。









文面に対して、特に、コメントは致しません。


参考までに、以前の説明板です。
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女化道標の真っ直ぐはどっちだァ!

2009年09月28日 | 女化道標問題
10日ぶりの「女化道標問題」です。たぶん、今日が最終回になると思います。

それで、「検討会」ですが、“川内康範先生”の“道路工事裏返し説”で、かなり雑然となり、え~いくら何でも? そんな馬鹿な? 工事はいつだった? などの“不規則発言”が、あちら、こちらで、わき上がったのであります。

その時、“川内康範先生”が、“ここは、文化財保護審議会であるからして、文化財を保護する立場にある。即刻、石塔を元の状態に戻すべきである”と、席から立ち上がり、右手を上げ、大声で発言したのです。

生涯学習課の職員から“即刻にと云われても、予算が有りませんので今期の工事は、ムリなのですが・・・・・・”と云われ、康範先生の表情はより険しくなったのです。

委員一同、“まぁ、まぁ、そこは、そんなに”、と云った表情と動作で、康範先生に視線を向けたのでした。

その時、“偉い先生”が、“たぶん、あれは裏返しだと思います”との発言で、その場はそれなりに収まったのでした。

康範先生も冷静さを取り戻し、石塔の文面の調査報告の続きに戻ったのです。そこで、面白い指摘があったのです。

石塔に“すぐハ水戸道”と刻まれている文字の解釈です。現在の説明文には“すぐは水戸道”とあり、以前には“すぐ水戸道”とあったのを訂正しているのです。

石塔でも“ハ”の文字はかなりハッキリ確認できるのです。それにしても、明らかに確認出来る文字が抜けている説明文とは、ホントに何故? どうして? こんなことが? です。

それで、“ハ付き”と、“ハ無し”の解釈の違いです。康範先生は、“ハ付き”である場合は、“すぐ”は“真っ直ぐ”を意味し、“ハ無し”の、“すぐ”は“直ぐ近く”を意味するとの事でした。

さすが、ナルホド! と感心したのであります。でも、しかし、直ぐに!エッ。チョット待った!先生と思ったのです。

隣に座る副会長も、“どっちに行っても水戸道でしょう”と、私に囁いたのです。“真っ直ぐは水戸道”との文法解釈はわかるのです。

問題は、分岐の道標で“真っ直ぐ”は、“若柴”方向なのか、“龍ヶ崎”方向のどちらを示すのか? 若柴も龍ヶ崎も“水戸道”に行き着くのです。康範先生はどっちなの?

また、あらたな問題が発生しました。そこで、康範先生に質問を、と、思ったのです、がァ、康範先生の顔を見て、何となく“ややこしく”なりそうなので止めました。

「偉い先生」から、康範先生の調査結果とその説明は大変貴重であり、結論にいたる経緯は事務局として記録して置い下さい。“あなた達”にとって、いろいろ質問に答える為にも必要な資料になります・・・・・・と、云うような発言したのです。

私は、敢えて、この発言にくわえて、「何故そのような結論に至ったのか、その“経緯”の方が重要だと」発言したのです。

事務局の必要性ではなく、史跡の説明文として、そりなりの裏付けがあって当然です。歴史学として、人文科学として、学問として、そこにいたる経緯、“何故そうなの?”があって、始めてその結論に価値が生まれると思います。

かなり以前にも、「道標裏返し問題」があったと聞きました。でも、しかし、何故?その時点でその説が否定され、現状の説明文の方向が採用されたのか、まったくその経緯の資料が残って居ないようなのです。

今回も、それなりの見解が発表されたのですが、この「康範先生」説は採用されたのでしょうか? 特に各委員の見解を聞く様子もなく、各委員から反対意見が出る様子も無く、何となく、それとなく、会議は終了したのです。

見ていた限り、「康範先生」以外に道標を調査された方は居ない様子なので、他の委員から異なる見解を求めるのはムリな様子でした。

結局は、こんな経緯で、また説明板は書き換えられ、今度は、新たな説明板を見て“真っ直ぐはどっち?問題”が発生しそうです。

もしかして、非公式の“検討会”ではなく、正式の“審議会”で、改めて活発な討議がなされ、説明文が改訂されるのでしょうか? 

あっ、それで、この問題に関しては、私が質問のメールを教育委員会に送る事はありません。もう、だいたいの内部事情は判りましたから・・・・・・。

そうすると、“真っ直ぐはどっちダァ?”何て質問は、もう誰もしないか?

これで、やっと、「女化道標問題」とはおさらばできます。やっぱり、気が進まなくても、最後はキッチリ?と終わらせないとね。

やっと、これで、お終い。

そうでした、文中に度々登場した“偉い先生”ですが、調べたら“国立歴史民俗博物館”の館長をされている「宮地正人さん」でした。、ねぇ、ホント、まさか、でした。

それで、実は、パソコンが、また、勝手にシャットダウンをし始めたのです。これを書いている時にも、途中で一回、真っ暗になりました。

もう、買い換えかも? OSが「ビスタ」から「セブン」に10月末に変わるらしいので、今、買い換えていいのか、どうしようか迷っています。

暫く更新の無い時は、PCの故障か、新品の設定、操作の修得中と思って下さい。


それでは、また明日。


 
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“女化道標”は道路工事で裏返しに!?

2009年09月18日 | 女化道標問題
一昨日の続きです。

それにしても、昨日は関越道の事故の余波に巻き込まれ、到着時間が予定より1時間半ほど遅れてしまいました。走っては止まり、走っては止まりの“尺取り虫走行”で、かなり疲れました。

お彼岸の道路混雑を避けた“早めの墓参り”だったのに・・・・・・・もう、何だか、まったく、意味の無い結果に終わり、疲労感が倍増したのであります。

本題に入ります。

それで、“川内康範先生”の発表は未だ続きます。他の委員はじっと押し黙り先生の話を聞いています。

副会長と懇談したのが、6月23日で、7月2日の審議会で問題提起され、一連の疑問・質問に答える役回りを“康範先生”が一手に受け持つことになったのでしょう。

それで、いよいよ“女化道標問題”の“核心”である石塔の“裏表”問題です。簡単に説明すると、こういう事になっています。


説明板には“表面に 宝暦十四年・・・南無阿弥陀仏・・・”と、“裏面に 西はたみや・・・すぐは水戸道”と“刻まれている”と書かれているのです。

一本道を辿ってここから2本の道に分かれる処に立つ、分岐の道標でもあるこの石塔、写真の方向から見た面が“表”と解釈する方が自然だと思うのです。

でも、しかし、こちら側の面には、“すぐハ水戸道”と刻まれているのです。

そして、裏側には“南無阿弥陀仏”と刻まれています。


この辺りから、私も発言をしたのであります。先ずは、一連の疑問・質問を述べ、いろいろな疑問が生じる「道標」である。

“女化”の地名の由来である、女狐の“女化”伝説との関わりから、いろいろな解釈、推測があっても、それなりにいいのでは? 

兎に角、とても面白い道標であり、その点を、それなりに、説明文に反映すれば、遺跡とか、史跡とか、歴史とか、関心の無い方にも、楽しめると思う。

・・・・・・何て、発言をしたのであります。

発言が終わったところで、右隣、一人隔てて座る“康範先生”が、“面白いとか、楽しいとか、そんな、小説みたいな話じゃない!”と、呟いたのです。

“面白くて、楽しくて、何故悪! オィ康範!”と、云いたかったのですが、そこは、大人ですから、聞こえない振りをしていました。

それからが、もう、討議は、かなりグチャグチャ状態になったのであります。私の記憶もかなりグチャグチャであります。

その後“康範先生”は、道標は裏返しであるとの見解を表明。これに“偉い先生”も同調。

私も、そう解釈もありと思いますが、でも、しかし、それでは、“面白く”無いので、


「表裏を逆にすると、右龍ヶ崎、左若柴の位置関係が実際の位置関係とぎゃくになりますよ」
すると、“康範先生”
「それはいいのだァ」
すると、偉い先生が
「文章は、右から左に書いて行くので、そうなったのかも」と、これは、何だか意味不明であります。

そして、“康範先生”は、ついに、
「わたしは、見たのです! あの石塔は現在とは裏表が逆に立っていた。道路の拡張工事の際に裏表が逆にされてしまったのです!間違い無い!」

これには、職員、委員、私もビックリ!目撃証言が出てきたのです。男性職員と副会長が“あの工事はいつ頃だった?”“え~と、それにしても、工事でそんな事は”とか・・・・・・。

他の委員も、え~、そんな? と、かなりざわついたのです。この“工事裏返し説”は、私も以前(1月19日)面白おかしく書いた説であります。事実だとすれば、面白過ぎます。

これから、まだ、検討会は続きます。

しかし、明日は孫がお泊まりに来るのです。掃除をしたり、車を洗ったり、買い物に行ったりと、忙しいのでこの辺で終わりとします。

続きは、シルバーウィークの終了後になりそうです。


それでは、また来週まで。




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”文化財検討会”に出席? 戌亥は有って酉は無し

2009年09月16日 | 女化道標問題
昨日の続きです。

さて、いよいよ、検討会は“女化道標問題”です。


前回、副会長さんと懇談した際に提起した質問・疑問・問題点に関して討議が開始されるのです。傍聴者の私は、少し離れたテープルの席に一人座っています。

発言は、入り口側に座る職員2名と相対する側の委員から調査報告として始まりました。この委員さん何ですが、年齢は70歳の前半から半ばと云ったところで、痩せ形で眼孔鋭く、誰かに?似ているのです。

先ずは、ブログ(4月2日)で指摘した“石仏問題”です。


説明文の1行目の頭に、“この石仏は”とありますが、これの何処が石仏なの?です。

で、これは、これは明らかに“石塔”であると、あっさり“石仏説”は否定されたのです。私としては、“そうか、やっぱり”で、特に問題なしでした。

2点目は、“田宮問題”です。説明板には“たみや”と表記され、“たみや”の文字の下にうっすら“たぐ”と書かれていたのが読みとれるのです。“たぐ”を訂正して“たみや”とした経緯があるのです。

実際に石塔に刻まれた文字を確認できれば答え簡単なのですが、石塔のその部分は目視では判別が困難な状態になっています。

その委員は、もう一人の委員と、2日を掛けて調査し、拓本を採取しその写しを各委員に配布し、写し取った文字の説明しました。

これが、拓本の写しです。


“たミ夜”と書かれているそうです。“た”と“ミ”は判るのですが、最後の文字は明らかに“木偏”に見えるのですが、夜の“俗字”とか“略字”とか“崩し字”なのでしょうか。

調査結果を発表している委員は、一緒に石塔の現地調査、拓本の採取を行った別の委員に向かって、“○○先生間違い無いですよねェ”と改めて確認し、その“先生”は“間違いありません”と答えていました。

どうも、この“先生”は他の委員とは、少し別格な様子なのです。この頃には、私は、副会長に手招きされ、副会長の隣に移動し、資料の配布も受けていました。

○○先生は私の斜め向かいに座っています。確かに、どことなく“アカデミックな気配”を漂わせています。

わたしが、“先生”の様子をそれとなく窺っている気配に気付き、副会長が小声で『あの方は宮地先生と云って元東大の先生です』と囁いたのです。

そんな“偉い先生”が、この牛久市の文化財保護審議委員に居るとは、それなりに驚きでした。それで、後で調べて判ったのですが、私が想像していたよりも、相当に偉い方でした。

3点目は、“方向表記の表現問題”です。
説明板には“十二支表記”での“犬い(乾・戌亥で北西)”と、通常使われる方向表記の“西”の二通りが使用させれているが、石塔には“西”ではなく、戌亥と同じく十二支表記で“酉”と表記されていたのでは?との疑問です。

※西か酉かは、石塔ではまったく消えていて判別は不可能な状態で、単なる推測としての話です。

それに対して、いろいろな文献を調べた結果、“戌亥(北西)”は方向表記として使われているが、“西”を“酉”表記した文献は見あたらなかったとのことでした。



確かに、丑虎(ウシトラ)とか、辰巳(タツミ)とか、戌亥(イヌイ)とかは聞き覚えがあります。但し、“申(サル)未(ヒツジ)だけは、聞いた事がありませんが・・・・・・。

これは、“東・西・南・北”の各間の方向は十二支で表記しており、北を子と云ったり、東を卯と云ったり、南を牛と云ったり、西を酉と云う言葉は、私の経験からも、耳にした事はありません。

そのなかで、酉と西では、酉の字体は“縦長”で、西の字体は横長との話があったのですが、それと、方向表記の話のとどう繋がるのか?いまいち意味不明でした。

それ以外は、わたしといても、それなりに正しく、説得力のある回答と思いました。

それで、この調査報告に対して、“偉い先生”から、報告した委員に“この調査はそれなりに価値のある調査であり、論文として発表しては”との発言がありました。

それで、先ほどより、調査結果を発表している、“年齢は70歳の前半から半ばと云ったところで、痩せ形で眼孔鋭く、誰かに?似ている委員の方”ですが、その時、思い出したのです。

そうだ、あの大作詞家、あの“おふくろさん騒動”の“川内康範先生”に見えてきたのです。意志が堅いと云うか、頑固一徹と云うか、兎に角、堅そうです。

ここまでは、“そうか、そうか、なるほど”でしたが、見解が異なったら、これは、手強そうです。

きょうは、ココ迄とします。

明日は、早めのお彼岸の墓参りに行きますので、ブログの更新はありません。


それでは、また明後日。



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”文化財検討会”に出席?その2・・・結論より経緯

2009年09月15日 | 女化道標問題
昨日の続きです。

それで、遂に、待ちに待った、わたくし関連の議題の討議が開始されたのです。

はじめは“成井一里塚”の説明分の年代二重表記問題からです。


これに関しては、それで、それなりの資料調査が実施されたようで、あっさりと改められる事に決まりました。

それで、その“年代二重表記”について、男性職員から、“当時の作成者の意図として、「二つの説」を「並列表記」したようだ”との、発言があったのです。

“でも、しかし、皆さん、上の説明板の文章から、そのような意図が読みとれるでしょうか?”と、検討会の場で発言した訳ではありません。傍聴者ですからね。 

敢えて、今更、私が、“ココ”で、問題にしたいのは、年代を並列表記した意図が文章として読みとれない点、では無くて、そのような曖昧なと云うか、矛盾したと云うか、訳が分からないと云うか、そんな文章が、公の機関の名の下に掲示されてしまっている事です。

まぁ、そんな事は、これを機会に改められるのだから、いまさら、そんな、過去の事など、いちいち、詮索しなくても・・・・・・ねェ。何て、お思いでしょう、がァ、そこが、気になるのです。

わたくし、品質管理で糊口をしのいできた身として、つい一言・・・・・・・なのです。

この史跡の説明文作成に関する“決まり事”に関して、どうなっているのか、どうも曖昧なように思えるのです。

文章は、誰が?、いつ?、どういう資料に基づき?作成したのか? 作成された文章は、誰が検証したのか? その経緯は記録として残されているのか? 記録があるとしたら、誰もが、必要な時に、直ぐに、取り出せるよう整理されているか?

結論よりも、そこにいたる経緯が重要なのであります。経緯の無い結論は“クリープのないコーヒー”なのです・・・・・・ちょっと違うか?

何て事なのです。まぁ、そんな事は、いまさらどうでも良い、と、お思い方もいらっしゃるでしょうが、だが、しかし、なのです。

この事は、“女化道標”についても云えるのです。“女化道標”の方が問題点が多く、もっと、もっと、しつこく、ややこしくなります。

そこで、本日はこの辺で終わります。

“女化道標”については次回とします。


それでは、また明日。



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非公開の”文化財検討会”に出席? -その1-

2009年09月14日 | 女化道標問題
先週の続きです。

それで、7月のたぶん23日だったと思います、約束の時間は2時半頃だと、場所は前回と同じ“生涯学習センター”です。


前回と同じく5分前に到着し、先ずは、受付の前を通過し右に曲がり、通路の自動販売機でお茶のペットボトルを購入し、受付に戻ろうとすると、通路の奥の部屋のドアが開き、タイミング良く副会長が現れました。

副会長は“もう暫くここでお待ち下さい”と告げて、奥の部屋に戻って行きました。何かの会議?かと思いつつ、受付前の椅子に腰掛け、お茶を飲みつつ、辺りの様子を何となくボンヤリ眺めていたのです。

通路の壁には、市民ホールの講演案内とか、市の広報とか、いろいろ貼ってあり、その中でも大きな“会議室の使用予定表”に眼が止まりました。

副会長が入って行った会議室で何が行われているのか?“会議室の使用予定表”を上から順に追っていったのです。

すると、何と、“文化財検討会”とあったのです。使用時間を見ると1時半から4時半となっています。

4時半迄開催される検討会の当日に、私を2時半に呼んだと、云うことは? これは、もう、たぶん?非公開が原則の“検討会”に、私を傍聴させるつもりなのです。

“そうか、そうか、そう云う事だったのか・・・なるほどネェ”と、ひとり納得し、期待し、緊張し、多少の不安も抱きつつ、お茶を飲みつつ、持参した資料に眼などを通しつつ、イスに腰掛け待ったのであります。

10分ほどして副会長が出て来ました。“今日は、文化財検討会で、正式の保護審議会は年に2回開催され、その他は随時、検討会と云う形で行い、検討会はボランテイアなのです”との、説明を聞きつつ会議室に向かいました。

そうだったのか、“検討会”と“審議会”は、公開と非公開の違いだけではなく、“有給と無給”云う違いもあったのです。“そうか!そう云う事か、ナルホド!”と、妙な納得をして、会議室に入ったのです。


室内は、会議室によくあるタイプの長机が、長方形に組まれて、入り口側に前回お会いした女性職員と男性職員が座り、右側には会長(別途他の議題での発言により判明)、奥には女性1名、男性2名、左側には男性が2名、たぶん?委員は7名だったと思います。

入室した時は、何やら、他の議題について討議中でした。私は、その一画から少し離れた机に座るように副会長から指示されました。傍聴ですから席は別なのです。

副会長は会長の隣に着席。そうでした、会長は、あの“小川芋銭先生”のお孫さんです。前回、副会長にお会いした際に聞いていました。似ていました。

【芋銭先生の銅像】

                    
2名の職員を除き、委員の方々は60歳~70歳前後の方ばかりです。文化財保護審議委員ですから若造は居ません。私がだけが、ただ一人の怪しい若造なのです。

数分後に、私が簡単に紹介され、“私関連の議題”についての討議がはじまったのです。

で、その討議の内容です・・・・・・がぁ、今日は、身体の調子と云うか、鼻の調子が悪いのです。

昨晩は気温が高く、寝るときに暑いので窓を少し開けて寝たために、鼻水タラタラ、くしゃみの連発で、朝食後に鼻炎カプセルを飲んで、午前中はビデオを観ながらウトウトしていたのです。

薬は一日2回のタイプで、昼食後の今も効き目が持続し、いまいち、頭がハッキリしないのであります。まぁ、普段も、そうはハッキリしていませんが・・・・・・。


そんな、こんなで、具体的な討議のやりとりは、明日に廻したいと思います。


それでは、また明日。


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文化財保護審議会副会長と懇談 -その2-

2009年09月11日 | 女化道標問題
一昨日の続きです。

昨日は、朝から外出し11時過ぎに帰宅したのですが、天気が爽やかだった為に?昼食に発泡酒を飲み、午後は何となくゴロゴロしていて、ブログの更新する気分になれなかったのでした。

それと、「女化道標問題」は読者の関心が、非常に薄~く、アクセス数は200を越したのですが、そのうち「女化」へのアクセスは12件だけでした。たぶん、これは、“関係者”のみだったような・・・・・・。

でも、しかし、アクセスが少なくても、関係者だけでも、面白く無くても、何があっても、「女化道標問題」は続けます。

教育委員会生涯学習課の会議室での懇談は続きます。それにしても、この男女の絡み合い?はかなり濃厚で濃密なのであります。


それで、私の方から改めて、女化道標の質問・意見・疑問を資料を示して話たのです。①表裏逆問題 ②田宮問題 ③乾猪子の方向表記問題 ④右若柴、左龍ヶ崎の左右表記問題 ⑤道標表記文字と説明板表記文字の不統一問題・・・・・・(詳細は過去のブログを参照して下さい)

それで、説明に際して、私の右隣に座っている女性職員に副会長より、“次回の審議会にテーマの一つとして提出するのでしっかり記録するように”との指示を出していました。

で、この女性ですが、メガネを掛け、化粧気が無くて、真面目そうで、純朴そうで、教育委員会の職員らしい方でした。年齢は30歳±5歳ぐらとお見受けしました。

ちょっと、本論からそれました。

それで、こちらの質問、意見、疑問に対しては、特に、副会長の見解を述べることはありませんでした。

それと、序でに、「女化」ではないのですが、“成井一里塚”に関して、こちらの“説明板”の“存在の年代”と“築造の年代”の並列表記について、疑問を述べました。・・・詳細は6月4日の“牛久市成井一里塚存在と築造の謎”を参照して下さい。

これに対しては、すぐさま副会長より、“永禄4年(1561年)には既に存在”の方は明らかに間違いであると発言されました。

それで、この「成井一里塚」も「女化道標」の説明板も、ある時期、ある方が、史跡関連を管理していて、その当時に、設置されたのでは? ○○が教育委員会に在籍していたのはいつ頃までだった? とか、いろいろな内部事情に関して、副会長と職員の間で会話を交わしていました。

ある時期の、ある方の、勝ってな判断で、説明板の文面が作成され、問題点はその方の責任であったような表現をされていました。

ある時期、市役所内部で“いろいろ問題”があり、“職員の逮捕事件等”があったようです。牛久市にもそれなりの、いろいろと勢力争いがあるようです。

教育委員会にもその影響は、“あった”と云うか、今でも“ある”と云うか、そんな微妙な話でした。

それで、今回の一連の教育委員会作成の“史跡説明板”に対する「質問・疑問・意見」を“ブログに掲載”し、教育委員会にメールを送ってきた“輩”は、ある勢力の“回し者では?”と、関係者一同、深い疑念を抱いていたそうです。

この間、そのような眼でわたくしを見ていたとは驚きでした。なんとも、まぁ、こんな処で、地方政治の生々しい現実に遭遇するとは・・・・・・。

説明板よりも、“そっちの話”の方がよっぽど面白そうですが、そのへんの話を根ほり葉ほり聞き出したい衝動に駆られたのですが、やはり、それは、ちょっと、まずいかと思い、聞き流すだけにしました。

まぁ、そんな、こんなで、1時間ほどで懇談は終わりました。この日が6月23日だったと思います。そして、7月2日に“文化財保護審議会”が開催されました。

この日は、傍聴しょうか?どうしょうか?迷ったのですが、何かの用件で取り止めにした記憶があります。

当日の議事録が公開されていますので、関連部分を以下に引用します。

-------------------------------
第1回牛久市文化財保護審議会議事録 
                
日    時   平成21年7月2日(木) 午後2時~3時30分  

場     所   中央生涯学習センター 大講座室

出 席 者 審議委員:小川耒太郎,栗原 功,鈴木昭三,山岡貞之助,柳井哲也,渡辺 恵,斉藤弘道,鈴木哲夫,宮地正人,山田 修,藤井辰夫

事務局:榊次長,川井課長,石山補佐,張替,秦  

欠 席 者   なし              

傍 聴 人   0人              

******途中省略******

2)市指定文化財案内看板について
かねてより指摘のあった、女化道の道標・成井一里塚の案内看板について審議された。
<女化道の道標について>
・道標自体について標記・位置などを見直す必要がある。
<成井一里塚案内看板について>
・この看板の表記には明らかな誤謬があり、すぐに改めるべきである。
<案内看板全体について>
・市指定文化財看板全体について改める必要がある。
-------------------------------

引用終わり。

私の意見、質問、疑問が、それなりに、公的に取り上げられたのです。それにしても、この議事録?の内容では、詳細に関して何が?何だか? 良くわかりません。

その後、職員の方だったか? 副会長の方だったか? 記憶が定かで無いのですが、もう一度お会いしたいとの連絡があり、7月にお会いする事になったのです。

それで、その2回目の7月なんですが、これは、かなり、面白い事になったのであります。

その話は、次回。


それでは、また来週。


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