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本日は、休日のため“シリー”ズはお休みします。
テレビの話です。
一昨日、“NHKアーカイブス”で1986年に放送された向田邦子の「父の詫び状」を見ました。
彼女の脚本かと思っていたら、エッセーのドラマ化で、脚本はジェームス三木でした。
リアルタイムでは見ていません。1986年と云うことは、今から22年前ですから30代の半ば頃です。
テレビで何を見ていたのかと、思い出そうとしても、何にも手掛かりが掴めず、まったく何も浮かんできません。
その頃の事、ちょこっと調べてみると、
前年の85年は、ソ連でゴルバチョフが書記長に就任、 男女雇用機会均等法が成立、ロス疑惑の三浦和義氏が逮捕、女優の夏目雅子が死去、つくば科学万博'85開催。
歌の流行は、チェッカーズの「ジュリアに傷心」・・・少し記憶あり。 小林明子の「恋におちて」。中森明菜の「ミ・アモーレ」だそうで、知らない曲が多い。
86年は、たけし軍団によるフライデー襲撃事件、チェルノブイリ原発事故、日航機の御巣鷹山墜落事故、社会党の党首に土井たか子が選ばれる。
歌は、石井明美 の「CHA-CHA-CHA」、中森明菜 の「DESIRE」、少年隊の「仮面舞踏会 」、 渡辺美里 の「My Revolution」、CMソングとしての記憶あり。
87年は、ブラックマンデー、株価大暴落 、竹下内閣発足、大韓航空機爆破事件、小錦の大関昇進、石原裕次郎が死去。
歌は、やっと演歌で、 瀬川瑛子の「命くれない」、吉幾三の「雪國」。この年は演歌がヒットしたのです。
86年前後はざっとこんな感じでした。何となく少しだけ、時代の気分を思い出してきました。
それと、86年は所謂“パブル”が始まった年でした。私としては、バブルの恩恵に浴した記憶は・・・・・・、余りありませんねェ。
そういう事で、こんな時代に放送されたのが、「父の詫び状」です。たぶん視聴率も良かったのでしょう。
86年当時、戦前の家父長制は、単なる懐かしさだったのでしょうか? 父親の復権を願う気持ちが、何処かに、少しだけ、あったのでしょうか。
それで、86年から22年経って、今回の再放送を観ての感想ですが、確かに、それなりに面白いドラマでした。
戦前、昭和15年当時の、サラリーマン家庭の、日々の暮らし、時代の雰囲気、当時の家族の繋がり、父親の権威、その辺を垣間見る・・・・・・そんな面白さです。
先日、川口市で15歳の娘に父親が刺され死亡した事件が起きました。もしかして、放送当日?
“父の詫び状”は、同じく15歳の娘の視点で、父親へに対する思いが描かれています。
ドラマの父親は、兎に角、すべてにおいて、絶対で、家族全員が服従させられるのです、そんな父親に15歳の長女は内心、反発するのです。
しかし、だからと云って、父親に面と向かって口答えをする訳ではありません。納得できなくても、兎に角、従うのです、そう言う世の中だったのです。
父親も、そう言う振る舞いが当然で、父親とはそう言うものだと、誰もがそう思い込んでいた、たぶん、そう云う世の中だったのです。
父親と云う立場が絶対であった世の中と、父親の云う事に対し、反発し不満を言い、最悪は殺してしまう世の中。
昔の父親が“立派”で、現在の父親が“立派”でない?
父親が立派でなくとも、時代が父親に権威を与える事により、家庭が治まり、国家が治まる。ある意味、治まりの良い仕組みだった?
権威、権力に理不尽に押さえつけられ、踏みつけられる事での、反発、反抗をうちに秘め、何かが生まれ、何かが成長する?
そして、祖母の通夜の夜、家庭内での絶対的な権力者の、別な姿を娘は見てしまうのです。
通夜に訪れた、社長と専務に対して、家庭内絶対権力者が、平身低頭して出迎えるのです。頭を下げる父を、はじめて目の前で見てしまうのです。
厳しく、辛い世の中の現実、それに耐え、家族を守る父。家庭内権力者の世の中での姿。
反発するほど、父親には、権威も権力も無かったのでした。情け無く、哀しく、みっともなく、滑稽な姿に、これまで事を許す気持ちになって行く・・・・・・。
家庭内で、偉そうに振る舞っていた父親の存在が無ければ、単調で、平凡で、詰まらない日常だった? 切なく、哀しく、懐かし父の想い出。
もしかして、今、また、あの理不尽な、父親の権威権力で、家庭を治め、国を治めたほうが、治まりがつく・・・・・・何て、空気が漂いはじめているような・・・・・・。
人間、自由奔放にさせていると、「ろくなモン」にならない。誰かが、兎に角、理屈抜きに押さえつける、そして、それなりの工夫をして、そこから逃れて行く。
そんなプロセスが、それなりに人間を成長させる?
そんな、プロセスは別の形で置き換えられるのでしょうか?
あの父親の存在があって、作家としての向田邦子が誕生した?
何かに押さえつけられ、それを自分の力ではね除ける、押さえつける力が大きいほど、はね除ける“力”もより大きくなる。
“作用反作用”の法則です。
今の時代、権威権力が、かなり意識しないと、存在しないように見える世の中、誰が敵で、誰が味方か判りずらい世の中、反発も、反抗も、起き難い?
兎に角、人間でも、植物でも、成長期は、何かに押さえつけられた方が、成長するのかも知れません。
“とんでもないモノ”に押さえつけられる可能性がありますが、それは、それで、それなりに、勉強になるのかも知れません。
まぁ、何だか判らないですが、「父の詫び状」の感想でした。
それでは、また明日。