歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

そうだ! 演歌だ! 都はるみだ! そして朝青龍だ!

2007年11月30日 | 雑談
今日も“お天道様”の顔が見えません、灰色の空です。

こういう時には「そうだ!演歌を聞こう!」と思い、一度やってみたいと思っていた、ネットでのダウンロードに挑戦してみました。

先ずは、誰が!、何と!、云おうと!「都はるみ」で決まりです。兎に角、お金を払って「歌」を買うのは何十年ぶりです。

ダウンロードは、いとも簡単でした。先ずは「千年の古都」、「小樽運河」の2曲です。

♪あっ あぁ~ 時は身じろぎもせず~ 悠久のまま~ 

イイ~ですねェ~。囁くような唄い出し、そしてエンディングへ向けての歌い上げる歌唱力、表現力、時間的、空間的に広がって行きます。

「美空ひばり」を越える歌手です。

ホントに巧い、感動します。 “都はるみ”は凄い歌い手です。


と、書いていたら、朝青龍の会見が始まりました。


やっぱり「反省」はしていないようです。でも、やっぱり「朝青龍」が居ない土俵はホント、詰まらないです。

反省はもうイイです、兎に角、面白い本場所にして下さい。「あの千代大海」が千秋楽まで優勝争いに残るようではダメなのです。

やっぱり「憎まれ役」は必要です。やっぱり朝青龍が実力的にはナンバー1です。白鵬は精神的にも、技術的にも、スピードでも、朝青龍より「かなり」見劣りがします。

それにしても、処分の直接的な原因となった、巡業を「サボッテ」のサッカー事件ですが、記者の質問に対する答えが曖昧でした。

私も以前は「サッカーができて、相撲ができないのは変、仮病か?」と思っていたのですが、あの程度の「球蹴り」と、200㎏前後の肉体が激しくぶつかり合う相撲とは比較するのに無理があったと思いました。その事を強く主張すべきです。

それと、本場所後、休暇もなく直ぐ地方巡業と云うやり方は無理があると思います。本場所後は一週間程度の休暇が必要です。

日本人力士も、外国力士も、「休みをくれ~」と思っている筈です。休暇を増やして年5場所が適当ではと思うのです。

幕内には15人も外国人力士がいるのです、国技だ、単なる格闘技ではなく、神前に捧げ儀式だとか、そんな事をいつまでも・・・・・・と思うのです。

それにしても、北ノ湖理事長、横綱審議会のみなさんが、朝青龍の「反省」を認めたようです。

まぁ。諸般の事情を考慮し「渋々認めざるを得なかった」と云うところでしょう。兎に角、相撲は「興行」なのです。それなりの「演出」と「演技」は必要です。


それでも、“私は相撲の味方です!”と、正々堂々、大声で宣言しま~す。

少し、酔っていま~す。

それでは、また明日。 


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「守屋ご夫妻」如何お過ごしですか?

2007年11月29日 | 世間話し
取手シリーズは一休みして、本日は雑談です。

取手の話しも、たぶん後一回で終わりそうです。それにしても、この頃ずーとお天道様の顔を見ていない気がするのです。

寒くて、暗くて、気分も冴えません。ブログの更新も面倒臭くなるのです。今日は、思い付くまま、気の向くまま、取り留めのない話しをします。

人間の「気持ち」は天候に大きく影響されますよね、明るい太陽の下、温暖な気候の土地で暮らす人は、外向的、楽天的、おおらか、いつもニコニコ顔。

一年中、曇よりとして、寒い気候の土地で暮らす人は、内向的で、陰気で、悲観的で、深刻そうな顔。

文明の中心は、暖かい地方から、寒い地方に移動している何て聞いたような気がします。寿命は、年中暖かいところで、ボンヤリ暮らしていると縮まるそうです。

定年後、南の島に移住してノンビリ暮らしていると、直ぐに死んでしまうかもしれません。

ところで、防衛省の「元次官」が逮捕されましたが、奥さんまで逮捕されたのには驚きました。

逮捕の当日、検察からは事前に連絡があるのでしょうか? 亭主が逮捕されて、検事に「あんたも逮捕!」何て云われた時は、相当ショックを受けますから、多分、前日に電話があったのでしょう。

逮捕される時は、それなりに「着替え」「洗面道具」何てものがいるのでしょうからね。

しかし、です。普通の人は、その地位に応じて、それなりの「旨い話し」は有るものと思いますよね。

街頭のインタビューなんかで、「けしからん」何て云っても、ホンネでは「旨いことやりやがって」と思っているのです、普通の人は。

逮捕されて「ざぁまあみろ」と思っているのです。それなりの地位の人が、それなりの「美味しい思い」は許されるのが、世間の風潮です。

取引先の業者から、お中元、お歳暮、進学祝い等を貰っていると、貰うのが当たり前、何処が悪いの? 何て感覚は「普通の人」ならば当たり前なのです。

しかし、「美味しい思い」をしたのが、「防衛事務次官」で、「見返り」を求めたのが「武器商社」ですから、これは「大問題」です。

「防衛事務次官」などは、「普通の人」がやってはいけません。清廉潔白、信念と理想を持って、国民に奉仕する事に喜びを感じる人がやる仕事です。

どうも、国の指導的立場の人間が「腐って」きているようです。

社会的に高い地位の人は、イイ家に住み、イイ料理を食べ、イイ車に乗り、いい服を着て、お金をイッパイ稼ぐ、それが「エライ人」で、社会的な尊敬を集める、そんな世の中の風潮が影響している気がします。

みんな「金儲け」をして「エライ人」になり、美味い物を喰いたがっているようです。

今回の事件は、何処まで広がるのか、政治家まで逮捕されるのか? 

「経世会」と「清和会」の利権争奪戦との話しがあります。「清和会」の後ろ盾で次官になった守屋、守屋の口から出た、「経世会」久間、額賀の名前。

ひょうたんから駒で、戦後最大の「防衛産業疑獄」に発展し、「経世会」「清和会」のトップに検察の手が伸びたら面白くなるのですが・・・・・・・。

直近の総理大臣経験者が逮捕され、有罪となったロッキード事件の前例があります。この時も「本命」は、「軍用機」の取引にあったようですが、民間航空機のレベルで事件は収束しました。

今度こそ、「軍事産業利権」まで検察に手を入れてもらいたいものです。

米国も共和党から民主党に政権が変わる筈です。経済、政治、軍事、すべての分野で「落ち目」の米国は、今までどおりには行きません。

ここらで大掃除が始まるかもしれません。アーミテージあたりに上院外交委員会か何かで、訴追免責特権を与えて、イロイロ暴露させるかも知れません。

そして、日本も政権交代の可能性が出てきました。こんな内外の事情から、もしかして、伏魔殿の中に手が入るかもしれません。

東京地検特捜部のみなさん「ガンバッテ」下さいね。

それにしても、お天道様の顔が見たいです。青空の下、気ままに、何処かを歩き回りたいです。「普通でエラク無い人」は自由なのです。


それにしても、守屋ご夫妻「東京拘置所」の「居心地」は如何ですか? 
寒くないですか? 良く眠れますか? 食事は口に合いますか?

国民全員で「ざまー見ろ!」と思っていますよ~~~。


それでは、また明日。 


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「取手宿本陣」歌に込めた斉昭の思い!?

2007年11月28日 | 建物の話し
昨日の続きです。

母屋を出て、庭の脇を通り、階段を登った先にある、水戸藩九代目の藩主「徳川斉昭」の詠んだ「歌碑」を見に行きました。

歌は、天保11年(1840年)の1月、水戸に向かう斉昭が利根川を渡る船の中で詠んだそうです。

一泊した翌日、和歌2首を上段の間の袋戸に貼り付けて出立しました。貼り付けられた2首の和歌は、軸装されて家宝として染野家に伝わっています。

取手川のところは読めますが、後はほとんど読めません。

このうちの1首は,天保14年(1843)5月に、水戸藩より石に刻まれ染野家に贈られています。

  『指して行く さほのとりての 渡し舟

           おもふかたへは とくつきにけり』

わざわざ、歌碑まで造った思いは何か?

染野家に対する配慮ではなく、これには斉昭の「歌に対する」強い思い入れがあった様に思うのです。

石に刻んでまで、後世に残したかった思いが、この歌に込められていると思うのです。


それで、歌碑の脇に立てられている「案内板」を見たのですが、歌の経緯はあるのですが、歌の解釈は書かれていません。


そこで、大胆にも! ど素人の! このわたくしが! 歴史的背景を探り! 歌に込められた斉昭の「思い」を! 解釈する! 暴挙に出る! 決意を固めました!


斉昭が生きた時代は「幕末」であり、家康以来の幕藩体制に制度疲労が生じ、政治経済が行き詰まっていた状況で、海外からは開国を迫られていました。

所謂、「内憂外患」の時代で、その解決方針をめぐって、改革派と守旧派が対立していました。

斉昭は「尊皇」であり、「攘夷派」です。しかし、西洋の科学技術の導入には積極的でした。蘭学者に造船技術書の翻訳をさせたり、間宮林蔵に「蝦夷地」の状況を訊ねています。

歌を詠んだ天保11年ですが、前年に斉昭は幕府に対して、外洋航海可能な「大船解禁」や「蝦夷地開拓」ついて、幕府に提案するのですが、却下されています。

そこで、この和歌なのですが

  『指して行く さほのとりての 渡し舟

           おもふかたへは とくつきにけり』

“指して行く”は、「これからの日本のあり様を指し示す」と、解釈できます。

“さおのとりて”は、船頭の事であり、これは「国を先に導く指導者」を意味します。指導者は勿論「斉昭」です。又、“とりて”は「取手」に引っ掛けてもいます。

“渡し船”は日本のことです。

“おもふかたへは” 「考えている方向に進めば」となります。

“とくつきにけり”は、「とくつき」は富みであり「繁栄」が約束される。

と、この様に解釈したのであります。

斉昭の改革案が幕府に否決され、不満を抱きつつ水戸に向かっていた利根川の船上で、舟を操る船頭を見ていて、自分が日本の船頭になり、思うとおりに棹を操ってみたいと思ったのでしょう。

歌碑を贈った天保14年は、水戸藩内の改革で、反改革派との権力闘争に敗北し、藩主を失脚、翌年(1844年)、幕府より致仕・謹慎を命ぜられています。

この人が「斉昭」です。左は斉昭の息子、最後の将軍「慶喜」です。


幕府の大老「井伊直弼」により、「日米修好通商条約」を結んだのが1858年。

「日米修好通商条約」対して尊王攘夷派が反対運動を起こし、それを押さえ込む為に、井伊直弼は、1858年から59年にかけて尊王攘夷派の公家や大名を処刑します。「安政の大獄」です。
 
これに怒った尊王攘夷派の水戸藩士たちは井伊直弼を殺害します。1860年に起こった「桜田門外の変」です。

そして、1867年の大政奉還で幕藩体制が終わり、明治維新となるのです。


きょうは、「激動の時代」幕末を生きた「徳川斉昭」の「お勉強」でした。


それでは、また明日。
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「旧取手宿本陣染野住宅」 その3

2007年11月27日 | 建物の話し
昨日の続きです。

「旧取手宿本陣染野家住宅」は「茨城県指定有形文化財」、「取手市指定史跡」になっています。

有形文化財で「一番エライ」のが「国宝」で、次が「国指定重要文化財」で、次が「都道府県指定有形文化財」で、一番下っ端が「登録文化財」ようです。

「取手宿本陣」は上から三番目に重要なのです。

昭和62年から平成8年まで解体修理工事が行われたようですが、それに関する説明、改修前、改修中の写真展示等があれば、それなりに面白いと思うのです。

当然、教育委員会には写真が保管されている筈です。仕舞って置かないで公開して欲しいと思うのであります。

戸のすり減り具合は、建築当時のままのようです。


この柱も二百年の色です。


この天井板も、二百年の「風雨の跡」なのです。


「シミ天井」のある、居住部分に「神棚収納箱?」があります。格子戸付きの収納箱の中に神棚が入っていたようです。

南向きに取り付けられているので、多分、神棚に間違いないです。


この正面玄関脇のガラス窓は、郵便局だった名残だそうです。


郵便局の局長さんは「村の名士」で、昔は学校の運動会には、「駅長」「局長」「村長」さんの、「三長さん」と、駐在さんと寺の住職は、必ず来賓席に居たようです。

郵便局の局長さんは、「局長」だからエライのではなく、その土地の、旧家、資産家等の、元々の「エライさん」が郵便局長になったそうです。染野さんも「偉かった」のです。


最初に外から見た時に、この部分だけが「少し変」でした。どう見てもこのガラス窓は「受付窓口」に見えました。


本日は天候も思わしくなく、気分も思わしく、いまいち「ノリが悪い」ので、この辺で終了します。


それでは、また明日。 





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“旧取手宿本陣 ”の曲がりくねった梁

2007年11月26日 | 建物の話し
一昨々日の続きです。

厠で「用足し」をして、裏庭を鑑賞し、土間の勝手口より母屋に戻ります。室内は薄暗く天井は真っ暗です。

火を使い煮炊きする土間の上には天井板は張ってありません。天井裏がモロ見えです。



眼が慣れたところで見上げると、煙に燻され、煤にまみれ、黒々とした太い梁でしっかりと支えられています。


築二百十二年(寛政7年・・・1795年)で、敷地面積は2393.65㎡(725.3坪)、建坪は312㎡(94.5坪)で、常磐線快速の始発駅より徒歩5分、都心まで約30分です。

今、この程度の家をここいらに建てたら「数億円」でしょうね。この施設は昭和62年に「染野さん」から、取手市に「寄贈」されたそうです。

染野さんは、旧家で、資産家で、大地主で、太っ腹なのでしょう。

土地については寄贈されていないようなので、土地についての「固定資産税」はどうなるのでしょうか? 多分、公共目的に使用されているので「免除」されているのでしょう。

ヤバイ! 話しが「下種の勘繰り」方向に・・・・・・・。

黒々と歴史の染み込んだ立派な梁です。


この曲がりくねった素材を組み合わせて、真っ直ぐな家に造り上げるのは、現場での「現物合わせ」で、切ったり、削ったり、穴を開けたりして、水平、垂直を出していくのでしょう。


真っ直ぐな材料だけの組み合わせよりも、曲がりくねった材料の組み合わせの方が「建てがい」ありそうですし、「鑑賞がい」があります。


それでは「座敷」にあがります。


槍を掛けるところです。かなり「質素」な造りです。


奥の一段高い座敷「上段の間」は、「御大名様」のお部屋になります。


この「取手宿本陣」は水戸藩の本陣なのですが、水戸藩は徳川御三家で「参勤交代制」ではなく、「定符制」で、藩主は常時江戸の藩邸にいたそうです。と云う事は、この「上段の間」はあまり使われたことは無いのです。

上段の間にある「板欄間」。なかなか「寂び」が効いています。


上段の間、二の間、三の間の西側にある縁側です。


見学者は3組ほど見かけました。中年の夫婦らしき見学者です。


上段、二の間、三の間、すべて八畳敷で、思っていたよりも狭く、全体に質素な造りでした。

もう少し「本陣」の見学は続きます。

それでは、また明日。 


※余談です
世の中の三連休に合わせた訳ではないのですが、プログも三日間お休みしました。

ところがです、昨日26日に「144」と最近にないアクセスがありました。それに加えて、その内の「56」が、今年の2月9日の“「奥谷禮子さん」知りませんでした!”だったのです。

今頃になってどうして? 「過去の人」の話しにアクセスが集中したのか不思議です。

奥谷さんに何かあったの? 誰か知っている人いませんか? 何か気持ちワルーイです。

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「旧取手宿本陣」は“ひっそり静かに”

2007年11月22日 | 建物の話し
昨日の続きです。

弘経寺を後に、水戸街道を越え、常磐線を越え、「取手宿本陣」を目指しました。

取手駅の近くに「旧本陣」の建物が残っていると、「それとなく」聞いていたのです。場所も「それとなく」でした。

取手駅の周辺は、車では何度も通り過ぎた事があります。一度だけ、自転車で走った事もあり、その時「何となく」本陣を探した覚えがあります。

今回も、それらしき、ありそうな場所を目指しました。「本陣」なんですから、当然、街道に面している筈です。

駅を過ぎ、暫く走ると「それらしき門」があり、「公開中」の・・・何て云うのでしたっけ? この「折りたたみ式立て看板」の名称?

兎に角、これは「間違いない」と思い門を潜りました。

入って直ぐのところに「案内板」がありました。間違いなく「旧取手宿本陣」です。


この手の案内板は、外を通る人の眼に付き易い場所を選んで立てるのが「普通」です。

取手市教育委員会は、分けの判らない輩に入られるのを嫌っているようです。そっと静かにしておきたいのでしょう。

興味のある人達だけが、静かに訪れる事を望んでいるのでしょう。中に入って判ったのですが、公開は、金曜日、土曜日、日曜日の週3回なのです。

以前、それとなく本陣を探した時、この前を通り過ぎています。その時に気が付かなかったのは、閉館日で門を閉ざしていたからでしょう。

「興味のある人達だけに、ひっそり、静かに見て貰う」。この姿勢、それは、それでOKだと思います。

それで、入って最初に眼を引くのは「大きな茅葺き屋根」の重量感です。

「大きな屋根」は「公(おおやけ)」の語源だった様な・・・・・・そんな思いが頭を過ぎりました。何と云っても「権力者の宿」ですからね。

時代劇に出てくる様なと云うか、正しくこちらは本物です。ここから「殿様」が入って行ったのです。


殿様ではない私は「脇の勝手口?」の土間のある「入り口」から入らせて頂きます。ここが「正式」の見学者入り口になっています。


二人の中年女性係員がいる受付で入館手続きです。住所と、名前と、利用交通手段に丸を付けます。


自転車は交通手段に無く「その他」の所に丸を付けるように指示されました。自転車はその他なのです。

私が首からカメラをぶら下げ、目つき、人相が悪かったせいなのか、「営利目的の撮影は禁止されています」と云い、傍らの同僚に「そうよねぇ」と同意を求めていました。

営利を目的に撮影に来る者が自転車に乗っては来ないでしょ? まして、安物のコンパクトカメラでは撮影しないでしょ? と思いつつ、何となく軽く頷くのでした。

受付を済ませ、先ずは外側から攻めようと、土間の奥にある出入り口から外に出ました。

外に出ると、「土蔵風」の立派な「トイレ」と云うよりも、ここは「厠(かわや)」と呼に相応しい便所を発見。

見ると条件反射的に「もよおして」来たのです。


新しいようで、管理も行き届いています。色使いもイイです。


サッパリ、スッキリしたところで、本陣の見学を開始します。

厠を出て正面に見えたのは「裏庭」です。なかなかです、茅葺き屋根に調和した、田舎風の「寂び」のある庭です。


高床、踏み石、縁側、真っ白い障子。 イイです!落ち着きます。


これから、内部の見学、なかなか面白そうです。


この続きは次回とします。


それでは、また明日。 




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取手市の“がっしょうののさま”が可愛い!弘経寺。 

2007年11月21日 | お寺・神社

突然ですが、10月18日に予告もなく突然中断した「取手シリーズ」を再開します。

えーと。今、写真を見ながら記憶を呼び覚ましています。

えーと・・・・・・そうです。取手競輪場を見学して、正面ゲート前の急坂を下って大通りに出て、少し行った先で脇道に入ったのでした。

市内の「案内板」にあった「お寺」を探したのです。競輪場の裏手に位置していました。遠くにそれらしき樹の繁った高台が見えて来ました。

高台の下をぐるっと回る道があり、何本か高台に上がる坂道があったのですが、もう少し先、もう少し先と、奥に進んでいったら、住宅街に入り込み行き止まり。

来た路を引き返し、最初に見つけた坂道を上がる事にしました。坂を登った先は予想どおり、お寺の参道に通じる路に出ました。

かなりの坂道を「座り漕ぎ(この日は自転車)」で登って来たので、参道で一息ついていると、大きなトラックのエンジン音が響いてきました。

ダンプカーの巨体が、参道の石畳の上をゆっくりこちらに向かって近づいて来ます。

石畳に、鐘楼門に、大型ダンプ、奇妙な風景でした。

傍でマンションの建設中なのです。工事車両は参道を通るしか道がないようです。

「山門」と「鐘突き堂」を一つにしたスタイルです。

鐘楼門のため高さがあり、両脇の塀とのバランスが良くないです。塀が低く、長さが短く、安定感、重量感に欠けます。

やはり、ここは、やっぱり「鐘」は鐘、「門」は門として独立していた方が良いようです。二つの役割を一つにしたのは「金」の問題でしょうか?

「鐘突き堂」として見ると、なかなかいいのです。


落慶が平成3年4月29日になっています。最近できたのです。



平瓦と丸瓦の本瓦拭き、角のこの「反り具合」が気持ちイイです。


隣はお寺が経営する幼稚園。元気に遊ぶ声が聞こえてきます。トテモ可愛いです。


園の入り口には可愛い「銅像」の「がっしょうののさま」、園児に読めるように「ひらがな」です。


私の孫も、今年幼稚園の「年少さん」になりました、「ひらがな」は全部、カタカナもかなり読めるのです。

今の子供は何でも早いようです。私などの頃は、鼻を垂らし、指をしゃぶり、泥をこね回していました。字を読む何て事はトテモ、トテモ・・・・・・。

こちらにも、利口そうな子供「せいしまるさま」が居ました。このお寺は「浄土宗」です。開祖の「法然上人」の幼い頃の銅像です。

法然上人の幼名「勢至丸(せいしまる)」。これも園児を意識しているのでしよう。


本堂は「鉄筋コンクリート造り」です。銅板拭きの屋根はいいのですが、鉄筋とコンクリートは「有り難み」に欠けます。


木造の様式で鉄筋はいけません。鉄筋は鉄筋で、それに相応しいデザインを採用すべきです。

鉄筋を木造に「見せかける」のは、どうにも「頂けません」。宗教施設に「偽り」があってはいけないのです。

そうでした、このお寺の名前ですが「大鹿山清浄院弘経寺」といいます。格式の高い「御朱印寺」だそうです。

開山は、応永21年(1414年)。浄土宗の第七祖聖冏(しょうげい)の弟子、良肇(りょうじょう)だそうです。

天正18年(1590年)徳川家康が当地に遊猟の際に立ち寄り、三十一石の御朱印を授かったそうです。

取手は「競輪場」だけではないのです。こんな、なかなかのお寺があったのです。

まだ、取手にはいろいろありそうです。

それでは、また明日。 





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驚き!ホント“吉兆”です!ブランドです!

2007年11月18日 | 世間話し
あの「超」の付く「一流料亭」の“吉兆”が、デパ地下で「洋菓子」から「お総菜」まで売っていたのは驚きでした。

私など、「一流」と付く「料亭」さえも近づくこともできないのですが、一流の上に「超」が付く料亭の「吉兆」がですよ、デパ地下で洋菓子にお総菜を売っていたのです。それも、消費期限を「改ざん」してです。

「デパ地下改ざん事件」後、ブロイラーを「地鶏」と偽って売ったり、普通の牛肉を「但馬牛」として偽装して売ったり、やりたい放題のデタラメぶりが明らかになりました。

それにしても、「吉兆」が、東京吉兆、京都吉兆、船場吉兆、神戸吉兆、本吉兆に「のれん分け」されていたのです、知りませんでした。
まぁ、知っていても、何の役にもたちませんが・・・・・・。

大阪商人らしく、東京は「長女の婿さん」が、京都は「次女の婿さん」が、船場は「三女の婿さん」が、神戸は「四女の婿さん」が、社長をしているのです。

後継者には「優秀な男」を連れて来て、娘と結婚させる。子育てに失敗して「馬鹿娘」になっても、この方式であれば「店」は安泰です。

大阪の商家では、男の子よりも、女の子が生まれる事を喜ぶようです。男の子だと子育てに失敗し、「馬鹿息子」になった時、後継者問題でいろいろと面倒になるのです。但し、「本吉兆」だけが長男が継いでいるようです。

優秀な男の筈だった、船場吉兆の「三女の婿」は、規模拡大と金儲けにしか興味がなかったようです。名店の暖簾は単に商売の「手段」としか考えていなかったようです。

創業者の「貞一さん」も草葉の陰から、「正徳だけは、何処か納得しかねるところがあった」と、生前から思っていたのかも・・・・・・。

それにしてもです、問題発覚後の経営陣の対応は「最低」ですね、経営姿勢と云うよりも、「人格的」問題です。

責任を仕入れ業者や、現場のパート従業員に転嫁し、逃げ切ろうという姿勢。調べれば、直ぐに嘘と判ってしまうような言い逃れを、何度も繰り返す態度は最低です。

しかし、こんな「奴ら」が「超一流料亭」の経営をやっていたのです。不祥事が起きると、これまで「立派な経営者」、「人格者」だと‘思われて’いた、そう‘見えていた’人が、トンデモない、ミジメな人達に「見えて」来ます。

世の中、「やり手」と云われる経営者とトンデモナイ奴とは、「紙一重」のようです。 

今も、何人か、何十人かの「その手の奴ら」が世間の「尊敬」を集めているのでしょう。

それにしても、「ブランド」は高く売れるのです。

吉兆も、但馬牛も、地鶏も、ブランドです。兎に角、「ブランド」を有り難がるのは止めた方が良いと思うのです。

ブランドよりも中身です。「安倍晋三」も「ブランド」でしたが、中身が「アレ」でしたから・・・・・・・。

「福田康夫」もブランドです。彼の中身は大丈夫でしようか?

それでは、また明日。 





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“ちりとてちん”で涙がポロリ

2007年11月17日 | テレビの話し
今日の「ちりとてちん」は泣けました。草若が高座に上がるシーンは、まったく想定外の展開でした。

「和久井映見」に無理やり連れてこられ、客席で弟子達の落語を見つめ、最後に上がった息子小草若の「寿限無」を聞き、


すべての「思い、迷い、拘り」から解き放たれる。

草若が席を立ち、高座に上がり、客席にお辞儀し、まくらで3年前の思いに触れ、



本題の「愛宕山」を語り始める・・・・・・・、涙がポロリと落ちてきました。




「渡瀬恒彦」の「草若」は「おいしい役」です。


「寝床」の客席も、楽屋の弟子達も、テレビの前でも、今日は、日本中で涙を流したことでしょう。

いい人の、いい話しに、感動したいのです。涙を流して「スッキリ」したいのです。

以前、このドラマが始まった時に「関西弁は嫌い」と書きましたが、嫌いだったのは「神助」と「さんま」、そして「吉本的関西」が嫌いだったことが判明しました。

それにつけても“和久井映見”は“トッテモ”いいです。このドラマの主役は「貫地谷しほり」ではなく“和久井映見”に間違いありません。



さぁ。12時45分の再放送を見て、もう一度、感動して、涙を流して、スッキリ、サッパリします。


それでは、また明日 



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朝青龍、亀田、そして小沢さんの「もろ出し」

2007年11月15日 | 雑談
それにしても、朝青龍はどうしたのですかね、何だかんだ云われて、いろいろな噂が囁かれても、やっぱり日本に戻って来るようです。

朝青龍には“時”が味方しているようです。テレビの話題は朝青龍から「亀田問題」に移り、亀田が下火になると「時津風問題」、時津風も色褪せて来たところで、「小沢さんのプッツン事件」です。

テレビでは、朝青龍も、亀田も、時津風部屋も、小沢一郎も同じなのです。

相撲協会は「時津風問題」の出現により、「朝青龍問題」が相対的に小さな問題に変化した事を、影では喜んでいる筈です。

協会としては、朝青龍問題は「ウヤムヤ的」に処理し、そして「八百長問題」は遠い過去の問題として忘れてもらう。

週刊現代も大夫儲けたのでこの辺で“次のネタ”に移る時期でしょう。人の噂も七十五日です。

それにしても「琴光喜」です。やっぱり、元の琴光喜です。人間はそう簡単に変わらないし、変われないのです。

相撲取りは「考え過ぎる人」には向かないのです。相撲だけではなくスポーツは「考えすぎ」はいけないのです。長嶋茂雄は「考えない」のです。

考え過ぎない事、自分を信じる事、これができれば一流なのです。土俵に上がったら「俺は勝てる」と思い込むこと、「負けるかも」と思う人は負ける確率が高くなるのです。

朝青龍が強いのは、「負ける筈がない」と思って毎回土俵に上がっているからです。単純に自分を信じることが出きる、これが勝利の秘訣です。

同じ様な能力を持っていても、「信じる」事が出きる人が勝ちます。


それにしても、小沢一郎さんです。

私はこの間、大連立、辞任、説得、再登板の一連の小沢さんを見ていて、何故か親近感を感じるようになりました。

「一ちゃん」と何処か場末の居酒屋で一杯やりたくなりました。話し下手、人前には出たくない、根回しが下手、人の話を聞かない、自分が正しいと思ったら一人で勝手にやってしまう・・・・・・親しみのある性格です。

あの顔がすべてを物語っています。兎に角「人相が悪い」。それと、表情の特徴的なのは、「笑い顔」から「真顔」に戻る時に、途中の表情がないのです。

これは「笑い顔」を作るのに、かなり無理をしている証拠です。本心では人前で笑顔など見せたくないのです。笑うのが面倒臭いのです。

笑顔から真顔に戻る途中が無い有名人に、あの偉大な監督「大島渚」がいます。この「途中無し人」は独善的な人の特徴です。映画監督は独善的で独裁的な人に向く商売です。

何故? 「途中無し人」が、独裁的、独善的なのか? 独裁的で独善的な性格の人は「笑顔」と「真顔」の途中がないのか?

政治家にも「独善的」「独裁的」な資質は必要と云うか、そういう資質の人がなりたがる商売です。「途中無し人」は、大物と云われた政治家に多く見かけるのです。

考えて見ると、自分を信じて疑わない人こそが、すべての分野で“一流”と云われる条件の様に思えます。

それにしても、そう簡単に自分を信じる人は怖いですね。

それでも、「一ちゃん」に「親しみ」が湧くのは、独善的、独裁的な性格が「もろ」表面に出ているところかも知れません。

「もろ出し」は政治家として成功しない確率が高いです。党首に就任したとき「自分も変わる」と云ったのですが、あの歳になってそう簡単には変われません。

世の中、一見「親しみ易く」、一見「人の話を良く聞く」、そんなポーズを演出して「独善独裁」の臭い隠しているの人が、一番「たちが悪い」のです。


兎に角、変われない琴光喜も好きです。「性格」は変われないけど、「政策」は変わる小沢一郎も好きになってきました。

ところで、あの「福田康夫総理大臣」ですが、どうも、「たちが悪い」ような、そんな臭いを感じる今日この頃です。

兎に角、雑談でした。


それでは、また明日 





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