歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

文化財保護審議会副会長と懇談

2009年09月09日 | 女化道標問題
もう、ホントに、久しぶり、暫くぶりの“女化道標問題”です。

それで、この間、6月と7月の2回ほど“牛久市文化財保護審議会”の委員の方と意見交換をしていたのです。

でも、しかし、“いろいろと”あり、すぐにその内容をブログにアップする気力が萎え、とうとう、今日に至ったのであります。

まぁ、それで、結論から先に云えば、これまでの指摘事項に関しては、それなりに取り上げて貰い、それなりの成果はありました。

それでは、時間的経過に沿って話していこうと思います。

それで何ですが、時間が経ち過ぎて、かなり記憶が曖昧になっており、資料を引っ掻き廻し記録を探しつつ、記憶を辿りつつ、説明したいと思います。

それで、1回目の“会談”ですが、6月23日だったと思うのですが、牛久市の生涯学習センターにある、教育委員会生涯学習課の会議室で1時半からでした。

これが、生涯学習センターです! 大した“箱モノ”です。右側が市民ホールになっています。

それにしても、この“生涯学習”と云う名称ですが、日本全国津々浦々の自治体にあるようです。きっと文部科学省には“本家生涯学習課”がありそうです。

“一生涯これ学習”何て事は、私にとっては“嫌なコッタァ”です。

この左端の建物の一階が生涯学習課で、手前の窓に面して会議室があります。


それで、当日は1時半の約束でしたので、駐車場で時間を15分ほど潰し、生涯学習課の受付には5分前に到着。受付で用件を告げ会議室に通されました。

部屋には70歳前後の男性が一人、軽く会釈してテープの向かいに着席。ほどなく男性1名と女性1名が現れ、男性が左側に、女性が右側に着席。4辺に一人ずつの配置です。

左の男性が、これまで連絡を取り合ってきた生涯学習課の職員である事を名乗り、向かいに座る男性が“牛久市文化財保護審議会副会長”であることを紹介。

そして、私を副会長に紹介。副会長は2枚の名刺差し出しました。


何故二枚なの?と思い、2枚を見比べると、右側の方には、副会長の住所・電話番号が記されていたのでした。

副会長さんは肩書きからの想像とはすこし異なり、“アカデミック”な雰囲気ではなく、親しみ易い印象です。

男性職員から、この間のやり取りが簡単に説明され、今日の場は、私からこれまでの「質問・疑問」について、改めて説明し、その後、意見交換と云う事になりました。

そうでした、思い出しました。こちらから説明する前に、4月に届いた「女化道の道標とその説明文の文面についての回答・・・・・・田宮の読みは、たみや?たぐう?たくう?問題」の内容をブログで「一部無断で公開」した事について、審議委員よりクレームがあったと告げられたのです。

※この時点で、私のプログの存在を知っていた事が判明。4月頃に気が付いたそうです。このこともあり、その後、今日まで「女化問題」が書き難くなった面もあります。顔を知っていると、なかなか、正直にストレートに書き難いものです。

私としては、メールの文面にあった「別添ファイルの無断使用(転用)はしないでください」の解釈を、要点のみであれば、「全文をそのまま掲載」でなければ、問題ないと解釈していたと釈明。

部分的であれば問題無いのでは?どのあたりが問題ですか?と問うと、副会長がその「回答書」のコピーに、公開しても問題無い箇所に鉛筆で線を引き始めました。

見ると、私がプログにアップした内容とほぼ同一なので、この程度しか公開してない旨を告げると、“クレームの件”は、それとなく、なんとなく、了解してくれました。まぁ、最初から、“憤慨”していると云ういう様子ではありませんでした。

それで、「田宮問題」に関して副会長が書いた文章が掲載されている、「広報うしく」のコピーを頂きました。こちらには、かなり詳しく載っていました。

最初からこの「広報うしく」のコピーを貰えれば、何にも問題は無かったのです。コピーからは発行年月日は分かりませんが、きっと、あの時点では、この資料が見つからなかったのでしょう。

話が長くなりました。続きは次回とします。


それでは、また明日。

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水戸道へ続く道は境界線を辿る道

2009年06月09日 | 女化道標問題
昨日の続きみたいなものです。

実は、あの日、途中で気になった場所があり、牛久宿から引き返しその場所へ戻ったのです。

その場所は、“ニュータウン長山”の手前にあり、周囲にパイプの柵を巡らし、入り口には鎖が張られ、それなりに車両の進入を阻止していました。

何なんだ?と思いつつ、水戸道を目指し、先を急いでいたので、ちょっと横目で眺め、通り過ぎたのでした。


辺りをそれとなく警戒し、鎖を乗り越えたのです。“私有地に付き進入禁止”とか、“危険進入禁止”とか、“関係者以外立ち入り禁止”とか、その手の看板は見あたりません。


すこし入り口を進んだ処に、これが、


保全事業で整備された森林のようです、“みんなで大切にしましょう”と呼びかけているようですから、勝ってに入って散策を楽しんでも問題は無いようです。

でも、この看板の説明書きは、積極的に散策を歓迎している様ではなく、“まァ。自然を大切にするならば入ってもかまわないけどねェ”的な匂いがします。

入り口に張られた鎖は、車両の進入を阻止する為のようです。兎に角、何となく、辺りを窺いながら、遠慮がちに歩きはじめます。


なかなか、いい感じ、


見上げると、木漏れ日が、


右も、


左も、雑草繁る雑木林。


こんな感じ、


こんな感じ、こんな感じが、ずっと、ずっと、続きます。


マンホールの蓋です。


すこし先に看板が、ガス管が埋まっているようです。


何となく、終点が近い雰囲気が、


左側に柵が現れました。柵の向こうは私有地?


柵の杭は、じょじょに、自然に、大地に、戻りつつあります。


針金に支柱が、支えられて、やっと立っています。


やっと民家が見えて来ました。


何処に出たの?と思い、あたりの様子を窺うと、出た処は“水戸道”でした。


自然を観察し、鳥の囀りを聞き、のんびり散歩するにはいいところです。のんびり、ゆっくり歩いて、往復1時間弱です。

この日は、ウグイスが囀り続けていました。夏になると、セミの合唱で相当に五月蝿いかもしれません。

地図で云うと、黒い線で描いたところを辿って来たようです。


それで、地図を改めて見ていたら、女化道標から“水戸道”へ続く道は、牛久市と龍ヶ崎市との境界線を辿っているのでした。

正しくは、境界を辿って道が出来たのではなく、この古い、脇街道? 枝街道?を、昔、むかし、その昔に、境界線にしたのだと、そう思うのです。

ですから、故に、この道は、かなり昔のままなのです。道標が建てられた当時と、ほとんど同じ道筋を辿っている筈なのです。


本日は、何となく、それとなく、“そうかァ、そうかァ”で、お終いです。

それでは、また明日。

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牛久の宿 “踏切の哀愁”そして“ヘッドライト”

2009年06月08日 | 女化道標問題
先週の続きです。

道路工事現場を過ぎると、ちょっとした登り坂になります。ここまで、実際には車の往来はかなりあったのですが、なるべく撮さないようにしていました。


坂を登りきった処で、ほとんど全ての車が右折しています。


この奥に、学校や、新興住宅地があるようです。先ほどの道路工事は、その辺の交通量の変化に対応する為だったようです。


こちらは、右折はせず直進し牛久宿を目指します。このあたりから、やっと“水戸道”の風景になってきました。

この感じです、数年前に通ったこの道は、ずっこんな風景の連続でした。あの時は、暗く、狭く、人通りもなく、車の往来もなく、寂しい道でした。


知らない道を、はじめて通るとき、何処に出るのか? 知っている道と何処で繋がるのか? 不安感と期待感の“ごちゃ混ぜ感”がたまりません。遠くに踏み切りが見えてきました。常磐線です。


踏切はいいです。遮断機が下りて警報機が鳴る、遠くから迫ってくる列車、目の前を通過する時の重量感、スピード感、吸い込まれそうな恐怖感、そして、通り過ぎ消えていく赤い尾灯・・・・・・・。

もう、これは、哀愁です! もうこれは“三橋美智也”です! “哀愁列車”です!

哀愁列車  三橋美智也


そして、新沼謙治の、この曲、北に帰る歌もいいです。彼の曲ではナンバーワンだと思います。

ヘッドライト-新沼謙治


今日は月曜日、肌寒く、外は暗く、そぼ降る雨・・・・・・、こういう時は、哀愁が恋しくなるものです。


それで、この踏切、“銅像山踏切”と云うそうです。銅像山? どの山が銅像山?銅像がある山? いわゆる銅像風?の形をした山? 辺りを見回したのですが、何だか良く判りのせん。


佐貫から牛久まで、長い直線が続きます。地平線に続く線路、ずっと、ずっと行くその先は“陸奥”です。


線路と平行する国道6号線、通称“水戸街道”です。旧水戸街道と新水戸街道がここで合流します。


踏切の直ぐ先、二股の信号を左りに入ると、旧街道は“牛久の宿”になります。


この先、ゆるやかな坂を登ると牛久宿に到着。


宿場の面影を漂わすのは、この立派な塀と門構えのお宅です。明治天皇が休憩した事があるそうです。いわゆる本陣ではありません。


以前、聞いた事がありました。牛久近辺の草原で行われた、陸軍の軍事演習を明治天皇が視察?観閲?した事があったそうで、その時に立ち寄ったのかもしれません。

こちらが、入り口が狭く、見落としてしまいそうな正源寺。山門に立つ、石造りの仁王様。かなり強そうです。


これで、やっと、牛久宿に到着しました。

女化道標から、水戸道を目指し、そして若柴宿に向かい、そこから、いったん水戸道を引き返し、牛久宿までを辿る“シリーズ?”でした。

週のはじめに終わるのは、何となく変なので、あと一回だけオマケを付けます。

次回は、ホントに最後のオマケの回です。


それでは、また明日。


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道路工事は4千7百88万円で高いの?安いの?

2009年06月05日 | 女化道標問題
昨日の続きです。

「成井一里塚」を通過して、牛久宿に向かいます。

塚の直ぐ先の交差点、この道が“カントリーライン”です。


地図で見ると、緑色の道が“水戸道”で、向台小を目指して進んでいます。途中で交差している“白い道”がカントリーライン。


ここから先、道路にセンターラインが引かれ、歩道も整備されています。数年前に来たときは、狭まくて暗い山道の印象だったのですが、


とても、明るく、広くなりました。先の方では工事が進行中のようです。、


やってます、赤土が剥き出しになってます、工事車両が動き回っています。


新しい道路を造っているそうです。


工事の看板、驚きました! 


金額が書かれているのです。4千7百88万円です。そう言われても、この位の工事で、安いのか? 高いのか? 適正価格なのか? 素人には判りません。

それにしても、こんなの生まれて初めて見ました。これも、今はやりの市政公開の一端なのでしょう、これを見て、“なるほど”とか、“そんなもんか”とか、“高い!ふざけるな!”とか、考えさせ、怒らせ、悩ませ・・・・・・。

そして、市政に対する市民の参加意識を高めていく、そんな一環なのでしょうか? ねェ、池邊勝幸市長。

えッ!池邊さん?・・・、いけのべ・・・?、イケノベ?・・・、そうか! あの落花生会社や、ガソリンスタンドや、精米所や、不動産屋の、イケノベグループの方だったのですか? ※後で調べたらそうでした。

だから、それが、どうした? と、聞かれても、特に、何も、深い意味も、魂胆も、ありませんです。ハイ!

それで、道路工事の方ですが、右の山から新しい道路が下りてくるようです。


工事現場は見ていて面白いです。


飽きません。でも、平日の昼日中、カメラをぶら下げ、じっと工事現場を見つめ、ときおりシャッターを切るおっさんは、かなり怪しまれます。


以前に一度、橋の工事現場で、いつものように見つめていたら、何故か?工事責任者らしき人に、“ごくろうさまです”と声を掛けられたことがありました。

何が?“ごくろう”なの?と思いつつ、“アッ!どうも”と、軽く会釈をしてその場を立ち去ったことがあります。

工事関係者からの疑いの視線を左頬に感じた処で退散です。

工事現場の先は、以前と変わらない景色です。


今日こそ、牛久宿に到着を予定していたのですが、辿り着けませんでした。次回は来週になってしまいます。


それでは、また来週。


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牛久市の成井一里塚 “存在と築造” の謎

2009年06月04日 | 女化道標問題
昨日の続きです。

昨日のタイトルが「若柴宿から牛久宿へ」となっていたのですが、牛久宿へは辿り着けませんでした。

本日も、牛久宿を目指して出発します。

後ろから、私を抜き去って行った高校生の一団。男の子と、女の子が、自転車で通学しているのです。

う~ん! 青春の1ページです! “青い山脈”です!←知らないか? 彼らは、この道が、昔の水戸街道だと知っているのでしょうか? 


そんなことは、関係ないか、兎に角、“青春時代の真ん中”です。いろいろあるから、いろいろ経験して下さい。 

こんな感じの田舎道です。この道は何度も通っています。初めてではありません。


そろそろ、アレが見えてきます。


アレは、コレではありません。水戸道の面影はココいらには無いのです。


この先です。前を走る赤い車の右手辺りです。


右手、一段高くなった処がそうです。


コレ何です。説明板がせ無ければ、建設残土の上に雑草が生えているだけ、そんな風景にしか見えません。


“一里塚です!” “何処がァ?”



と、思われることを察して、敢えて写真を載せ、そして、それでも疑問を生じると思い、わざわざ丸く円を描き “ここがァ!”と、示しているのです。

それで、この説明板の内容なのですが、疑問を抱いてしまいました。


「女化の道標」もそうなのですが、またしても、“牛久市教育委員会”そして“牛久市文化財保護審議会”です。今度お会いしたら、この件も聞いてみようと思います。※残念ながらあれからまだ連絡はありません。

それで、疑問なのですが、文面の最初の二行で、一里塚とは?の説明があり、次の二行で、設置された年代の説明があるのです。

そして、またしても、次の二行で、水戸街道の整備と合わせて、設置年代に触れているのです。

先の二行では、永禄4年(1561年)には、既に存在していたと云い、次の二行では、水戸街道が整備された慶長末(1614年)から寛永初年(1624年)の頃に“築造”されたと云い、いったい!どう考えたらよいのでしょうか?

水戸街道と、云われる、呼ばれる、ずっと以前から、ここを通る街道があり、一里塚は存在していた。そのときは、木が植えられているだけで、土台が無かった?

その後、1603年に江戸に幕府が開かれ以降に、街道の整備がなされ、水戸街道の一里塚として、“土台”が築かれた。

依って、存在していた時代と、築造された時代との二つがある? それでは、とても変です。

それと、またしても、説明板をじっと見つめると、またしても、女化道標の説明板と同じく、訂正がされていたのです。


“慶長末年から寛永初年”の後にテープ?貼られ、一部文面が消されているのです。たぶんここには“西暦”が記されていたと推測します。

普通、元号の後には西暦が付きます。前文の永禄には西暦表記があり、慶長と寛永に西暦表記が無いのは不自然です。

たぶん、両方に西暦表記を着けてあった頃に、「存在と築造」の二重表記に疑問がだされ、取り敢えず、片方の西暦表記を消してしまった?

片方の西暦表記を消す事により、ボンヤリ眺めている人々には、「存在と築造の謎」が生じる確率を、かなり低下させる考えた?

たぶん、最初の表記での「存在と築造」の年代二重表記には、いろいろと複雑な理由があったと思います。そして、テープ貼りにいたる経緯についても、それなりの複雑な理由があったと思います。

もしかして、水戸街道が、我孫子から取手→藤代→若柴→牛久を通るコースと、我孫子から取手を通らず、布佐→?→?→荒川沖コースとか、この辺りは、複数の水戸街道が存在していたらしいので、そのあたりが一因なのかも?

兎に角、牛久市の説明板は、女化道標と云い、成井一里塚と云い、いろいろな推理を楽しませてくれる説明板です。

本日も、牛久宿には辿り着けませんでした。


それでは、また明日。
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水戸道を若柴宿から牛久宿へ

2009年06月03日 | 女化道標問題
昨日の続きです。

昨日は、水戸道との合流地点に辿り着いたところでした。

本日は、水戸道を若柴宿まで歩きます。

六号線から龍ヶ崎に向かう広い通りを横断し、若柴宿まで直進します。広い通りは県道何号線と云うのか判りません。


田舎道を真っ直ぐ進みます。


人家が、ちら、ほら、


右手に“星宮神社”が、現れます。しかし、諏訪神社とか、熊野神社とか、氷川神社とかは、よく眼にしますが、“星宮”は初めてです。


突き当たり、左にほぼ90度曲がった先が若柴宿です。


角のお蕎麦屋さん“田舎庵”です。2度ほど入っています、なかなか美味しいです。ここを左に折れると若柴宿。


曲がった先は、こんな風になっています、特に、何も、宿場の面影は残っておりません。ここで引き返します。


引き返し、振り向くと、蕎麦屋の向かいが、地図にも載ってる“金龍寺”となります。


信号のある、広い名前の判らない通りの交差点まで戻りました。


緑が水戸道、赤が女化への道。いま居るのは、緑と赤の合流地点です。


二股を左に、緑の水戸道を牛久宿に向かって歩きます。



この道標、新しいように見えますが、大正12年とあります。大正12年は1923年ですから、今から86年前となります。


86年間も、人通りの少ない(たぶん?)ここに、ひっそりと(たぶん?)佇んでいたのかと思うと・・・・・・、ねェ、ホント! ご苦労様です。

さぁてと、それでは、道標を振り返りつつ、牛久宿を目指します。


この先は、次回とします。

それでは、また明日。


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女化道標から水戸道まで歩きます

2009年06月02日 | 女化道標問題
本日は、女化道標問題“関連”です。

先日、女化道標の“表面”に刻まれている、“すぐハ水戸道”の案内に従って、右側の道を、水戸道まで歩いてみました。

さァ、この道を進むと、いったい、どの辺りに出るのか? 生まれてはじめて道です、期待を胸に抱き出発です。


普通の、農道風、田舎道風、脇道を進みます。


直ぐに、“カントリーライン”に出ます、信号も横断歩道もない場所を、通過する車両の間隙をぬって直進します。


何となく、脇街道らしい風景になってきました。


と、思っていたら、直ぐに住宅地に出てしまいました。


右側はずっと、


ずっと、林で、


左側は、ずっと、ずと、住宅街。


“ニュータウン長山”の裏手を歩いているようです。

地図を見ると、ニュータウンに沿って道が続いているようです、がァ、当然、これは、旧街道に沿ってニュータウンが造成されたのであります。


緑色に塗った道が、“旧水戸道”で、赤く塗った道が、水戸道への脇街道です。“さくら台”と地名表記がある地点が、出発地の女化分岐道標の立つ場所です。

ニュータウンを抜けると、左手に水道のタンクが見えてきました。ここに来てやっと、あァ!、あそこに出て訳ねェ!と、位置関係が頭の中で繋がりました。


緩やかな坂道を下ります。


信号のある交差点の手前、ここが、水戸道との合流地点です。


有りました! 道標が! 


水戸道に出ました。行程は約2㎞とチョットでした。ウロキョロ歩いて来たので、1時間ほどかかりました、昔の旅人でしたら30分もあれば充分な距離です。

確かに、道標に刻まれている“すぐハ水戸道”の表現には、間違い有りませんでした。

本日は、ここまでとします、次回は、水戸道を若柴宿迄行って、そこで引き返して、水戸道を通って、現在の6号線まで出てみたいと思います。

それでは、また明日。



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牛久市「田宮」の読みは「タミヤなの?タグウなの?」問題が解決した! と思ったら?

2009年05月25日 | 女化道標問題

暫くぶりの“女化道標問題”です。

前回取り上げたのは4月2日でした。

【4月2日の引用】

「ここで取り上げた問題点は、4月の文化財審議会で調査検討され、かなり、スッキリすると思います。

その文化財審議会ですが、公開が原則となっています。記録を見ると、過去の10回ほど開かれているのですが、一度も傍聴人は居ませんでした。

ここは、敢えて、時間のタップリある私が、始めての傍聴人に挑戦する決意を固め、その旨を教育委員会にメールで昨日送信しました」


それで、教育委員会から送られてきた返事のメールは、

------------------------------

○○○○様

4月22日に予定しております文化財保護審議会委員による文化財保護検討委員会は、

非公開で行われている委員の活動です。

現在委員の方に○○様の傍聴について検討していただいておりますので、結果が分

かり次第ご連絡いたします。

牛久市教育委員会生涯学習課 ○○

--------------------------------

公開が原則である“文化財保護審議会”が開かれるのではなく、文化財保護審議会“委員”による、“非公開”の「文化財保護“検討”委員会」だったのです。

「文化財保護審議会」ではなく、「文化財保護検討委員会」何てものがあったのです、「牛久市文化財保護審議会条例」にも、「牛久市文化財保護審議会条例施行規則」にも有りませんでした。

でも、しかし、「委員の方に傍聴について検討していただいておりますので、結果が分かり次第ご連絡いたします」とあり、それなりに期待を抱き待ちました。

しかし、いつ来るか、いつ来るかと、首を長くして待っていたのですが、結局、4月22日、検討委員会開催の当日を過ぎても、連絡は有りませんでした。

傍聴を諦め、次は検討委員会の見解を待ちました。こちらも、1週間経っても、2週間経っても、3週間経っても有りません。

そして、1ヶ月を過ぎた5月22日、これは、もう、こちらから結果について問い合わせのメールを入れるしかない! と思って、“Outlook Express”を開いたら、届いていたのです。

--------------------------------

○○○○ 様

大変遅れて申し訳ございません。
文化財保護審議会による「文化財検討委員会」にかけましたところ、
別添ファイルのとおりの回答が審議会より回答がありましたのでご報告いたします。

なお、「文化財検討委員会」は、非公開となっておりますので、別添ファイルの無断使用(転用)はしないでください。

追伸:文化財保護審議会の方々が一度○○様との交流及び直接の意見公開(交換?筆者)をしたいとの意見がありましたので、良ければ連絡先をお教え願いたいと思います。

生涯学習課 ○○

--------------------------------

とのことでした。それで、“別添ファイル”ですが、「無断使用・転用」が止められていますので、残念ながら、ここに貼り付けることは出来ません。

それで、その内容ですが、「田宮」の地名の由来は、現在の「田宮山薬師寺」から来ていることが判明しました。


私も、地名の由来を、いろいろと、この間、図書館に通いなどして、調べていたのですが、判らなかったのです。考えてみれば、寺や神社の名称が地名になる、よくある話だったのです。

それで、薬師寺の「田宮山」の「田宮」は、「田美谷」又は、「田美夜」から、田宮になったようです。

これは、薬師寺に伝わる古文書に寄るもので、“現住職も力説”しているそうです。

これで、田宮の“読み”は「たみや」であり、現在、呼ばれている「たぐう・たくう」は、「茨城訛」が、正解だと思います。

これで、スッキリ!しました。

と、ここまで書いてきて、以前に撮った「田宮山薬師寺」の写真を確認したところ、


田宮山薬師寺の振り仮名をよく見ると、


“たくう”となっているのです。本家本元がコレですか? 「たみや」を力説する現住職は、この看板の「たくう」表記は知らないのでしょうか?

どうも、女化関連の問題は、最後の詰めで怪しくなるのです。やはり女狐の仕業でしょうか?

それにしても、近いうちに、文化財審議委員の方に、直接見解を聞くことができそうで、楽しみにしています。

その時の様子は、また、そのうちにアップしたいと思います。


それでは、また明日。




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女化道標 ”いろいろな問題”は牛久市文化財審議会で!

2009年04月02日 | 女化道標問題
昨日の続きです。

もう一度、説明板をじっくり、眺めます。


昨日は、この説明板の全体を見回し、文面、文字配列、平仮名表記等々で、いろいろ誤解を生じる表記になっている、と書きました。

先ず、一番は道標に刻まれた文字と、説明板の文字が異なることです。前回取り上げた“たぐ”を「たみや」と表記していること。

“南無阿弥陀佛”の「佛」を「仏」と表記していること、“ハ”をすべて「は」としていること、“志しこ”を「ししこ」とし、加えて、括弧で「乾猪子」と一括りで表記していること。

兎に角です。道標の文面は刻まれた文字をそのまま表記し、説明は、説明と標示して、別途記載すべきです。それと、文面は道標に刻まれた配列に従い、表記するべきです。

その方が、小学生にも分かり易く、誤解を生じず、とても、とても、良いと思います。

そして、そして、一番の問題は、「裏面」と「表面」の表記です。この道標は若柴に通ずる道と、龍ヶ崎に通ずる道との“分岐点”の案内です。

旅人が二股の分岐点で、どっちに行ったらいいのか?迷わない為の案内です。その事を考えれば、下の図で「A視」とある方向から見た面が「表面」と考えるのが自然だと思います。

でも、しかし、「A視」の面は、
     

写真では、読みとり難いので、
     
ねぇ~、どう考えても、分岐の道標ですから、こちら側を「表面」とした方が自然だと思うのです。でも、しかし、説明板ではこちら側を「裏面」としているのです。変でしょ!

それと、“この「石仏」は・・・・・・「道標」をかねて建立・・・・・・」と、説明板にはあるのですが、石仏は、ふつう、仏の像を彫ったもの云うのですが、仏教の経典の文字が彫られているだけで、石仏と云うのでしょうか? 

「道祖神」と彫ってあるだけの「石」を、「道祖神」と云うので、「南無阿弥陀佛」と彫ってあれば、「石仏」と云う! そんな解釈でしょうかねェ~?

それで、説明板の話は終わりにして、この「道標」そのもの何ですが、旅人が二股の分岐に差し掛かり、さぁ?ここは、どちらに行けば水戸道なの?と迷います。

何たって、“すぐは水戸道”と大きく彫ってあるのですが、どっちに行けば“すぐ水戸道”なのか標示してないのです。

“すぐに水戸道に出ます”と云われても、“西はたぐ於”と“犬いは志しこ”としか標示されていないのですから。

もしかして、裏側に何か?と思い、裏に回って始めて、“左わかしば”、“右りゅうがさき”を発見する訳です。“わかしば”は、水戸街道の中間地点にあたる宿場町なのです。

それを知らない旅人には、水戸道はいったいどっちなの?と、途方に暮れ、日が暮れ、妖しい女狐に化かされたり・・・・・・、何たって、ここは、女化ですからねェ。

それで、わたくし、道標を造ってしまいました。こういう文面であれば、とても、スッキリして、二百数十年経った今日、教育委員会や文化財審議会の手間を煩わす事もなかったのです。
     
それにしても、女化だけに不思議な道標です。不思議序でに、道標に刻まれた“宝暦14年”ですが、正式には無い!のです。

そう! 無いのです。宝暦の年号は6月に“明和”となり、宝暦14年は歴史上は明和元年と記録されているのです。

宝暦14年と刻まれているのは、それなりに珍しいのです。“女化”らしいのです。

ホント、いろいろある、女化道標です。

兎に角、ここで取り上げた問題点は、4月の文化財審議会で調査検討され、かなり、スッキリすると思います。

その文化財審議会ですが、公開が原則となっています。記録を見ると、過去の10回ほど開かれているのですが、一度も傍聴人は居ませんでした。

ここは、敢えて、時間のタップリある私が、始めての傍聴人に挑戦する決意を固め、その旨を教育委員会にメールで昨日送信しました。

兎に角、暫くもこの女化道標問題は続きそうです。

でも、ブログで取り上げるのは、結果が出るまで暫くお休みです。


それでは、また明日。






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女化道標“田宮問題”で新発見!

2009年04月01日 | 女化道標問題
昨日の続きです。

今日は「田宮問題」です。この問題は、「田宮」と書いて“たみや”と読むのか?“たぐう”と読むのか? “たくう”と読むのか? と云った問題です。

そして、その問題で、今回の牛久訪問調査に於いて、新たな事実を、それも、幾つも! 発見したのであります。(力が入っているのです)

それで、今回、説明板を改めて、


じっくり観察していたら、発見したのです!
     

「西はたみや」と書かれた下に、うっすらと「西はたぐお」の文字が読みとれるのです。しかし、“たぐお”の“お”は、いったい何なの?

他にも、「すぐは水戸道」の下には、「すぐ水戸道」とあり、「は」が抜けていた為に“書き加えて”いたのです。

もう一つ、「犬いはししこ」の下に、「犬いししこ」とあり、こちらも、「は」を書き加えていたのです。これまでも、この道標について、いろいろと問題があり、訂正を繰り返しているようです。

それで田宮の件ですが、道標をしっかり見つめ、じっくり観察すると、
          

うっすらと“西ハ”とも、“酉ハ”とも、読める文字が確認でき、その下はまったく解りません。現物よりも、いろいろと調整した写真の方がそれなりに文字が浮かびあがってきます。

それで、以前に教育委員会から送られて来た「牛久市史料」石造物編を見直すと、
         

「西ハたぐ於」とあります。これで、訂正前の“たぐお”の“お”の意味が解りました。「於」の読みを平仮名で表記したようです。

「於」を「お」と平仮名で表記したら、分けが判らなくなります。そこら辺で疑問が出され、訂正したものと思います。

「西ハたぐ於」は、“西の方角に「たぐ」と云う地名の場所がある”と云う意味でしょう。「たぐ」の表記は、読みとして「たぐー」とか、「たぐう」と同一と考えます。

分かり易くしたつもりが、誤解を生じる原因となり、訂正したのでしょうが、訂正するならば、「たぐ於」と表記して、括弧で説明を加えるべきでした。

ところが、何故か「たぐお」を訂正して、「たみや(田宮)」としてしまったのです。これは、何らかの、それなりの“解釈”の結果? それとも単に一般的な読みとしての「たみや」に書き換えた?

事実として、歴史的にも、今においても、地元では「田宮」を、「たみや」とはよみません。「たぐう」とか「たくう」とよんでいると、近所の住民数人から聞いていました。

この日の帰りに発見しました、これを見て下さい。


水戸街道は、「田宮」の信号機です。“Tagu”と表記してあります。“県公安委員会”は歴史的よみ、習慣的よみを尊重しているのです。

そして、跨線橋の本体には、何と!


“たくう”と表記してあります。“県道路建設課”は、公安委員会とは別なよみを選択しています。

このように、「田宮」のよみは、歴史的にも、今に於いても、かなり混乱していたのです。そこに、“牛久市教育委員会”が割って入り、「田宮」は「たみや」と主張し始めたのです。

私の解釈では、「田宮」の読みは、正しくは、ふつうに「たみや」だと思います。しかし、「たぐう」とか「たくう」と、一般的に“呼んだ”のであり、“読んだ”のではないと思います。

「たくう・たぐう」は、あくまでも「読み」ではなく、“訛”であると考えます。

「たみや」を一字少なくして、「たくー」とか「たぐー」と呼んだのです。これは、茨城訛の「短縮と濁音の法則」だと思います。

それで、結論ですが、教育委員会が敢えて、この際「田宮」の読みを「たみや」とするのは、それなりに理解できます。

でも、しかし、そのことは、別の機会にやるべき事柄であり、牛久市指定文化財である“女化道標”で、その説明板に「たみや」と表記するのは変です。

「牛久市史料」石造物編の文面が正しいとすれば、道標には“たぐ”と彫られているのです。“たみや”とは彫られていないのです。

道標の「たぐ」は、それは、それで、歴史的に重要な記録です。説明板の「たみや」表記では、明らかに歴史の改竄となってしまいます。

と、大げさに、書きましたが、この説明板の全体を見回し、文面、文字配列、平仮名表記等々を考えると、それなりの解釈で、それなりに表記したようには見えないのです。

兎に角、まぁ、それなりに、小学生にでも理解できるように、“判り易さ”に重点が置かれ、その事で、いろいろと誤解を生じる表記になってしまった気がします。

それで、“いろいろ誤解”を生じる話は、次回とします。


それでは、また明日。




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