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⑦『どうする家康』信康は壊れ!瀬名は覚醒!慈愛の心で結び付いた国!

2023年07月29日 | テレビの話し

本日も、飽きずに懲りずに「どうする家康」をネタに綴ります。

それで、家康の正室瀬名が武田と通じ、謀り事を企ているとの情報を、息子信康の正室五徳が、父の信長に知らせるのでした。

徳川の動きを監視するように言われていた五徳、手紙を書くシーンで五徳は涙を流すのです。父への忠誠と、夫信康への裏切り、心は揺れ動くのです。

手紙には、そのへんの事情が、信長にも読み取れる表現があったのか? それとも信長の政治的な判断で、直接的な制裁は行わず、この件には関わりのない、家康の伯父水野信元を、武田に通じていたとして、家康に成敗を命じるです。

水野忠元も、家康も、信長の家臣、それを、岡崎城にて、家康に成敗を命じたのでした。この辺りの展開が、ちっと解りずらい描き方です。

涙を流しつつ手紙を綴る瀬名。手紙を読んだ信長、手紙を読んだ後、焼き捨てる一瞬のカットに「せな」の文字がを映し出されます。

何故、信長は家康に、「せな」成敗するように命じなかったのか? 五徳が今回だけは見逃してほしいと懇願し? それを信長が受け入れた?

この見せしめ策は、娘五徳への愛から、それとも、「瀬名成敗」を命じたならば、家康を武田側に追いやる危険性を考えた? 多分、家康に一時の猶予を与えた政治的判断だったのでしょう。

この見せしめ、ちっと解りずらい為に、わざわざ、岡崎城に呼びつけた伯父水野信元の口から『信長の考えそうな事だ、徳川の内部に居る、武田と通じている者への見せしめ』と云わせた、説明的シーンを加えたのでしょう。

史実は、もっと単純で、解りやすいと思います。それでは、身もふたもないので、古沢良太氏としては、それなりの新たな視点で、それなりの人間ドラマとして描いたのでしょう。

それで、なんですが、戦国時代、同盟関係から敵対関係への変化は日常茶飯事、しかし、織田と徳川の同盟は堅い同盟でした。

それなのに、それなのに、設楽原後、信長は、家康がもっとも危険な存在と認識して、娘五徳に監視を命じたのです。それに従って瀬名の行動を報せた五徳。このような展開となっています。

しかし、徳川を監視するように命じるこのシーン、驚き、慄く五徳。でも、しかし、そも、そも、家康の息子に、信長が娘を嫁がせたこと自体が、政略結婚であり、監視の役割をも持っていた筈、わざわざ大げさに命じる事も無いのです。

設楽原の戦い後、織田との力の差を見せつけられて、家臣となった家康。対等から、上下関係になった後も、何故に、信長は家康を危険視したのか、まったく描かれていません。

今の我々は、史実として、家康の天下統一を知っていますが、この時点での信長が家康を危険視した動機や経緯は、画面からは読みとる事はできません。

これは、史実と異なる、瀬名と家康、息子信康との感動的な、ドラマチックな人間ドラマへの、序曲への、伏線なのです。

その後、武田と徳川の戦は続き、息子信康は壊れていきます。武田との戦で父家康と対立したり、戦いの先頭に立ち敵を殺しまくり、タカ狩りの帰り僧侶を切り殺したり、家来を怒りに任せて切りつけたり。

これらは事実のようで、信康の粗暴な性格を表す出来事と、これまで、その筋では解釈されていました。このドラマでは、戦に疲れ精神を病んだ結果の行動と描かれます。

僧侶を切り殺した夜、母瀬名に信康が、

『僧侶にどうあやまればよいのか・・・。皆が強くなれと云うから私は強くなりました、しかし、私は、私でなくなりました。いつまで、戦えばよいのですか・・・いつまで殺しあえばよいのですか』

と、泣きながら訴えます。

ここで、母瀬名は覚醒し、夢を語るのです。ここからが、古沢良太氏の新たな視点で、腕の見せ所。

これまで、ドラマでは瀬名の住まいは、岡崎城に近い「築山」、家康は浜松城、信康の岡崎城と、三人の別居生活。これは、事実で史実。変えると歴史改ざんとなります。ドラマでは、家康と瀬名の別居生活についての理由は明確にされていません。家康、瀬名、信康、この三人の関係は良好と描かれます。

それで、磯田道史氏の説明。

『築山殿と云う呼び名が、家康との不仲を象徴しています、家康の正室は前にも述べたように、今川家の重臣の娘でした。そのため駿河御前と呼ばれていたのですが、長篠の合戦の前後には、家康は彼女を岡崎城からも追い出して、築山のある屋敷に押し込めてしまいました。そこで、築山殿と呼ばれるようになったのです』・・・「徳川家康 弱者の戦略」から引用。

ドラマでは、駿河御前の名は一切出てきません。瀬名と家康の関係が終わっていたら、この先のドラマチックな展開にはなりません。

新たなる解釈により、悪女瀬名〈通説〉は、政治にも、経済にも通じ、政略家であり、はたまた、宗教者のような、大変な人物として描かれています。家康さえも、瀬名の構想を聞き、口をあんぐりと開け、驚き、戸惑い、混乱し、納得し、妻の偉大さにビックリ仰天なのでした。

瀬名の、「夢・政治構想」は、

『瀬名の夢、戦をするのは貧しい、奪いあうより、与えあう世の中、奪うよりもらう、コメが足らぬなら、コメがたくさんある国からもらう、塩が取れる国ならば塩を、海があれば魚を、金山があれば金を、相手が飢えたるときは助け、己が飢えたるときは助けてるらう、奪い合うのではなく、与えあうのです与え合うのです。さすれば戦はおきません』

とか、

『同じ銭を使い、商売を自在にし人と物の往来を盛んにする、さすれば、この東国に巨大な国が出来上がるも同じ。そのような巨大な国に信長様は戦を仕掛けてくるでしょうか、強き獣は、弱き獣を襲います。強き獣と、強き獣はにらみ合うのみ。にらみ合っている間にも、我らのもとに集うものはどんどん増えるに違いありません。この国は武力で制したのではなく、慈愛の心で結び付いた国なのですから』

古沢良太氏が、このように瀬名を描いたのは、一説には、今川義元の姪とも言われ、そのことから、義元の思想的影響を受けていたとの設定を導き出したのかも?

家康も人質時代に、義元から「世を治めるのは、覇道ではなく王道である」と、強く、強く、叩き込まれていました。

覇道は、力をもってする一時的支配。王道とは、徳治主義による正統な政治。これは、儒教の政治理念・・・孟子が唱えた有名な言葉だそうです。

瀬名は、儒教的な、文化的権威を重んじる義元の影響を強く受けていたと解釈。また、瀬名と家康の関係として、正室瀬名を亡くした後、死ぬまで正室を迎えなかった事実から、瀬名との関係のそれなりの根拠として創作?

まあ、私としては、正室は瀬名で"こりごり"として、側室や側女が居れば、それで十分満足と考えたのだと?・・・そうですよね家康さん。 

兎に角、この新たな解釈の方が、ドラマチックで感動的です。新たな解釈がなければ、新たな"家康ドラマ"を作る意味はないですからね。

本日も、長くなりました。

年寄りの、ボケ防止に、最後までお付き合いくださり、お礼申し上げます。

これでお終い。

いよいよ”本能寺の変”です。 

古沢良太氏があらたな視点で、どう組み立てるのか、どう見せてくれるのか、とても、とても、楽しみです。

それでは、また次回。

 

 

 

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