大学3年の(昭和40年、1965年)夏、立山から奥穂高までの長い縦走(10日以上か)最後のテント泊は涸沢だった。
その中で今でも鮮明に残っている記憶は重いキスリング・ザック、それを背負った危険な槍から奥穂の鎖、梯子連続の難路でもない。
薬師岳のカールをスキーを背負い、滑降訓練のためか(富士山直滑降を成功させた前年)上半身裸で登る三浦雄一郎の姿、
そして涸沢を埋めるテント、(当時、涸沢団地と揶揄されていた)上高地から下るバスが梓川に転落する事故、
激流に流される長い髪の女性の遺体を何度もバスの中から乗客は悲鳴をあげ、目にした。翻弄される黒髪が現実味を失った記憶として残る。
釜トンネルは狭く、交互通行、掘った岩むき出し、今ほど道は整備されていなかった。初めての上高地の記憶は全くない、といっていい。
社会人になって2度目に登った奥穂、4月下旬連休前、涸沢小屋は除雪作業中、従業員と一緒に食べたご飯と鮭カンだけ?の夕食、
それが妙にうまかった記憶。
結婚、団地住まい、2人の子供、小型車を買った。
そんな時、出会った田渕義雄氏著、1980年発行『車で楽しむファミリーキャンプ』
感化され、アウトドアギアを買い集め、休日はあちこちでキャンプ。この書の出会いは私の(家族を含め)その後の人生を大きく変えてしまった。
当時、上高地の6月のマイカー規制はなかった。1980年以降だろう、6月4日の前後の小梨平、テントサイトでは自由に焚き火もできた。
快晴のキャンプ、テント2泊は夢のような時間であった。
2人とも就学前の子供であったが明神池、徳澤あたりまで歩き、上高地の初夏を美しさを家族全員心ゆくまで楽しんだ思い出が残る。
さて、今回の奥穂、沢渡5時10分一番発のバスで上高地に向かう。早朝の上高地の美しさ、正に夢の世界。
目的の奥穂高には登らなかった、が、全く悔いはない。生ビールを楽しみたい、ため横尾からは水飲まず、
涸沢小屋のデッキで穂高の峰々のトルソを肴にMAMMUTロゴ入りのジョッキ2杯。
雨か、コロナか宿泊客は3人、テントは五張り、涸沢団地は寂し過ぎた。
前穂の頂きは一瞬見えたが、奥穂、北穂などの頂きはずっと暗い雲の中、姿見せず。
追って下手な写真だがYouTubeに動画にしてアップしようと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます