学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

貨幣史

2008-10-20 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月20日(月)22時39分40秒    

桜井氏の「非農業民と中世経済の理解」は非常に興味深いので、下に載せた部分の続きも引用してみます。

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 また、それと関連する問題だが、網野氏は南北朝時代の画期性をいうとき、私の信用経済に関する研究をじつによく引用してくれた。おそらく網野氏ほど私の研究を引用してくれた研究者はいないだろう。ところが、それだけ引用してくれながらも、中世の信用経済は十五世紀末をもっていったん沈静化し、近世にはつながらないという主張だけは、一度も引用してくれたことがなかった。そのとき、網野氏はひじょうにセレクティブな引用の仕方をする方だという印象をもったのだが、これは網野氏のいう「文明史的転換」の根幹にかかわる問題だけに、ぜひとも引用し、論評を加えてほしかったと思っている。
 同じような問題でいうと、網野氏は日ごろから学術雑誌にもよく目を通していて、若い研究者の論文もよく引用していた。大先生のなかには最新の研究をほとんどフォローしなくなってしまう方も多いが、その点、網野氏は文字どおり生涯現役で、亡くなる直前まで質の高い研究を世に送りつづけた稀有の歴史家であった。
 ところが、一九九〇年代以降もっとも著しい進展をみせた分野のひとつである貨幣史の成果だけは、ほとんど引用しようとしなかった。網野氏の引用は、固有名詞を出して申し訳ないが、一九八九年九月に発表された松延康隆氏の論文「銭と貨幣の観念─鎌倉期における貨幣機能の変化について」(『列島の文化史』六号)でほぼとまっている。
 十三世紀後半における年貢の代銭納制の普及が宋・元交代という中国国内情勢に端を発しているとする大田由紀夫氏の説はもはや通説といってよいと思うが、これは鎌倉末~南北朝の社会変動と直接かかわってくる問題だけに、本来なら言及せずに済ますというわけにはいかなかったのではないか。
 また十六世紀~十七世紀初頭の貨幣動向に関しては、当時すでに裏長瀬隆氏や黒田明伸氏らの研究があり、網野氏も明らかにその存在を知っていたはずだが、ここでも網野氏はその成果を正面からうけとめることをしなかった。もしその成果をふまえていたなら、江戸幕府が石高制を採用した理由も、「農本主義」云々の問題とはまた違ったかたちで説明できたはずである。(後略)
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貨幣史は面白そうですね。
ここに出てくる方の中では大田由紀夫氏と黒田明伸氏の論文をちょこっと読んだだけの全く不勉強な私ですが、少しずつ関係論文を読んで理解を深めたいと思っています。
ところで、桜井氏は十三世紀後半以降の貨幣の急速な普及・拡大が直ちに「呪術性からの解放」にはつながらず、「一世紀ないし一世紀半というけっして無視できない時間的ズレ」を経て、応仁・文明の乱を契機に精神史の変動が起こると考えておられるのだと思いますが、その場合、時間的ズレの原因をどのように説明されるのかが少し気になります。
私としては、日本列島の居住者たちがそれまで経験したことのなかった貨幣のスピード感が社会を根底から揺さぶって、精神史の変動に直接結びついて行ったのではないかという見通しを持っているのですが。
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「呪術性からの解放のエポック」

2008-10-20 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月20日(月)00時08分47秒

ついつい脱線してしまいましたが、桜井英治氏の『室町人の精神』に話を戻しますと、桜井氏の

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 けれども、応仁・文明の乱がはじまるころにはもののけもほとんど目撃されることがなくなった。もののけたちにとっても住みにくい時代がやってきたのである。応仁・文明の乱とは、日本人の精神史にとってそのような呪術性からの解放のエポックでもあったことを、まずここで銘記しておきたい。この転換期を経て、日本の歴史ははじめて近代化への道をしずかに歩みはじめるのである。
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という見解は、もちろん「もののけ」の記録をいくつか見かけたことから導いた結論ではなくて、時期区分論の反映ですね。
桜井氏は「非農業民と中世経済の理解」(『年報中世史研究』32号)において、網野善彦氏が鎌倉末~南北朝時代の画期性を強調し、「民族史的転換」「文明史的転換」「人類史的転換」があったと言われたことについて、次のように書かれています。(p45)

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 網野氏の時期区分論の最終的な有効性については今後の研究のなかでじっくり検証していけばよいと思うが、ただ網野氏の論証プロセスにはいくつか手続き上の不備・不満があって、そのことについては、結論の有効性をただちに損なうものではないにしても、一応認識しておく必要があろう。
 私が研究している流通経済史に即して、そうした疑問を二、三紹介しておくと、これは疑問というよりも、むしろ謎といってほうがぴったりくるのだが、なぜ網野氏がそのときそういう態度をとったのか、いまだに理解できないことがいくつかある。
 たとえば、網野氏のいう「文明史的転換」が、応仁・文明の乱に歴史の大きな分水嶺を認めた内藤湖南の二分論とひじょうに近いことは周知の事実だが、ただ、双方のあいだには一世紀ないし一世紀半というけっして無視できない時間的ズレがある。けれども網野氏はこの時間差についてはほとんど頓着しておらず、もうちょっと画期を引き上げてもよいのではないかという一言で、内藤説を自説のなかに呑み込んでしまう。別ないい方をすれば、十五世紀の扱いがひじょうにぞんざいなのである。私のようにどちらかといえば応仁・文明の乱のほうに画期性を感じている者、あるいは十五世紀をある種突出した時代と考えている者には、それが何とも物足りない。網野氏には、十五世紀をもっと丁寧に扱ってほしかったというのが正直な気持ちである。
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『太平記』や狂言、物語草紙の滑稽話などから考えると、私としては「呪術性からの解放のエポック」は南北朝期ではないかと思うのですが、性急に結論を出さず、じっくり考えて行きたいと思います。
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