学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

善宝寺への大漁祈願

2013-02-16 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月16日(土)17時03分39秒

写真は閖上漁港に係留されていた漁船ですが、赤い旗に「大漁 龍王尊守護 善宝寺」と書かれています。
善宝寺は日本海側、山形県鶴岡市に存在する曹洞宗のお寺で、同寺の公式サイトによれば「海の守護・龍神様のお寺として北海道、東北、北陸をはじめ全国に多くの信者を有し、特に漁業関係者より絶大な信頼を頂いている大祈祷道場」だそうです。

龍澤山善寳寺
http://www.zenpoji.jp/index.html
http://www.zenpoji.jp/rekishi.html

私も新潟県の漁港で善宝寺の赤い旗を見たような記憶があったのですが、太平洋側でも有名なのかな、と思って念のため漁船の後ろに廻ってみたところ、間違いなく閖上の漁船でした。
閖上の船が善宝寺の赤い旗を掲げるというのは、どのくらい時代を遡れる信仰なんですかね。
宮城県名取市の閖上と山形県鶴岡市の善宝寺は東北地方が一番スリムな部分のほぼ同緯度に存在し、直線距離はそれほどでもなく、今なら山形自動車道があるので実際に車で移動しても意外に時間はかかりません。
しかし、船で移動となると津軽海峡経由で行かなければならないので、無茶苦茶な距離ですね。
善宝寺への大漁祈願は江戸や明治のころからの風習なのか、それとも比較的近時に成立したのか。
ご存じの方は教えて下さい。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/index/detail/comm_id/6729

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富主姫は竹生島弁財天

2013-02-16 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月16日(土)13時49分12秒

『閖上風土記』p259以下には次の記述があります。

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・弁財天
 昔は閖上新丁地地蔵尊の西、今の宮下橋の南、富主島と呼ばれる所に鎮座されていたが、貞山堀開削のため湊神社境内に遷された。富主姫弁財天と申しているが、現今は富主姫神社と称している。
 昔閖上上町伊藤秀吉氏の先祖が船出して房州沖で難に遭い、竹生島弁財天に祈願して無事帰郷することができたので、琵琶湖にある竹生島弁財天を勧請して氏神にしたのによるという。
 その後にいたり、この弁財天の祭日に船出した漁船が海難に遭ったことから、浜中こぞって祭ることになり伊藤家から富主島に遷座された。祭日は伊藤家での供物等供え済まないうちは、神官ものりとを奏せられなかったと伝えられている。
 なお伊藤家で鍵を所持していたのであるが、明治四十一年湊神社へ移された際、橋浦甚五郎氏ら伊藤家に交渉し、伊藤秀吉氏は快く鍵を湊神社社掌に譲られたという。祭日は旧四月三日。盛大な祭典が施行されている。(郷土誌)

 その後弁財天は、大正九年築山(日和山)落成とともに湊神社境内より、同山頂に鎮座され現在にいたっている。
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最初に閖上を訪問した時は、富主姫というのはずいぶん珍しい神名だなと思いましたが、富主島に鎮座する竹生島弁財天という意味なんですね。
これは現在、日和山に登って富主姫神社の前で柏手を打ち、お賽銭をあげている人の大半が知らないことでしょうね。

この話、ちょっと不思議なのは「房州沖で難に遭」った「伊藤秀吉氏の先祖」は、何故、牡鹿半島先端の金華山に鎮座する弁財天ではなく、遠く琵琶湖に鎮座する竹生島の弁財天に祈願したのか、ですね。
また、「富主島」から「貞山堀開削のため湊神社境内に遷された」時期はいつなのか。
貞山堀は「初代藩主・政宗の1597年から始まり4代藩主・綱村の1661年までの64年間にわたって作り上げたもの」と言われているので、閖上での貞山堀開削もこの時期であれば、江戸初期にはまだ金華山大金寺の威信は高くなかったことを反映しているのかもしれないですね。

「貞山堀と野蒜築港跡」
http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/bijutu/bi29.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6728


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『閖上風土記』

2013-02-16 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 2月16日(土)13時28分17秒

『閖上風土記』(名取市閖上郷土史研究会岡崎一郎編纂、名取市閖上字町小野晋平発行、昭和52年)という本に次のような記述があります。(p230以下)

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・日和山(法華山)
 閖上より東一町ほどの所にあり、船の出入・気象・海上の状態等を見た所である。今の救難所の南にあたり、橋浦弁蔵氏邸の東北にあった。別名法華山ともいう。山上に碑があったが、後春日氏の堂の境内に移された(郷土誌)。

 堂は法華道場でのち水害により碑もろとも流された。日和山は単なる小高い丘であったらしいが、閖上八景のうちに「日和山帰帆」「法華山秋月」があった。当時の日和山の面影はいまはない。

・築山
 大正九年在郷軍人会分会の発起で、当時の村民全体で築いた山である。当時第二師団長であった中島中将も、村民とともに土砂を背負われ、新丁が中島町と呼ばれる由来となった。築山落成と共に、かつて宮下橋の下にありその後湊神社に移転されてあった「富士姫弁財天」が安置された。山上にある「山神」の碑は、もとの日和山山頂にあったものが移転されたのである。

  ヤンダ箱
 築山工事は、橋浦茂三郎氏が総監督で、現場監督は曽我正治氏が当った。各区に人夫を割当て、茅地のうわ土を掘りとり、もっこと、紐を引くと底が開くようになっているヤンダ箱といわれる箱を背負った。やんだやんだ(嫌だ嫌だ)と運んだのでヤンダ箱になったというが、真偽のほどはわからない。昼食にパンが配られたので、茂三郎氏のことがいつからかモサパンとなり、落成祝いの仮装行列にみかん箱の下駄をはいて、のんきな父さんを演じた小斎不可蔵氏はノンキと呼ばれるようになった。勤労奉仕のほか日当六十銭の人夫も使ったので、若い婦女子のいい収入にもなったという。
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現在の日和山と、その前身であった日和山(法華山)の位置関係が今一つ分からないのですが、御存じの方はご教示願います。

写真は今年1月10日に撮影したものです。
風の強い日でした。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6727
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