投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月26日(火)10時49分22秒
ツイッターで大阪府立大学教授の住友陽文氏が「石母田正氏との対話─自説を撤回することについて」に関し、次のように言われていますね。(8月22日)
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この石母田正の話は「自説撤回」云々が論点というより、「実証主義への復帰」(1946年)などで論じられた、歴史研究に見られる、史料と手垢にまみれた世俗の常識にだけ基づく実証主義の問題点が論点ではないか。
https://twitter.com/akisumitomo
別にこの見方が間違いとは言いませんが、1973年7月の発言なので、ヨーロッパ留学(1965~66)を踏まえた認識の部分が一番重要ではないかと思います。
以前の投稿では余計なことを書いてしまったので、石母田氏の発言だけを再掲すると、
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実証をおろそかにしてはいけません。必要欠くべからざる作業です。しかし、それで終ってしまってはね・・・。
まったく、日本の学者に未熟さを、海外で思い知らされます。イギリスでもフランスでもドイツでも。実証とかのレベルでは決して劣りませんが、問題関心・見識で到底かないません。日本的というか、小さく小さく完成された小世界ばかり作っているのです。
ドイツの、ある有名な学者は、最初のうちは学生に史料など、さわらせないそうです。ギリシャやローマの古典を徹底的にやらせて、十分基礎固めをしてから、初めて史料を見せるのです。日本は、初めから史料を見せてしまうものだから、小実証本位の、スケールの小さい研究者ができてしまうんです」
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という部分ですね。
古代史のことはよく知りませんが、中世史においては「日本的というか、小さく小さく完成された小世界ばかり作っている」傾向は強まるばかりのような感じがします。
もちろん40年以上の経過の中で相当の新史料が発見され、分析は精緻になって、小さな小さなアリエッティ的世界がそれなりに素晴らしく、居心地も良さそうなのは理解できるのですが。
>筆綾丸さん
金子拓氏の『織田信長〈天下人〉の実像』、早速読んでみます。
金子氏は先月9日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」に出演されていましたが、派手好きの女性アナウンサーを中心とする番組構成はいささか下品で、最後に少しだけ登場された金子氏が気の毒でした。
金子氏のムーミン的風貌とのんびりした話し方は好きなので、下らないコントは省略して金子氏の解説だけ放映してほしかったですね。
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/207.html
※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。
小太郎さん
ロベスピエールはなんとなく優男のようなイメージがありましたが、強面のデスマスクからは、こいつ、何人くらい殺めたのだろう、という感じがしてきますね。
ちなみに、マラーの暗殺現場は、パリ6区、メトロのオデオン駅を出てすぐ、パリ第5大学の構内のどこかで、むかし探検したとき、何の案内版もなくて、歴史にうるさいパリにしては珍しいな、と思ったものです。この大学は通称ルネ・デカルト大学という医学校ですが、マラーの死と何か関係があるのか、医師マラーを踏まえたものなのか、これもわかりませんでした。
金子拓氏の『織田信長〈天下人〉の実像』は、ひさしぶりに良書に出会えた、という感じです。キーパーソンは三条西実枝で、この人物の分析はとても面白いですね。ただ、「終章 信長の「天下」」は残念ながら尻切れトンボのような気がします。
興福寺別当職相論に関して、信長が正親町天皇を叱責し、誠仁親王が天皇に代わって詫びる、という書状の中に「瓜」が出てきますが、本文を能とすれば、これは狂言に相当するのでしょうね。
信長「・・・さりながら冥加のために候あいだ、この瓜親王様へ進上候。些少候といえども、濃州真桑と申し候て、名物に候あいだ、かくのごとく候。・・・」
誠仁「・・・まずまずこの瓜名物と候えば、ひとしお珍しく眺め入り候。・・・」
信長のとぼけたユーモア感覚といい、親王の返しといい(すぐ食べないで眺め入る、というところがよく、ひょっとすると、ポンポンと鼓のように叩いている気配すらあります)、狂言の名場面のようです。この場合、親王はシテ、信長はアド、ということで君臣の秩序は保たれているのかな。
大蔵流あたりで、この話を適当に脚色し新作狂言として上演してほしい。題はもちろん、真桑瓜、です。
注記
金子氏は、「さりながら冥加のために候あいだ、この瓜親王様へ進上候」を「とはいえ冥加のため、この瓜を親王様に献上します」と訳していますが、「冥加」のニュアンスが掴みにくいですね。神の御加護を得るために、あるいは、神の御加護に謝するために、と理解したとしても、神の御加護に対して、名物とはいえ、なぜたかが瓜なんだろう、神の御加護と瓜ではバランスがとれまい、という気がします。
些末なことですが、「塙直政」に「はのう なおまさ」とふりがなしてありますが(81頁)、塙保己一は「はなわ ほきいち」、塙直政は「ばん なおまさ」と記憶している者としては、この「はのう」の根拠は何なのか、知りたいと思いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E7%9B%B4%E6%94%BF
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E4%BF%9D%E5%B7%B1%E4%B8%80
天尽しの綸旨 2014/08/24(日) 17:36:00
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ところが最近、高木叙子氏によって、「麟」花押が示唆する聖人君主とは義昭であり、この花押は義昭による理想の世の中の達成を願望したものではなかったかという議論が提起された(「天下人『信長』の実像?」)。「麟」花押が見られるのは永禄八年(一五六五)頃に義昭から上洛への協力要請が届いた時期であることから、この頃の信長は義昭に仕え幕府に入りこもうと考え、「麟」花押を考案したというのである。信長が室町将軍による政治秩序の枠組みを継承して登場したことを考えると、高木氏の「麟」花押論はすこぶる納得のゆくものである。(「織田信長<天下人>の実像」267頁)
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天正改元の問題から、信長の天下静謐のための役割認識・考え方へと話が拡がった。これは、天正へと改元をうながしたことが、義昭追放後天下人の立場となった信長が最初に着手した行動であるとともに、かつてみずからが義昭に諫言した内容を誠実に履行したことを示す重要なできごとだからである。(同書55頁)
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高木説の論理によれば、義昭を追放した後、信長は「麟」花押を破棄し新たな花押にしてもよさそうですが、追放後も同じ花押を信長はなぜ使い続けたのか、という素朴な疑問が湧いてきて、「すこぶる納得のゆくものである」と金子氏はいうけれども、まったく納得がゆかないですね。当該論文を読むべきなんでしょうが、他人のために自らの花押を考案するなどというのは、非常識というか、私の感性にいたく抵触するものがあります。義昭追放直後、天皇に改元を迫った信長が、義昭のための「麟」花押をのんびりと使い続けますかね。人は何を信じてもいいけれども、私には寝耳に水のようなアンビリーバブルな話です。
一部の戦国大名が足利将軍家の武家花押のマネをして、似たような花押を使用していますが、この場合であれば、ひたすら将軍家の弥栄を念じたもので他意はない、と言えなくもないけれども、やはり牽強付会でしょうね。というような訳で、当該論文を読んでみようかしら、という意欲は湧いてきません。
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改元執行せられ、年号天正と相定まり候。珍重に候。いよいよ天下静謐安穏の基、この時にしくべからざるの条、満足に察し思し食さるるの旨、天気候ところなり。よって執達くだんのごとし。
七月廿九日 左中将親綱
織田弾正忠殿 (『東山御文庫所蔵史料』勅封三八函-六九)(同書56頁)
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信長による蘭奢待の切り取りの時と同じように、『東山御文庫所蔵史料』の勅封も勅使派遣により開かれたのでしょうね。