投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 6日(木)23時08分47秒
>筆綾丸さん
今日、樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』(集英社新書、2016年3月)を購入してパラパラ眺めてみましたが、あまり感心しませんでした。
樋口陽一氏は少し老化現象が進んでいるようですね。
例えば、
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樋口 自民党の国会軽視は数限りなく続いているので、例を挙げればキリがないのだけれど、内閣総理大臣席から野党議員に対して「早く質問しろよ」(二〇一五年五月二八日)、「どうでもいいじゃん」(八月二一日)と野次を飛ばした事件があったではないですか。
小林 前者は民主党の辻元清美議員、後者は蓮舫議員の質疑のときの野次ですね。
首相は陳謝にもなっていないような陳謝をして、世間的にも、野党のほうが馬鹿みたいにムキになって、と笑い話のような形ですまされてしまいましたが。
樋口 その首相の野次で思い出したのが、戦前の帝国議会で政府委員席から「黙れ」と言った陸軍省の役人の事件です。これは大問題になりました。帝国議会の権威をなんだと思っているのか。
【中略】
樋口 小さなことのようで、これは権力分立という大原則を破っているのです。立法府において行政側の人間が勝手に議事を仕切る権利はない。
戦前のケースでは、陸軍省の副課長級の役人の発言でした。これが大問題になったのですが、今回は一国の首相の発言だったにもかかわらず、笑い話で終わっている。帝国議会の時代のほうが、緊張感をもって政治をしていた。
それにくらべて、今は、議員もメディアも、みんな鈍感になっています。
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などとありますが(p45以下)、これは佐藤賢了(1895-1975)のことなんでしょうね。
お手軽にウィキペディアから引用すると、佐藤の「黙れ事件」とは、
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1938年(昭和13年)3月3日、“黙れ事件”を起こす。軍務課国内班長として衆議院の国家総動員法委員会において陸軍省の説明員として出席。国会審議で佐藤が法案を説明し、法案の精神、自身の信念などを長時間演説した事に対し、他の委員(佐藤の陸軍士官学校時代の教官でもあった立憲政友会の宮脇長吉[1]など)より「やめさせろ」「討論ではない」などの野次が飛んだが、これを「黙れ!」と一喝。政府側説明員に過ぎない人物の国会議員に対する発言として、板野友造らによって問題視されるも、佐藤が席を蹴って退場したため、委員会は紛糾し散会となった。その後杉山元陸相により本件に関する陳謝がなされたが、佐藤に対し特に処分は下らなかった。
というものですが、陸軍大臣の形式的な陳謝であっさり終わってしまっていて、全然「大問題」になっていません。
樋口氏は余りに大雑把に「戦前の帝国議会」と言っていますが、これは天皇機関説事件の3年後、国家総動員法制定の時期ですから、代議士が「帝国議会の権威をなんだと思っているのか」と空威張りしたところで、陸軍の高級将校連中から鼻で笑われて済んでしまった、というだけの話です。
樋口氏は事実関係の整理と分析を行う基礎的能力がかなり衰えているようですね。
また、
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樋口 戦前のエスタブリッシュメントの子孫と言えば、安倍首相などは、まさにその典型ということになりますね。
小林 そうです。彼の母方の祖父、岸信介なんて、大日本帝国のもとで戦争したときの最高責任者のひとりです。武官の最高責任者が東條英機ならば、文官の最高責任者は岸信介じゃないですか。
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というやりとりもありますが(p31)、岸信介の孫であることを理由に安倍首相に罵倒の限りを尽くすのは出自による差別を禁じた憲法14条の平等原則に照らし、憲法学者の態度として些か問題があるような感じがしますし、小林氏の「文官の最高責任者」という表現は意味不明で、興奮のあまり訳のわからないことを口走っているような感じがします。
ま、個人の趣味としては東條英機と並置するのも結構ですが、それだったら岸信介が東條内閣打倒を謀り、自宅に押しかけて恫喝を加えた東條側近の四方諒二・東京憲兵隊長に「黙れ兵隊!」と怒鳴りつけたエピソードなども添えてあげるのが公平な態度のように思われます。
岸信介(1896-1987)
四方諒二(1896-1977)
岸信介は「昭和の妖怪」みたいなブキミなイメージだけがやたらと広がっていますが、実際に回想録などを読むと、けっこう面白い人ですね。
意外なことに岸のユーモアのセンスは抜群で、岸担当の新聞記者だった古澤襄氏のエッセイには、岸の豪胆さとともに非常にユーモラスな一面が良く描かれていますね。
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「黙れ兵隊」と一喝
私にとって一九六〇年七月一四日は生涯忘れられない日となった。この日,岸信介首相は総理官邸の大広間に足を踏み入れた時に,暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った。政治部の岸番記者だった私はその真横に立っていて、暴漢がふるう短刀の白刃が二度、三度岸首相の大腿部に刺さるのを目の当たりにした。崩れ落ちるように倒れた岸首相を思わず跨いで官邸の電話に飛びつき、夢中で「岸が刺された。生死は不明」と一報を入れたが、このことが後々まで「君は人が死んだと思って私の頭を跨いだのだから・・・」と岸さんから言われるはめになった。頭を跨いだと言うのは岸さんの脚色で、倒れた岸さんの足を跨いだと言うのが本当のことだが、時の首相の身体を跨いだのは若気の至りだったと今では反省している。
【中略】
戦前の岸さんの逸話として残っているのは、サイパン玉砕の破局を迎えても徹底抗戦を唱える東条首相と単身対決し、倒閣に持ち込んだことがあげられる。土壇場の最終閣議で同調してくれる筈だった重光外相と内田農相は約束を破って発言せず、最年少の岸商工相だけが東条首相に退陣を迫るはめになってしまった。閣議が終わって私邸に戻った岸さんを訪れたのは、東条首相の腹心だった四方東京憲兵隊長だった。軍刀をがちゃつかせて恫喝する四方に対して、「黙れ,兵隊」と一喝したが、その時は斬られることを覚悟したと言う。「でも四方は私の頭は跨がなかったよ」と言って私を指さしながら、楽しそうに笑った岸さんが印象的だった。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
ビリケン 2016/10/05(水) 12:36:00(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0826-a/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%B3
田中耕太郎について言及できる知識がなくて、なんですが、『「憲法改正」の真実』に、以下のような箇所があります(37頁~)。
--------------
樋口
(前略)
意外な感じがするかもしれませんが、比較をすると、現代よりも明治憲法の時代のほうが、立憲主義という言葉は人々のあいだに定着していたのですよ。
戦前期にどれだけ「立憲」「非立憲」という言葉が一般の人たちにも浸透していたかという例として、ひとつ紹介したいのですが、先生はビリケンをご存知ですか。
小林 大阪の通天閣に「ビリケンさん」の像がありますねえ。顔は浮かびます。幸運を運ぶ神様でしたっけ。
樋口 そのビリケンのニックネームをもらってしまった首相がいますね。
小林 ビリケン首相! 帝国議会を無視した超然内閣として批判を浴びた寺内正毅首相ですね。
樋口 ビリケンの由来は「非立憲」。「非立憲」をもじったうえで「ビリケン寺内」という言葉が、はやったんですね。ビリケンに顔つき、というより頭つきが似ていたからというのもあったのですが、ここでの話のポイントは、一般の人々のあいだで流行語になるくらい「非立憲」ということばが定着していた、ということです。
では、なぜそんなに「立憲」「非立憲」という言葉が、戦前の日本で一般的だったのか。
天皇主権の明治憲法の時代には、立憲主義というものが、とても分かりやすく見えていたからなのですね。天皇が統治権を総攬していた、あるいは実質的には藩閥政府(のちに軍閥)が権力を握っていたという状況では、憲法によって縛られるべき権力が何なのかが明確でしたから。
(後略)
--------------
恥ずかしながら、単にビリケンに似ていたから、と思っていたのですが、確かに「非立憲」を含意していなければ風刺にならないですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%B4%8E%E4%BA%AB
孫崎享氏は、失礼ながら、亡くなれば、たとえば、孫崎享享年七十七、とかなるのですね。
小太郎さん
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0826-a/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%B3
田中耕太郎について言及できる知識がなくて、なんですが、『「憲法改正」の真実』に、以下のような箇所があります(37頁~)。
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樋口
(前略)
意外な感じがするかもしれませんが、比較をすると、現代よりも明治憲法の時代のほうが、立憲主義という言葉は人々のあいだに定着していたのですよ。
戦前期にどれだけ「立憲」「非立憲」という言葉が一般の人たちにも浸透していたかという例として、ひとつ紹介したいのですが、先生はビリケンをご存知ですか。
小林 大阪の通天閣に「ビリケンさん」の像がありますねえ。顔は浮かびます。幸運を運ぶ神様でしたっけ。
樋口 そのビリケンのニックネームをもらってしまった首相がいますね。
小林 ビリケン首相! 帝国議会を無視した超然内閣として批判を浴びた寺内正毅首相ですね。
樋口 ビリケンの由来は「非立憲」。「非立憲」をもじったうえで「ビリケン寺内」という言葉が、はやったんですね。ビリケンに顔つき、というより頭つきが似ていたからというのもあったのですが、ここでの話のポイントは、一般の人々のあいだで流行語になるくらい「非立憲」ということばが定着していた、ということです。
では、なぜそんなに「立憲」「非立憲」という言葉が、戦前の日本で一般的だったのか。
天皇主権の明治憲法の時代には、立憲主義というものが、とても分かりやすく見えていたからなのですね。天皇が統治権を総攬していた、あるいは実質的には藩閥政府(のちに軍閥)が権力を握っていたという状況では、憲法によって縛られるべき権力が何なのかが明確でしたから。
(後略)
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恥ずかしながら、単にビリケンに似ていたから、と思っていたのですが、確かに「非立憲」を含意していなければ風刺にならないですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%B4%8E%E4%BA%AB
孫崎享氏は、失礼ながら、亡くなれば、たとえば、孫崎享享年七十七、とかなるのですね。