学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「現場を目撃した娘の洋子が証言している」(by 太田尚樹)

2016-10-13 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月13日(木)22時20分10秒

ウィキペディアの東條英機の項に、

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東條は岸の辞任を強要するため、東京憲兵隊長・四方諒二を岸の下に派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ」と岸に辞任を迫ったが岸は「兵隊が何を言うか」「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ」と整然と言い返し、脅しに屈しなかった[38]。


とあったので、注38の<太田尚樹 『東条英機と阿片の闇』 角川ソフィア文庫>を探したところ、入手できたのは類似書名の『東條英機 阿片の闇 満州の夢』(角川学芸出版、2009)だけでしたが、これを文庫化したのが『東条英機と阿片の闇』(角川ソフィア文庫、2012)で間違いないでしょうね。
さて、『東條英機 阿片の闇 満州の夢』には、

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【前略】
 のちに国務大臣の岸信介が反旗を翻して東条内閣が総辞職に追い込まれたとき、四方は岸信介の家に乗り込み軍刀を突きつけて、
「東条さんが右向け右と言ったら、その通りにするのが、閣僚の務めだろう」
と脅迫した。そのとき岸は、
「黙れヘイタイ! お前のような奴がいるから、最近の東条さんは評判が悪いのだ」
と言って追い払ったと、現場を目撃した娘の洋子が証言している。因みに洋子は首相を務めた安倍晋三の母親である。
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とあったので(p210)、ええっ、安倍洋子氏が目撃者だったのか、と一瞬驚いたものの、出典が示されておらず、また全体的に些か信頼できかねる雰囲気が漂っているので、どうしたものかと迷いました。
で、とりあえず安倍洋子氏の著書『わたしの安倍晋太郎 岸信介の娘として』(文藝春秋、1992)を当たってみたところ、

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【前略】
 やがて戦局は日本に不利になっていきました。昭和十九年七月、サイパン島をあくまで守るべきだ、サイパン島が陥落すれば日本はB29の空襲にさらされ、工場が爆撃されて軍需生産が低下するという、父の主張をめぐって、父と東條首相との対立が決定的になりました。が、父は首相の強要した辞職勧告をあくまで拒絶したのでした。父はのちに、次のようなエピソードを語っております。
 父が態度を変えないことに腹を立てた四方という東京憲兵隊長が大臣官舎に談判に押しかけてきて、軍刀を突き付け、
「東条閣下が右向け右、左向け左と言えば、閣僚はそれに従うべきではないか。それを反対するとはなにごとか」
 と、おどしたのです。父はそれに対して、
「だまれ、兵隊! なにを言うか。お前みたいなのがいるから、このごろ東條さんは評判が悪いのだ。日本において右向け右、左向け左という力を持っているのは、天皇陛下だけではないか。下がれ!」
 と、一喝して追い返したそうです。
 父は商工大臣就任のときから、自分の命は陛下に差し上げた、自分は日本の国のために働くんだと申しておりましたが、それを第一に考えることは戦後も一貫していたと、わたくしは理解しております。
 後年、父は、生涯に三回死を覚悟したと言っておりました。一回はこの東條首相との対決のとき、二回はA級戦犯として巣鴨プリズンに収監されたとき、三回は安保国会のときです。このとき東條内閣は、父のとった態度のために閣内不統一が表面化し、ついに七月十八日、総辞職ということになり、父もまた野に下りました。
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ということで(p62以下)、昭和3年生まれで「黙れ事件」当時は白百合高等女学校に在学していた安倍洋子氏は父親の話を引用しているだけですね。
ま、太田尚樹氏(東海大学名誉教授)の「現場を目撃した娘の洋子が証言している」は事実ではなかった訳で、しょーもない手抜き仕事の実態を確認しようとして手間と時間を無駄にしてしまいました。
「黙れ、太田尚樹!」と言いたい気分ですね。

太田尚樹(1941-)

結局、四方と岸のやり取りに立ち会った人はおらず、四方は何も記録を残さずに死んでしまったようですから、仮に吉松安弘氏が岸の記憶を否定する材料をどこかから入手していたとしても、それはせいぜい四方からの伝聞程度でしょうね。

>筆綾丸さん
>「後深草天皇宸翰消息」
これですね。
達筆だということが分かるだけで、全然読めませんが。

文化遺産オンライン

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

細川家の春画 2016/10/13(木) 12:57:38
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%9D%92%E6%96%87%E5%BA%AB
話に関連がなくて恐縮ながら、永青文庫は、夏ならば、藪蚊でも潜んでいそうな薄暗い所にあって、あまり好きな場所ではないのですが、話題の春画展(2015年)は見られず、残念なことをしました。
ウィキに、
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文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である永源庵(建仁寺塔頭、現在は正伝永源院)の「永」と、細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られている。
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とあり、永青の由来を初めて知りました。「後深草天皇宸翰消息」という、なんだか懐かしいようなものまで所蔵していますね。

http://mainichi.jp/articles/20161013/k00/00m/040/037000c
真偽のほどは不明ながら、将棋ソフトの威力はここまで来ました。三浦九段の棋士生命は終りになるかもしれませんね。
竜王戦は読売新聞がカネにものを言わせて十段戦を発展させたものですが、名人戦の対局者に「不正」がなくてよかった、と考えるべきでしょうか。
人間対ソフトの対局場は平泉の中尊寺や比叡山の延暦寺でしたが、竜王戦第一局も京都天龍寺ということで仏門が続きますね。ゆくゆくは、ローマ法王庁の一室で対局してほしい。
コメント
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ワカモト夫人と四方夫人

2016-10-13 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月13日(木)11時23分14秒

東條英機内閣の総辞職は1944年(昭和19)7月18日ですが、細川護貞『情報天皇に達せず 下巻』(同光社磯部書房、1953)の同年8月14日の項を見ると、

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【前略】
 昨十三日公と同車軽井沢に来る。車中公は小畑氏の談として、富永次官が岸一派近衛一派を、思想国防の見地より逮捕せんとのことを云ひたることを挙げ、今日公が内府の地位につきて断行せずんば、彼等の為に却つて禍を受くべきことを述べ、梅津の人となりを説明せりと。又長尾欽弥(ワカモト社長)夫人は、昨今憲兵の感情の自己に悪しきを以て、志方憲兵司令を自宅に招きたる所、酒に酔ひて、「大谷句仏師を毒殺したるも、中野正剛を殺したるも自分なり。」とて得意気に語り、「今に重臣の一人と岸を殺すから見て居れ。」と云ひたりとて公に報告、注意を勧告。その後村田五郎氏を使ひて、重臣中の一人が誰なるかを尋ねたる所判然せざるも、公にてはなき模様なりと。公は松平秘書官長に、内府も共にねらはれ居るを以て、早く杉山に云つて志方をとり替へる様にしては如何と云はれたる由。又小畑氏は、一切の禍根は木戸内府にありと云ひ居れりと。余は将来梅津と木戸内府とが一緒になられる恐れありと云ひたる所、公も是に同意され、「お上の御覚えも梅津に対しては特によく、東条の如く軽燥ではないから、此の問題は非常に困難だ。」といはれたり。
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とあります(p291以下)。
『情報天皇に達せず』は「著者自序」によると、

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 此の日記は高松宮殿下に御報告する為に私が集めた政治上の情報の覚書である。私は高松宮殿下の御発意により、近衛公や高木海軍少将の推薦によつて、各方面の意見を殿下に御取次ぎする任務を御引受けしたのであつた。時恰も昭和十八年十月三十日である。此の時の背景は未だ記憶にも新な通り、四月に山本連合艦隊司令長官が戦死し、五月にはアッツ島の我軍が全滅、七月にはキスカの守備兵が撤退して居り、外に於ては伊太利亜のムッソリーニ首相が監禁されてパドリオ元帥が内閣を組織してゐる。九月にはその伊太利亜は無条件降伏を申し出たのである。この様に日一日と国の内外に於て困難は加速度的に加りつゝあつたのである。
 初め近衛公から此の話を聞いた時、私は直感的に事の重大さと危険さとを悟つた。つまり高松宮殿下の御意向も近衛公等の考へも国策の百八十度の転換を目指した準備行動であつたし、従つて軍閥政府はそれだけに神経を昂ぶらせて如何なる手段に出て来ないとも限らないからである。しかし私は二三の先輩の激励も手伝つて意を決してこの任務を御引受けしたのであつた。そしてその日から一つには殿下への報告の正確を期する為、二つにはこの間の事情を遺す為に日記を附け初めたのである。勿論此の場合日記を附けることの危険は充分に知つてゐた。それは私自身の為よりもより以上に本問題に関係ある人々の身の安全の為であり、目的達成の為であつた。従つて日記中の数字は、以上の様な配慮から後日書込んだものが多い為かなり誤りがあると思はれる。【後略】
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という性格の記録ですね。
8月14日の項に出てくる「公」は近衛文麿、「小畑氏」は皇道派の小畑敏四郎、「富永次官」は富永恭次、「梅津」は梅津美治郎、「松平秘書官長」は内大臣秘書官長の松平康昌、「木戸内府」は木戸幸一です。
さて、これで『東條英機 暗殺の夏』の「大谷句仏師を毒殺したのも、中野正剛を殺したのも自分だ。いまに重臣中の一人と岸を殺すから見ておれ」の出典と「長尾欽弥(ワカモト社長)夫人」が近衛文麿に話した内容を細川護貞が近衛から聞いて記録に残した、という経緯は分かったものの、酔っぱらった席の発言で、日時も正確には不明の話である点は多少割り引いて考えなければならないのでしょうね。
「ワカモト」で財を成した長尾欽弥・よね夫妻については「長尾資料館」というサイトに詳しい説明がありますね。


>筆綾丸さん
>「特別最上等の火葬炉で荼毘に付された」
吉松安弘氏は「参考資料について」の冒頭(p655)でインタビューした20人の名前を列挙しており、その中に「四方妙子(四方東京憲兵隊長夫人)」とありますので、これは四方夫人から聞いた話の受け売りなのでしょうね。

>同じ「しかた」でも漢字が違うのですね。
細川護貞が「志方」と間違えているのは、ちょっと面白いですね。

細川護貞(1912-2005)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ノーベル経済学賞 2016/10/12(水) 15:02:37
小太郎さん
ご引用の四方諒二の経歴に憲兵に転じた理由が書かれていますが、憲兵は陸軍の傍流ですから、このあたりに四方の人生の挫折や屈折が隠されていそうですね。
些末なことで恐縮ながら、「特別最上等の火葬炉で荼毘に付された」という奇妙な記述がありますが、高額の軍人恩給の一部を拠出して、遺族が火葬場に「特別最上等の火葬炉」を寄付した、ということでしょうか。普通、火葬場は公営ですから、奇特かつ殊勝な寄付行為でも市町村長の認可が必要になりますね。
火葬場の所在地は不明ですが、没年時(昭和52年)から考えて、火葬炉に軍隊のような厳格な階級差があったとは思えず、かりにあったとしても、元憲兵如きの火葬に「特別最上等の火葬炉」を使用するとは全く以て世も末だ、と本流の兵科出身の元軍人から、さんざん嫌味を言われたような気がします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%96%B9%E4%BF%8A%E4%B9%8B
昔、志方俊之氏はよくテレビに出ていましたが、同じ「しかた」でも漢字が違うのですね。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161010/k10010724911000.html
全く縁がなく、しかも何も知らないのですが、たかが契約如きがなぜノーベル賞になるのか、不可解です。受賞理由を読むと、なんだ、馬鹿くせえ、と感じませんか。
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ノーベル賞の選考委員会は、授賞理由について「『契約論』は、会社の経営から法律まで多くの分野に影響を与えた。彼らの業績のおかげでわれわれは契約を結ぶ当事者の間で資産の権利などがどのように割り当てられているかを分析する手段を得た。民間市場や公共政策においてどのように契約が作られるべきか新たな考え方を提示してくれた」としています。
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http://3lion-anime.com/
http://www.loc-lion.com/title.html
『三月のライオン』という題名は、英語の諺に基づくのですね。
一回目を見ましたが、原作同様、ちょっとたるい展開でした。

http://satoshi-movie.jp/
『聖の青春』は、昔、原作を読んだことがあるので、期待しています。
コメント
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