学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「黙れ兵隊!」(その2)

2016-10-09 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 9日(日)11時44分55秒

>筆綾丸さん
>『シン・ゴジラ』
元防衛大臣・石破茂氏の感想がけっこう面白いですね。

「ゴジラを攻撃した戦車はどこから来たか」

軍事オタクの水島朝穂教授の感想も読んでみたいものです。

>キラーカーンさん
>>武官の最高責任者が東條英機ならば、文官の最高責任者は岸信介

今年3月22日に出版された『「憲法改正」の真実』は、小林節氏が「国民怒りの声」から参議院選挙に出馬するために作成された選挙ツールでしょうから、最初から学問的価値などは重視しておらず、あまり分析しても仕方ないのかもしれないですね。

>親任官(国務大臣:大将格)と奏任官(大佐)では格が違いますので、岸が「上から目線」であってもさもありなんです

そうはいっても、自宅に軍服で来た東條側近の憲兵司令官に「黙れ兵隊!」と言える人はなかなかいないでしょうね。
参考までに『岸信介回顧録─保守合同と安保改定』(廣済堂、1983)から、もう少し詳しく引用しておきます。(p31以下)

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 六月にサイパンが陥落すると元老、重臣たちの中に東条首相に対する批判が急激に強まった。東条首相は内閣改造によって重臣の何人かを入閣させて内閣を強化しようとし、そのために私に辞表の提出を求めた。しかし私は拒否した。この話を聞きつけた四方(しかた)という東京憲兵隊長が、商相官舎にいた私を訪ねてきて、軍刀を立てて、
「あなたは東条総理が辞表を出せと言われたのを断ったというが、誠にけしからん。大臣は総理が右を向けと言われれば右を向き、左を向けと言われれば左を向けばいいのだ」
 といきまいた。私は、
「黙れ兵隊! 何を言うか。お前のような輩がいるからこのごろ東条さんの人気が悪くなるのだ。右を向けと言われて大臣が右を向くのは陛下のご命令があったときだけだ。それを東条さん本人が言うのならともかく、お前のような訳の分からない兵隊が言うとは何事だ。たわけたことを言うな。下がれ!」
 と一喝した。四方隊長は軍刀をガチャガチャさせながら、
「覚えていろ!」
 と、捨てぜりふを残して帰っていった。
-----

これで終わりかと思ったら続きがあって、

-----
 その夜、淀橋の私邸で夕食を取っていたとき、陸軍の青年将校が五、六人訪ねてきいて会いたいと言ってきた。家族の者や秘書たちは心配して、
「どうせろくな話ではないでしょう。万一のことでもあれば大変だから、へいを乗り越えて隣に逃げたらどうですか」
 とすすめたが、私は、
「いや、会ってみよう。応接間に通せ」
 と言って出かけていった。青年将校たちは、
「今日の閣議で東条閣下に反対された閣僚がいたと聞きましたが、それはどなたでしょうか」
 と言うので、
「それはわしだ」
 と答えると、
「多分そうではないかと見当をつけて参りました。私たちは陸軍ではありますが、岸閣下のご意見に賛成です。今後もご健闘を期待しています」
 と言って帰っていった。
-----

同年輩の憲兵隊長よりも、むしろこちらの青年将校の集団の方が不気味ですが、この人たちはいったい何をしに来たのですかね。
激励に来たというのも変な話ですから、陸軍の東条とは異なる立場の人の指示を受けて正確な情報収集のために来たのか、あるいは、無理強いはするなとの条件付きで東条なり四方なりの命令でやんわりと脅しに来たけれども、効果がなさそうなのであきらめて帰って行った、ということなのでしょうか。
ま、その点についての考察は特になく、

-----
 その後、星野内閣書記官長が訪ねてきた。書記官長は東条首相の意を受けて来たのである。その当時の内閣制度は閣僚の一人一人が陛下に対し輔弼の責任を負っており、閣議で全員が一致しなければ、内閣不統一の責任をとり総辞職する以外に方法がなかった。現在のように総理の一存で閣僚の首をすげかえることは不可能だった。書記官長は、閣内の意見不一致でなく、私が辞表を出せば内閣の総辞職は避けられるので、そうして欲しいという要望を伝えに来たのである。私はどうしても応じなかった。
-----

ということで幕を閉じます。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記三つの投稿へのレスです。

ふたつの inviolable et sacré 2016/10/07(金) 19:26:17(筆綾丸さん)
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5
仰る通り、トッドはいいですね。
ブリコラージュ(日曜大工)好きのフランスには随所にブリコの店があって、同国のインテリたちをを苛々させるのが得意なトッドですが、「ブリコラージュ屋」というのは非常にフランス的ですね。

樋口陽一氏は齢八十過ぎの、元気なお爺さんですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%AC%AC%E4%B8%80%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
井上ひさしは「高校同期の親しい友人」(238頁)で、「菅原文太は高校の一学年上の友人」(190頁)とありますが、仙台一高は多才な人材を輩出する高校なんですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A416%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
明治憲法第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」は、フランスの1791年憲法の国王の地位を規定した条文「アンビオラーブル・エ・サクレ(不可侵にして神聖)」に由来するもので、法的には、王は民事・刑事の裁判に服さないというだけの意味なんですね。(59頁)
とすると、ルイ16世の処刑(1793年)は法的にどうなのか、と思いましたが、前年(1792年)に王権は停止されているから、別に憲法には違反しない、ということになりますか。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Droit_de_propri%C3%A9t%C3%A9_en_France
1789年の人権宣言には、所有権は不可侵にして神聖(La propriété étant un droit inviolable et sacré)とありますが、国王の inviolable et sacré と所有権の inviolable et sacré の相違は、どのように考えればいいのか、よくわかりません。

平将門と坂東深海盆 2016/10/07(金) 20:24:06(筆綾丸さん)
http://bourne.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%A9
『ジェイソン・ボーン』と『シン・ゴジラ』を堪能してきました。
『シン・ゴジラ』は、科学的には荒唐無稽な話ですが、法律的には色々な問題を提起していているように思われ、興味深く感じました。それはともかく、防衛省(自衛隊)の全面的協力がなければできない映画でしょうが、よく協力してくれたものだ、と感心しました。

http://www.yurindo.co.jp/yurin/sinsho/4338
http://www.mirc.jha.or.jp/products/BTJ/BTJsample/exp/IV-3.html
藤岡換太郎氏の『相模湾 深海の八景』で、坂東深海盆(海溝三重点)というのを初めて知ったのですが、「関東の昔の名前である坂東地域の堆積物がすべてここまで運ばれて溜まる」ので、こう呼ばれるのだそうです。
海洋投棄された放射性物質による異常進化であるならば、坂東深海盆こそゴジラ誕生の最適地ではあるまいか。坂東深海盆を出て相模舟状海盆(相模トラフ)を這って進むと仮定すれば、一回目と二回目の上陸に対して、合理的な説明ができそうな気がしました。また、坂東・投棄・異常という言葉の連想から、もしかすると、ゴジラは平将門の化身であって、さらには、二回目の上陸地点が鎌倉なのは、理由は不明ながら、八幡神のお導きなのかもしれない、などと妄想しました。
海溝三重点というのは、地球では、坂東深海盆にしかないとのことです。

追記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%AD
トッドの「場所の記憶」とは意味が違いますが、ゴジラをめぐるゲニウス・ロキというようなことが考えられるのかもしれません。

言わずもがなのことになりますが、ゴジラが東京駅まで来ているというのに、天皇は一体どうされているのか、一切言及しないのは、この映画のいちばん不自然な点ですね。ウィキによれば、発端は「2016年11月3日8時30分ごろ」とありますから、文化勲章の親授式がまもなく始まろうという時間帯になる訳で、なんとも微妙な暗示ではありますが。
些末なことながら、首相官邸執務室に片岡球子の富士の絵が掲げられていましたが、どういう意味なのか。また、執務室には天照皇大神宮のお札もありましたが、これは総監督・庵野秀明氏のささやかなジョークなのでしょうね。

駄レス 2016/10/09(日) 02:25:10(キラーカーンさん)
>>立法府において行政側の人間が勝手に議事を仕切る権利はない
大統領制なら妥当するのですが、立法府と行政府が融合している議院内閣制の場合は
必ずしもそうではありません

一般的には「閣議=与党幹部会」なので、閣議で与党を縛ることは可能ですし、
それが「あるべき」形態なのでしょう
英国では下院院内総務(あえて言えば、自民党幹事長兼国対委員長に相当する役職)は
閣僚の一員なので、内閣としても党員としても(下院)は閣議(行政)の統制を受けます。
旧民主党の「影の内閣」でも政調会長は閣僚の一員でもありました。

わが国のように、議院内閣制かつ同一の政党(与党)でありながら、
内閣と与党とが完全分離されているというのが異例だと思います
(首相の答弁でも「立法府で議論の上」という答弁がありますが、
 「与党党首」として党役員を指導しないのかという問いは「政党ガバナンス上」成立します)
これも、戦前の「超然内閣」や「中間内閣」という歴史的経験の「遺産」なのでしょう

>>武官の最高責任者が東條英機ならば、文官の最高責任者は岸信介
首相は「文官職」なので、文官の最高責任者も「総理たる東條」なのですが、
文官の閣僚という意味でも、賀屋興宣蔵相もおり、いくら「二キ三スケ」の一人でも
岸が「文官の最高責任者」とはならないでしょう

しかも岸は「国務大臣兼軍需次官」という「閣議出席資格のある次官」という摩訶不思議な立場でした
(商工省が軍需省に改組された際、大臣を東條が兼任したため、商工大臣の岸が次官に「降格」となったため)

似たような例としては
宇垣陸相が病気休養の際、次官が「班列国務大臣」(次官兼任ではない)として「入閣」した例
(この際は、次官からの転任)
児玉源太郎が内務大臣から参謀次長に「降格転任」の際、本官の台湾総督はそのままにして
「親任官」の地位は維持させたこと(台湾総督兼内相→台湾総督兼参謀次長)
があります

>>ふたつの inviolable et sacré

近代民法では「所有権絶対の原則」というものがあり、所有権に基づく「物の使用、収益、処分」は
完全に所有者の自由であり、所有権の行使自体は裁判の対象にならない(法律の制限を受けない)
という点で、共通性があると思います。

日本国憲法でも摂政在任中は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」なので、
天皇も当然に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされています

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E7%A7%81%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E5%89%87

>>「黙れ兵隊!」
親任官(国務大臣:大将格)と奏任官(大佐)では格が違いますので、岸が「上から目線」であってもさもありなんです
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マジックワードとしての「立憲主義」(その2)

2016-10-09 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 9日(日)10時50分18秒

>筆綾丸さん
>キラーカーンさん
「立憲」という言葉自体は明治時代から普通にありますが、「立憲主義」は昭和になってから、それもごく僅かの例外を除いて戦後の表現ですね。
そして石川健治氏によれば、「立憲主義」が「現在のように豊かな響きをもつマジックワード」として使用されるようになったのは、「七〇年代後半、樋口陽一の登場以降のことである。参照、樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』(勁草書房、一九七五年)、同『近代憲法の思想』(日本放送出版協会、一九八〇年)」とのことで、比較的新しい現象ですね。

マジックワードとしての「立憲主義」

今回、『「憲法改正」の真実』を眺めて驚いたのは、樋口氏が、

-----
 民主主義、デモクラシーとは、人民(デモス)の支配(クラチア)、つまり人民の支配です。突きつめれば、一切の法の制約なしに人民の意思を貫き通す、これが<民主>のロジックですね。
 一方、立憲主義とは「法の支配」、rule of lawです。この law は、国会のつくる法律を指すのではなく、国会すらも手を触れることのできない「法」という意味がこめられています。
-----

と書いていることです(p40)。
ごく一般的な理解によれば、「法の支配」は英米法的な原理ですね。
ところが、樋口氏は、例えば江川紹子氏によるインタビュー<「立憲主義」ってなあに?>(ヤフーニュース、2015年7月4日)では、

------
『立憲主義』はどこから出てきた考え方ですか。

「ドイツです。元々は、民主主義がスムーズに展開しなかったドイツで、議会主義化への対抗概念として出てきました。ドイツは普仏戦争に勝って、ようやく1871年に統一します。憲法が作られ、議会も作られる。歴史の流れでは、王権はだんだん弱くなり、議会が伸びてくるわけですが、ドイツの場合は、イギリスやフランスのように議会が中心になるというところまでは、ついに行かなかった。けれど、もはや君主の絶対的な支配ではない。どちらも、決定的に相手を圧倒できないでいる時に使われたのが『立憲主義』です。君主といえども勝手なことはできず、その権力は制限される。けれどもイギリスやフランスのように議会を圧倒的な優位にも立たせない。つまりは、権力の相互抑制です。この時期のイギリスやフランスは『民主』で、ドイツは『立憲主義』。明治の日本は、そのドイツにならったわけです。
ドイツはその後、ワイマール憲法で議会中心主義になり、そこからナチス政権が生まれて失敗した。それで、戦後のドイツは強力な憲法裁判所を作るわけです。やはり議会も手放しではよろしくない、ということで」


と答えていて、ドイツ法に疎い私にとってもかなり違和感のある議論です。
これって、一般に「外見的立憲主義」と揶揄されているものなのではないですかね。
そして、「法の支配」との関係はどうなってしまっているのか。
私自身は佐藤幸治の、

------
一七八九年のフランスの「人および市民の権利宣言」は、「権利の保障が確保されず、権力分立が定められていないすべての社会は、憲法をもつものではない(一六条)と宣明しているが、われわれはここに近代立憲主義の心髄の簡潔な要約をみることができる。
------

という理解に従って(『憲法〔新版〕』、青林書院、1990、p6)、何となく「立憲主義」をフランス法的なものと捉えており、樋口氏もそんな立場ではないかなと想像していたのですが、最近の樋口氏が「立憲主義」とは要するに「法の支配」だとかドイツで生まれた考え方なのだとか言われると、ずいぶん混乱してしまいます。
ま、このあたりも個人的には樋口氏の老化を感じる部分なのですが、これは単に私が樋口氏の学説の変遷を丁寧に追っていないだけなのかもしれません。
ただ、正直言って、私は樋口氏にそれほど知的関心を抱いていないので、これ以上追究するのはやめておきます。
フランスの歴史と思想への興味は尽きないのですが、別に樋口氏を介在させる必要など全然なくて、直接にフランスの歴史家・思想家にあたればよいだけの話なので。
それにしても「立憲主義」は本当にマジックワードですね。
様々な学者が様々な意味で「立憲主義」という表現を用い、中には樋口氏のように同一人物でも時と場所によって全く違う(ように見える)意味づけをする人もいて、「立憲主義」は虹色に輝く幻のようです。

立憲主義(ウィキペディア)

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

ビリケン 2016/10/05(水) 12:36:00(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0826-a/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%B3
田中耕太郎について言及できる知識がなくて、なんですが、『「憲法改正」の真実』に、以下のような箇所があります(37頁~)。
--------------
樋口
(前略)
 意外な感じがするかもしれませんが、比較をすると、現代よりも明治憲法の時代のほうが、立憲主義という言葉は人々のあいだに定着していたのですよ。
 戦前期にどれだけ「立憲」「非立憲」という言葉が一般の人たちにも浸透していたかという例として、ひとつ紹介したいのですが、先生はビリケンをご存知ですか。
小林 大阪の通天閣に「ビリケンさん」の像がありますねえ。顔は浮かびます。幸運を運ぶ神様でしたっけ。
樋口 そのビリケンのニックネームをもらってしまった首相がいますね。
小林 ビリケン首相! 帝国議会を無視した超然内閣として批判を浴びた寺内正毅首相ですね。
樋口 ビリケンの由来は「非立憲」。「非立憲」をもじったうえで「ビリケン寺内」という言葉が、はやったんですね。ビリケンに顔つき、というより頭つきが似ていたからというのもあったのですが、ここでの話のポイントは、一般の人々のあいだで流行語になるくらい「非立憲」ということばが定着していた、ということです。
 では、なぜそんなに「立憲」「非立憲」という言葉が、戦前の日本で一般的だったのか。
 天皇主権の明治憲法の時代には、立憲主義というものが、とても分かりやすく見えていたからなのですね。天皇が統治権を総攬していた、あるいは実質的には藩閥政府(のちに軍閥)が権力を握っていたという状況では、憲法によって縛られるべき権力が何なのかが明確でしたから。
(後略)
--------------
恥ずかしながら、単にビリケンに似ていたから、と思っていたのですが、確かに「非立憲」を含意していなければ風刺にならないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%B4%8E%E4%BA%AB
孫崎享氏は、失礼ながら、亡くなれば、たとえば、孫崎享享年七十七、とかなるのですね。

立憲非立憲 2016/10/06(木) 22:52:32(キラーカーンさん)
>>「ビリケン寺内」

当時、寺内は、自他共に認める「藩閥の権化」山縣の後継者でしたから、当然に「非立憲」側となります。
(桂は、その数年前に鬼籍に入っています。寺内も、首相退任後程なく、山縣に先立ちこの世を去ります
 つまり、山縣は桂、寺内と二人の後継者に先立たれました)

戦前の政党には「立憲○○党」というものが結構あります
立憲政友会、立憲改進党、立憲同志会、立憲民政党、立憲国民党・・・

注目すべきは、伊藤博文が自由党系と伊藤系官僚を糾合して設立した政党にも
「立憲」の二文字が入っていることです(立憲政友会)

立憲を「選出勢力(衆議院)」に基礎を置く政党内閣
非立憲を「非選出勢力(官僚・軍部・貴族院」に基礎を置く超然内閣

との二大政党制的政権交代構造(政治体制論としては、議院内閣制と大統領制との交代体制)
として描いたのが、坂野 潤治が「1900年体制」と名づけたものです
(1900年体制は事実上桂園時代と重なります)
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