学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

深井英五『回顧七十年』

2017-04-24 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月24日(月)14時45分13秒

4月11日の投稿で触れた深井英五(1871-1945)ですが、その晩年の回想録『回顧七十年』(岩波書店、1942)を読んでみたところ、非常に面白いですね。
深井は同志社時代に既にキリスト教に非常に懐疑的になっていて、同志社を出た後、なお信仰の可能性を探るために「普及福音新教伝道会」の新教神学校で学んだものの、結局は棄教します。
そのあたりの事情は『プロテスタンティズム』では分からないようになっていますが、これは深井智朗氏が慎重に配慮しているようにも思えます。
私にとって深井英五は、宗教的観点からだけでなく郷土史的観点からもなかなか興味深い人物なので、『回顧七十年』を少しだけ検討してみたいと思います。
まずは深井英五の文体紹介を兼ねて冒頭の部分を引用します。(p1以下)

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第一章 幼少時の環境と心情

 私は上野国高崎に於て、旧藩士深井景忠の第五男として、明治四年十一月二十日に生れた。今、柳川町岡源別館となつて居る門屋敷が出生地である。此の屋敷は私の少時に売払はれ、一家挙げて龍見町の小屋に移つた。
 父の名は新戸籍上では景(したふ)であるが、藩士としての旧名八之丞景忠の方が郷党の間によく知られて居た。旧藩に於ける地位は、本禄百二十石、加禄三十石で、小藩の士としては、中の上に位する家柄であつた。
 父は武芸を主とする家に生れ、尚武の素質が勝つて、殊に弓術に精進し、元治元年高崎潘が幕命によつて武田耕雲斎等の水戸浪士隊と下仁田に戦つたとき、第三番手の隊長として出陣したが、戦闘が早く済んで参加し得ざりしを遺憾としたと云ふ。同時に家の伝統としては珍しく多少の吏才もあつたと見えて、離れ領地たりし銚子の奉行、城下町奉行、勘定奉行等を勤め、藩政に参与した。林子平の海国兵談や、和蘭人風説書などの写本が遺品の中にあるから、時勢の大局にも相当の注意を払つたのであらう。維新の際、東山道鎮撫使の軍が高崎を通過したとき、藩は巨額の軍用金を徴求せられ、到底資力の堪ゆる所でないので大に当惑した。父は其の交渉に当り、若し軍令を十全に充たさゞるの咎を受くるならば、累を藩主に及ぼさゞるやう、死を決して責を一身に負ふの覚悟を定め、事情を説明して妥当なる程度の解決を得た。明治政府の下に於ても、地方に藩政を存続せる間、父は国益御用の名を以て藩の為めに横浜に往来し、生糸の輸出等貿易上の事務を取扱つた。
 明治四年の廃藩置県により旧来の武士階級は一斉に禄と職を失つた。父は其時五十三歳であつたが、爾後全く世間から退隠して細き生計を立て、前代の遺民として固く自ら持した。愚痴も言はず、時事も論ぜず、只 至尊の下、四民平等の世の中になつたのだと云つて、従来の所謂百姓町人に対して直に態度を改め、対等の礼を以て接すると同時に、新時勢の顕官貴人に対して、故なく礼を厚くすることを※としなかつた。又藩政の下に於ては渉外関係に注意して居たにも拘らず、退隠後は西洋嫌ひで押し通し、出来るだけ洋風の新式品の使用を避けた。奇矯と云ふ程には至らなかつたが、聊か常流と異なる所があつた。それは時勢に対する態度を不言の裡に現したのであらう。私に残つて居る最も古い記憶は、旧城が兵営となつて其の通行が全く禁止される前日、父が私の手を引いて其処を歩き、御城内の見納めだと云つて感慨したことである。西郷戦争も私の古い記憶の一つだが、それは稍々後のことであつた。
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とりあえずここで切ります。
私は遥か昔の高校生の頃、電車で高崎駅を降り、かつての高崎城址・高崎連隊兵営跡の真ん中を通る道を、毎日自転車をギコギコ漕いで通学していましたので、深井英五の父の感慨も少しは理解できそうな感じがします。
「岡源別館」は知りませんでしたが、これは老舗の料亭で、今は廃業してしまっているとか。


>筆綾丸さん
>後鳥羽院というハンドルネーム

懐かしいですね。
ご引用の文章中、「上皇后」は語感からして珍妙で、ちょっと勘弁してほしいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Genealogy 2017/04/23(日) 17:21:04
私は数年前、他の掲示板で、後鳥羽院というハンドルネームを僭称していたことがあり、退位特例法には若干の関心があるのですが、「天皇退位 有識者会議の報告書全文」(4月22日付日経朝刊8面)を読んで、以下の記述に興味を覚えました。
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「上皇」には、なお院政をイメージするとの意見もあるが、退位後の天皇の称号として定着してきた歴史と、象徴・権威の二重性回避の観点を踏まえ、現行憲法の下において象徴天皇であった方を表す新たな称号として、「上皇」と称することが適当である。
なお、国際的にも、「上皇」の概念が正しく理解されるよう、適切な英訳が定められることが望ましい。(?の1の(1))

なお、「上皇后」という称号は、歴史上使用されたことがない称号であるため、この称号に込められた意義が国民に正しく理解されるよう努めていく必要がある。また、国際的にも、「上皇后」の概念が正しく理解されるよう、適切な英訳が定められることが望ましい。((?の1の(2))

これに加えて、「皇嗣」が皇位継承順位第一位の皇族を表すものであることについて国民の理解が深まるよう努めていく必要がある。併せて、国際的にもそのことが正しく理解されるよう、「皇嗣」の英訳について工夫を講じることが適当である。(?の1)
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http://www.kunaicho.go.jp/e-about/genealogy/koseizu.html
前二者について、ex-Emperor 及び ex-Empress (定冠詞は省略される)以外に適切な訳語があるとは思われないのですが、これでは日本独自の事情は反映できません。報告書の要望は無理な注文ではないか。三番目は、国内では皇太子ではなく皇嗣であるけれども、英訳は無冠詞の普通の Prince ではなくThe Crown Prince とするのがよかろう、ということですね。・・・いずれにせよ、宮内庁の英訳「Genealogy of the Imperial Family」の一部の呼称がどのように変更されるのか、待ちたいと思います。

https://www.shogi.or.jp/shogi-ch/
「藤井聡太四段 炎の七番勝負」の六局中四局を見ましたが、僭越ながら大変な才能であり、十代の名人(高校生名人?)が誕生するような気がしてきました。生きているうちに、羽生さん以上の才能を見ることはあるまいと思っていたのですが。なお、今期の名人戦は第二局まで進みましたが、素人にはなんともつまらない将棋で、退屈しました。
追記
最終局でも、学生服姿の中学生が羽生三冠を破りましたね。
コメント
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