学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「得意は無し、趣味は無し、主義は厭世、希望は寂滅」

2017-04-29 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月29日(土)12時03分18秒

前回投稿の引用文中に「激越の言動を以て熱信を表示する人々には共鳴し得なかつた」とあり、これは所謂「同志社リバイバル」への感想かと思ったら、時期的にちょっとずれますね。
「リバイバル」はキリスト教史において特殊な意味を与えられているので部外者には分かりにくい表現ですが、少し検索してみたところ、「同志社大学キリスト教文化センター」サイト内の同志社大学名誉教授・北垣宗治氏のエッセイ、「一八八〇年代前半の同志社英学校」に詳しい説明がありました。
北垣氏は池袋清風(1847-1900)という人物の日記を素材として、深井英五が入学する少し前の時期の同志社の様子を描いています。
その中でリバイバルに関係する部分を引用すると、

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同志社のリバイバル
 池袋の日記が貴重な記録であることはおわかりいただけたと思いますが、なかでも最も貴重であると考えられるのは、この一八八四年二月の終りから三月にかけて、同志社英学校で起こった顕著なリバイバル、信仰復興の事実を池袋が詳細に記述しているからです。皆さんは「リバイバル」といえば、リバイバル映画、あるいはリバイバル・ソングの事を考えられるかもしれませんが、本当のリバイバルというのは、人びとが聖霊に感じて信仰に目覚め、じっとしていることができなくなって、熱狂的に福音宣教に猪突猛進していくことを指します。キリスト教の歴史には世界の各地でしばしばこういうリバイバルが起こりました。【中略】
 同志社のリバイバルのことが池袋の日記に初めて登場するのは三月二日の記録からです。

http://www.christian-center.jp/dsweek/09sp/0604.html

ということで、この後、同志社で「人びとが聖霊に感じて信仰に目覚め、じっとしていることができなくなって、熱狂的に福音宣教に猪突猛進していく」様子が詳細に描かれるのですが、最初のうちは単なる興奮状態だったのがだんだん危険な雰囲気になり、

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 こうして池袋にも聖霊が下ったのでしたが、学校内は異常事態へと移っていきました。チャペルで夜通し祈る者、まだ聖霊を受けていないクラスメートに聖霊が下るようにと攻撃的に攻め立てる者、今ただちに学校を飛出して、伝道に出掛けようとする者が続出して、同志社英学校は大混乱に陥りました。新島校長は、地方伝道に出掛けるのは、春休みになるまで待つようにと説得しましたが、生徒たちは聞き入れません。とうとう妥協が成立し、二年生の海老名一郎、四年生の原忠美、邦語神学生の辻籌夫の三人が、代表ということで大阪に向けて出発し、それから三田、神戸、岡山、高梁、今治等を巡回することになりました。他方英語神学生の綱島佳吉と、五年生の木村恒夫は狂信的な言動をするようになりました。綱島の如きは「池袋清風!」と大声で呼び、「貴様は悪魔かそれとも聖霊か? おれはイエス・キリストだぞ」と言って睨みつけ、とたんに大声を上げて泣き出し、その場で倒れてしまう、といった出来事も起こりました。綱島はやがて回復しましたが、木村恒夫の方は精神を病み、新島邸に収容され、精神病院に入れられ、ついに七月四日に息を引き取りました。
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という事態にまで発展します。
深井英五が数え16歳で同志社に入学したのはリバイバルの二年後、1886年(明治19)なので、このような異常事態は終息していたはずですが、一部にはその名残もあったのでしょうね。

さて、深井英五の宗教的・思想的変遷をもう少し追ってみます。(p29以下)

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 右の心境の変化は同志社卒業の前年頃から卒業後の一二年に亙つて漸次に進展した。宗教と理性を調和せんことを期した所の思索は逆の結果を生じ、私の数年間心に懐きたる念願は破滅したのである。私は失望落胆せざるを得なかつた。新島先生の眷顧は私が基督教信者たりしことに基因したに違ひないから、先生に対して相済まぬと云ふ感が深刻であつた。然るに既に先生逝去の後であるから、報告して諒解を求むる由もない。私は実に甚だしく煩悶した。或は宗教の定義及び基督教の教理を微妙に解釈し、或は信仰と理性とを全然別個の範疇に属せしめ、心境の変化に拘らず依然として基督教信者たる名分を標榜すべき途も考へて見た。その例とすべきものも多くある。然しながら自己の信念に立脚せよと誨へられた所の先生は決して此の如き糊塗を嘉みせられないだらうと確信した。それで、普通学校入学のとき心中に予定せる進路を変じ、神学校に入ることを止めて同志社を去り、其後或る時、最早基督教信者と称し得ざることの諒解を郷里の所属教会に求めて立場を明かにした。
 同志社卒業後の私は当分明白なる目当なしに種々の経路を彷徨した。其間尚哲学上の思索を続けたが、主観論的傾向が極端に走り、真理及び人生価値の標準に就いて全然懐疑に陥つて仕舞つた。同時に当面の生計を如何にすべきやの問題にも心を労し、神経衰弱になるか、又は大脱線をするかも知れないやうな心境になつた。それが青年の危機たる二十三、四歳の時であつた。結城礼一郎氏が蘇峯先生古稀祝賀文集に発表した民友社金蘭簿中に私の名もあつて、指定項目の下に、得意は無し、趣味は無し、主義は厭世、希望は寂滅と書いてある。多分入社後間もなき頃のことで、少し茶目気分も交つたのであらうが、自棄に傾いた懊悩の心境が現はれて居る。其の間母に心配を掛けることを惧れて自戒もしたが、私を危機から救つた所の主因は、嘗て新島先生から誨へられた所の実践的人生観であつた。私は「仕事をしなければならぬ」と云ふ訓言を想起して之に邁進すべく決心したのである。仮令人生価値の規準は徹底的に判らなくとも、行住坐臥、一々理由を糺すの遑はない。現存する社会の常識と自己の直観とを調合し、環境の遭遇に応接して出来るだけの実践を期すべきのみと観念した。必ずしも方向を予定して焦慮することなく、広い意味の実行本位に立脚する。而して之と相並んで「世の中の為めになる」と云ふ訓言は固より私の心に浸みて渝らない。基督教の信仰に就いては新島先生の期待に背いたが、人生の心構へに就いて先生に負ふ所は広大である。平凡でもあり、又薄志とも云はれるだらうが、余り深く考へずに当面の実践に重きを置くと云ふのが、私の人生観として一応固まつた。更らに其の合理的根拠を求めんとして思索に還つたが、それは後年の事である。
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