投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月26日(水)11時12分21秒
郷土史的な関心からの投稿は最後にしますが、深井英五の母親の外祖父は市河寛斎(1749-1820)、伯父は市河米庵(1779-1858)だそうで、これはちょっとびっくりでした。(p6以下)
-------
母ゆひ子は同藩菅谷清嗣の女である。清嗣の父清成は藩儒として江戸の学界に出入し、藩政にも功があつた。母の外祖父には、一時昌平校の教授となり、後に江戸詩壇の牛耳を執りたる市河寛斎があり、寛斎の子にして母の伯父たる米庵は、殊に書道を以て諸侯の知遇を受け、頼山陽を白河楽翁公に紹介して、日本外史出版の為めに斡旋した。私の生れたのは、母が四十二歳の時であつた。家道衰微に向ひたる晩年の産児たるが故に、寧ろ其の亡きを望んだこともあると母は語つた。後に伊勢崎の中村氏に嫁した姉たい子は母に代つて私を保育したと云ふ。然しながら私の記憶に残る頃からは、母の愛育到らざるなく、私の為めに一身を犠牲にする心持であつたらしい。父が鉄の如く堅く固まりたるに反し、母は普通の感激性もあり、享楽趣味もあつた。父は、物欲を抑へ、心胆を練りて、貧に処するの道を私に訓へんとしたやうであるが、母は、貧しき中に慰安を工夫して、私の気分を出来るだけ快活ならしめんと試みたやうである。私は母の慈愛に感激すると同時に、実践の方向は父の流儀に従はねばならぬと思つた。母の愛も亦盲目ではなかつた。私が偏屈若しくは萎縮に陥らんことを懸念して、成るべく明るい方へ導かうとしたのであらう。私を匡す為めには、孔子様に代つて折檻すると云つて、読み掛けの論語の書巻を以て打つたこともある。
-------
市河寛斎について調べ始めたきっかけすら忘れていたのですが、7年前の投稿を見ると東島誠氏の『公共圏の歴史的創造』ですね。
「市河寛斎」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/418c4ad5607bde488dd4afe6584f7a83
「市河寛斎と蝉橋」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f2ca38d6d30d42353f15232fb3bbabc2
「市河寛斎の出生地」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f0ab68310805d11391ef239cde238fc
「柏木如亭」(筆綾丸さん)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/418c4ad5607bde488dd4afe6584f7a83
「市河寛斎と蝉橋」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f2ca38d6d30d42353f15232fb3bbabc2
「市河寛斎の出生地」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f0ab68310805d11391ef239cde238fc
「柏木如亭」(筆綾丸さん)
「南牧村と下仁田町」(Akiさん)
直系の子孫である英語学者の市河三喜(1886-1970)とその妻の晴子(1896-1943)も興味深い人物ですね。