学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「第1部 素晴らしかったあの頃─スターリンとナージャ」

2017-11-02 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月 2日(木)10時53分39秒

サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ氏の名前にはイタリア系っぽい響きがありますが、ウィキペディアを見ると、

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His father was Stephen Eric Sebag Montefiore and his brother is Hugh Sebag-Montefiore. They are descended from a line of wealthy Sephardi Jews who were diplomats and bankers all over Europe and who originated from Morocco and Italy. At the start of the 19th century, his great-great-uncle, Sir Moses Montefiore, was an international financier who worked with the Rothschild family and who became a philanthropist.

https://en.wikipedia.org/wiki/Simon_Sebag_Montefiore

ということで、父方の先祖はモロッコとイタリアに遡り、ロスチャイルドとも密接な関係を持つ富裕なユダヤ一族の人なんですね。
母方もユダヤ系ですが、

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His mother, Phyllis April Jaffé, comes from a Lithuanian Jewish family of scholars. Her parents fled the Russian Empire at the beginning of the 20th century. They bought tickets for New York City, but were cheated, being instead dropped off at Cork, Ireland. Due to the Limerick boycott in 1904 his grandfather Henry Jaffé left the country and moved to Newcastle, England.
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ということで、母親の両親はリトアニアに住んでいたんですね。
20世紀初頭、ロシア帝国の支配を逃れてニューヨークに行こうとしたものの、騙されてアイルランドのコークで降ろされてしまい、そこからイングランドのニューキャッスルに移動した訳ですね。
Limerick boycott は知りませんでしたが、Limerick は「五行詩」ではなくアイルランドの地名で、ここで一種のポグロムがあったということですね。

Limerick boycott
https://en.wikipedia.org/wiki/Limerick_boycott

さて、『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』は次のような文章で始まります。(p25以下)

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プロローグ
革命記念日の祝宴
一九三二年十一月八日

 一九三二年十一月八日、夕方の七時ごろ、ボリシェビキ党書記長スターリンの妻ナージャ・アリルーエワは、革命十五周年祝賀パーティーに備えて身づくろいをしていた。毎年の革命記念日の翌日、幹部たちは内輪のパーティーを開いて大騒ぎするのが恒例だった。面長の顔に茶色の目をした三十一歳のナージャは倫理観の強い真面目な女性だったが、繊細で傷つきやすい一面もあった。自分が「ボリシェビキにふさわしい質素な生活」をしていることが誇りで、普段は至って地味な装いだった。着古したスカート、無地のショール、四角い襟のブラウスという姿で、化粧はほとんどしなかった。しかし、今夜はさすがのナージャも装いを凝らしていた。スターリン夫婦の住まいは、十七世紀に建てられた二階建てのポテシュヌイ宮殿の中の陰気な一角にあったが、その一室で姉のアンナの方にくるりと向き直ったナージャは、赤いバラの刺繍をふんだんにあしらった黒のロングドレスを身にまとっていた。場違いなほどにファッショナブルなそのドレスはベルリン仕立てだった。いつもはさりげなく束ねて丸めただけの髪も、今夜は「最新流行の髪形」に仕上がっていた。遊び心からか、黒髪には真紅のティーローズの花が一輪挿してあった。
 パーティーには、首相のモロトフをはじめボリシェビキ党の有力者たちが妻を同伴して出席するのが恒例だった。モロトフの妻ポリーナは頭の切れる、すらっとした体つきの、なまめかしい女性でナージャとは親友の間柄だった。例年、パーティーの主催者を務めるのは国防人民委員のヴォロシーロフだったが、パーティーの会場となるヴォロシーロフの住所はポテシュヌイ宮殿とは小路をはさんでほんの数歩の距離にある細長い旧騎兵隊宿舎にあった。ボリシェビキのエリートたちは仲間内でたわいのないパーティーを開いてたのしむことがたびたびあったが、その種のパーティーでは有力者たちが女性をまじえてコサック風のダンスを踊り、最後には哀調をおびたグルジアの歌を歌って締めくくるのが決まりだった。しかし、この夜のパーティーはいつもと同じようには無事に終わらないであろう。
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「ナージャは倫理観の強い真面目な女性だったが、繊細で傷つきやすい一面もあった」とありますが、この後、約二百ページ続く「第1部 素晴らしかったあの頃─スターリンとナージャ」の随所に描かれたナージャ・アリルーエワの過去と当時の行動を見ると、精神的に少し病んでいたような印象を受けます。
死亡当時の描写の引用は省略しますが、やはり自殺だった可能性が高いようですね。
コメント
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