学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「少年少女世界の名作 レーニン」(その3)

2017-11-11 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月11日(土)10時59分42秒

下斗米伸夫氏がどこかで「渓内先生」と書いていたので、下斗米氏は渓内謙氏の弟子筋にあたるのでしょうが、私は遥か昔の学生時代、渓内謙氏の講義を聴講したことがあります。

渓内謙(1923-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%93%E5%86%85%E8%AC%99

といっても、別にソ連に特別な興味があった訳ではなく、割と簡単に単位を取れそう、くらいの軽い気持ちで、階段教室の後ろの方で時々居眠りしながら聞いていただけなのですが、当時、私が渓内氏の講義から漠然と受けた印象は、レーニンは立派だったけどスターリンがソ連の方向を歪めてしまった、みたいな感じでした。
ま、そこまで乱暴に要約すると今は亡き渓内先生も怒るかもしれませんが、ソ連崩壊前はレーニンの活動の実態について史料的な制約が大きくて、レーニンとスターリンの関係は専門家でも明確には把握できていなかったはずですね。
フルシチョフによるスターリン批判の後でも、レーニンまで否定するとソ連の体制が最初から全然ダメだったという話になってしまいますから、レーニンのあまり芳しくない行動についての史料はずっと隠されていた訳ですね。
そうした史料がソ連崩壊後、公開されるようになって、結局、スターリンはレーニンを否定してソ連を誤った方向に導いたのではなく、仮借なき政治的暴力の行使においても、スターリンこそがレーニンの最も正統的な後継者であることが、少なくとも学者の世界では争えなくなってしまった、というのが現状なんでしょうね。
ま、結論は既に出ているのですが、そのあたりの事情を具体的に見てみたいと思って、今はダンコース女史の『レーニンとは何だったか』を読んでいるところです。

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エレーヌ・カレール=ダンコース『レーニンとは何だったか』

『崩壊した帝国』で、ソ連崩壊を世界に先駆け十余年前に予言した著者が、崩壊後の新資料を駆使して〈レーニン〉という最後の神話を暴き、「革命」の幻想に翻弄された20世紀を問い直す。ロシア革命を“簒奪”し、革命を“継続”する「ソ連」というシステムを考案したレーニンの政治的天才とは何だったのか?
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=765

さて、息抜きも兼ねて読み始めた深田良「レーニン」ですが、これは意外に面白いですね。
もう少し引用してみます。(p151以下)

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(二)レーニンのおいたち

 レーニンの本名は、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフという長い名まえで、ウォロージャは愛称です。
 また、ロシア革命を起こしたレーニンですから、純粋なロシア人と思われるかもしれませんが、レーニンにはロシア人の血すじはまざっていないようです。
 それは、レーニンの父方の祖母が、ボルガ川のほとりを遊牧していた部族チュバシ人の血を受けていたからのようです。
 そして母方の祖父はドイツ系で、祖母はスウェーデン系の血すじを、ひいているといわれています。
 これらのことは、レーニンがロシアの革命家というより、いまでは世界の大革命家とされているのに、なんらかの意味があるように思われます。
 このように、異民族の血すじをもつ偉大な革命家レーニンは、いまから百年ほどまえの一八七〇年四月二十二日(旧暦四月十日)に、ボルガ沿岸のシルビンスクで生まれました。─現在では、この地方はレーニンの功績をたたえる意味で、かれの名まえをとり、ウリヤーノフ州の主都、ウリヤーノフスクとなっています。
 シルビンスクは、人口三万人ほどの小さな都市でしたが、静かでおだやかなボルガ沿岸地方の、商業の中心地でした。レーニンが生まれたころは、鉄道はまだ敷かれていません。乗り物は馬車を利用するだけで、いちばん近い駅まで、百六十キロもはなれていたのですから、ずいぶん不便なところでした
 そのころの首都、ペテルブルク(今のレニングラード)からは千五百キロ、モスクワからは、九百キロもはなれていました。
 しかし、ゆるやかなボルガ川の流れに沿って、右の岸は高い山やまが連らなり、その山の斜面は、緑の木ぎと、甘いかおりをはこぶ果樹園におおわれ、左の岸は、かぎりなく広がる平野が見わたせました。
 シルビンスクの人びとは、ロシアでいちばん美しい町だと、誇りに思っていました。
 冬のあいだ氷にとざされていたボルガ川も、氷が割れる音とともに春が近づき、汽船が通れるようになります。すると町のはとばは、息をふきかえし活気をおび、汽笛が鳴り響きます。
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「レーニンの父方の祖母が、ボルガ川のほとりを遊牧していた部族チュバシ人の血を受けていた」としても、父方の祖父はロシア人ですから、「レーニンにはロシア人の血すじはまざっていないようです」は明らかな誤りですね。
ま、それはともかく、この後、シルビンスクの紹介がもう少し続きますが、いったん切ります。
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「少年少女世界の名作 レーニン」(その2)

2017-11-11 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月11日(土)09時54分51秒

ウォロージャが「三頭立ての張り子の馬のついた、そりのおもちゃ」を持ってどこかへ行った後、「頭が、人一倍大きく、いつもかけだしては頭からひっくりかえり、そのたびに大声で泣き叫」び、「ことに無器用で、満三歳になるまで、満足に歩くことのできなかったウォロージャ」がやっと歩けるようになったときの感動的な話が続きます。
そして、いつまでもウォロージャが戻って来ないので大騒ぎになり、

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 そのうち、兄のアレクサンドルの、
「なんだ、こんなところにいるよ。」
という声で、みなが集まっていきますと、とびらのうしろにかくれるようにして、ウォロージャがなにかしきりにやっています。
 それは、いまうばから贈られたばかりの三頭立ての馬の足を、全部もぎとっているのです。
「まあ、この子は・・・。」
 母のマリアは、大きな目をあきれたようにあけて、ウォロージャをじっと見つめました。かの女は、子どもをしかるとき、けっして大声を出したり、感情的になったりしません。しずかにじぶん自身で悪いことをしたことを、悟るように、何度もいい聞かせていました。
 けれども、物をこわすことに、興味を持っているウォロージャの、いたずらとらんぼうをとめることは、なかなかできませんでした。子供たちのうちで、一番手のやけるむすこでした。
 このようにレーニンの幼児期は、やんちゃで、いたずらっ子だったのです。
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という展開になります。(p150以下)
スターリンの場合、靴職人の父親がアルコール依存症になって理由もなく息子を殴りつける崩壊家庭に育ち、また地域の環境もサイモン・セバーグ・モンテフィオーリがマフィアを産んだシシリー島に喩えるような暴力的風土だったので、まあ、血に飢えた陰謀家に成長するのも不思議ではないのですが、レーニンはスターリンとは対照的に、経済的にも知的にも恵まれた良家に育ったお坊ちゃんで、周囲も温和な風土なのに、何であんなに狂暴な人間になってしまったのか、本当に謎です。
深田良氏は全く出典を示さないので、この優しい乳母からプレゼントされたばかりの馬のおもちゃをバラバラに解体するという事件が事実なのかもわかりませんが、レーニンの将来を暗示するような、けっこう不吉な、禍々しいエピソードではありますね。
栴檀は双葉より芳しいというか何というか。
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