投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月27日(月)20時31分1秒
続きです。(p88以下)
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ここに「小坂禅尼の遺命に任せて」とある。定有と釼阿との間では自明なので事情は略されてしまっているが、「小坂禅尼の遺言で、(具親母は真乗院に)扶持されている」ということなのであろう。小坂禅尼とは村上源氏嫡流の久我家の人で、徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基の姉である。禅尼は多くの荘園を譲られて、下醍醐の勝倶胝院のパトロンでもあり(この寺はやはりとはずがたりに登場する。作者が後宮から出奔して、秘密の出産を遂げた尼寺である)、醍醐寺・仁和寺など東密系寺院に顔が利いたのであろう。そこで早く寡婦となった同じ村上源氏一門の具親母を憐れんでか、真乗院に寄寓させたのであろう。なお小坂は例の祇園社の門前で(66頁)、禅尼はここに住んでいたのである。地縁によって貞顕は小坂禅尼と知己であった可能性が高く、ゆえにその遺命である旨を持ち出したのであろう。ともかく顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆となったことは確かなようである。
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堀川具親の母親が数えで21歳くらいの息子と同年齢の真乗院顕助と性的関係にあって同居しているというだけでも「醜聞」であるのに、その関係は小坂禅尼なる「村上源氏嫡流の久我家の人」の遺言に基づいて形成されたもので、しかも具親は母親とそんな「醜聞」っぽい関係にある顕助と仲良しであり、「顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆」なのだそうですが、若干微妙な感じが漂いますね。
ま、これは釼阿宛て定有書状の「一躰」その他の解釈の問題なので深入りせず、というか私には深入りする能力がないのですが、私にとって具親・具親母・顕助の関係以上に奇妙なのは、小川氏が『とはずがたり』の「作者が後宮から出奔して、〔下醍醐の勝倶胝院で〕秘密の出産を遂げた」ことを小説の上の出来事ではなく、事実と考えておられる点ですね。
私は『とはずがたり』全体を自伝風小説と考えているのですが、その中でも「有明の月」関係は特に創作であることが明らかな部分と思っています。
しかし、小川氏の認識は私と正反対のようです。
ま、これも追々検討して行きたいと思います。
なお、小坂禅尼は「徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基の姉」なので、『とはずがたり』作者の後深草院二条の従姉妹ですね。
「後久我太政大臣」久我通光(1187-1248)の息子に通忠(1216-1251)、雅忠(1228-1272)がいて、通忠が通基(1240-1308)と久我禅尼の父、雅忠が後深草院二条(1258-?)の父という関係です。
小坂禅尼について詳しく知りたい人は岡野友彦氏の『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002)などを見て下さい。
『中世久我家と久我家領荘園』
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/1699
そして兼好と堀川家の関係ですが、
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定有は、この話が成就した暁には、堀川家が代々権利を有している陸奥国玉造郡の国衙領の年貢を称名寺に寄進するとか、具親を称名寺の壇那の一人に迎えるとか、あれこれと好条件を出して、釼阿を動かそうと必死である。貞顕の一家はそれほどに京都でも注目されていたのである。首尾はどうなったかは分からないが、ここで結ばれた縁によって、かねて貞顕・顕助に随従していた兼好が堀川家にも出入りするようになったと考えられる。兼好もこの交渉に一役買っていたのかも知れない。これ以前、兼好が堀川家と関係した確実な証拠はない。二百三十八段第二条は、皇太子尊治親王の御所に伺候する具親のもとに「用ありて参りたりしに」、具親が論語の「悪紫之奪朱也」という句の所在する巻をさがしあぐねていて、見事その役に立ったエピソードである。これは尊治の即位前、つまり文保二年(一三一八)二月以前のことであるから、兼好は若き具親にすぐに気に入られたのであろう。
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ということで(p88以下)、確かにこの話は「当時の公武融合の実例として興味深い」ですね。
金沢貞顕が堀川家に接近しようとしたのではなく、逆に堀川家の方が具守の娘「女御代琮子」の名義で有する家産(播磨国印南荘・筑前国楠橋荘以下の領家職)を確保するために武家有力者の後立てを求めて金沢貞顕に擦り寄った、というのが基本的構図で、兼好は金沢貞顕側の人間として堀川家に接触し、縁故を得た訳ですね。
続きです。(p88以下)
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ここに「小坂禅尼の遺命に任せて」とある。定有と釼阿との間では自明なので事情は略されてしまっているが、「小坂禅尼の遺言で、(具親母は真乗院に)扶持されている」ということなのであろう。小坂禅尼とは村上源氏嫡流の久我家の人で、徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基の姉である。禅尼は多くの荘園を譲られて、下醍醐の勝倶胝院のパトロンでもあり(この寺はやはりとはずがたりに登場する。作者が後宮から出奔して、秘密の出産を遂げた尼寺である)、醍醐寺・仁和寺など東密系寺院に顔が利いたのであろう。そこで早く寡婦となった同じ村上源氏一門の具親母を憐れんでか、真乗院に寄寓させたのであろう。なお小坂は例の祇園社の門前で(66頁)、禅尼はここに住んでいたのである。地縁によって貞顕は小坂禅尼と知己であった可能性が高く、ゆえにその遺命である旨を持ち出したのであろう。ともかく顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆となったことは確かなようである。
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堀川具親の母親が数えで21歳くらいの息子と同年齢の真乗院顕助と性的関係にあって同居しているというだけでも「醜聞」であるのに、その関係は小坂禅尼なる「村上源氏嫡流の久我家の人」の遺言に基づいて形成されたもので、しかも具親は母親とそんな「醜聞」っぽい関係にある顕助と仲良しであり、「顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆」なのだそうですが、若干微妙な感じが漂いますね。
ま、これは釼阿宛て定有書状の「一躰」その他の解釈の問題なので深入りせず、というか私には深入りする能力がないのですが、私にとって具親・具親母・顕助の関係以上に奇妙なのは、小川氏が『とはずがたり』の「作者が後宮から出奔して、〔下醍醐の勝倶胝院で〕秘密の出産を遂げた」ことを小説の上の出来事ではなく、事実と考えておられる点ですね。
私は『とはずがたり』全体を自伝風小説と考えているのですが、その中でも「有明の月」関係は特に創作であることが明らかな部分と思っています。
しかし、小川氏の認識は私と正反対のようです。
ま、これも追々検討して行きたいと思います。
なお、小坂禅尼は「徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基の姉」なので、『とはずがたり』作者の後深草院二条の従姉妹ですね。
「後久我太政大臣」久我通光(1187-1248)の息子に通忠(1216-1251)、雅忠(1228-1272)がいて、通忠が通基(1240-1308)と久我禅尼の父、雅忠が後深草院二条(1258-?)の父という関係です。
小坂禅尼について詳しく知りたい人は岡野友彦氏の『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002)などを見て下さい。
『中世久我家と久我家領荘園』
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/1699
そして兼好と堀川家の関係ですが、
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定有は、この話が成就した暁には、堀川家が代々権利を有している陸奥国玉造郡の国衙領の年貢を称名寺に寄進するとか、具親を称名寺の壇那の一人に迎えるとか、あれこれと好条件を出して、釼阿を動かそうと必死である。貞顕の一家はそれほどに京都でも注目されていたのである。首尾はどうなったかは分からないが、ここで結ばれた縁によって、かねて貞顕・顕助に随従していた兼好が堀川家にも出入りするようになったと考えられる。兼好もこの交渉に一役買っていたのかも知れない。これ以前、兼好が堀川家と関係した確実な証拠はない。二百三十八段第二条は、皇太子尊治親王の御所に伺候する具親のもとに「用ありて参りたりしに」、具親が論語の「悪紫之奪朱也」という句の所在する巻をさがしあぐねていて、見事その役に立ったエピソードである。これは尊治の即位前、つまり文保二年(一三一八)二月以前のことであるから、兼好は若き具親にすぐに気に入られたのであろう。
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ということで(p88以下)、確かにこの話は「当時の公武融合の実例として興味深い」ですね。
金沢貞顕が堀川家に接近しようとしたのではなく、逆に堀川家の方が具守の娘「女御代琮子」の名義で有する家産(播磨国印南荘・筑前国楠橋荘以下の領家職)を確保するために武家有力者の後立てを求めて金沢貞顕に擦り寄った、というのが基本的構図で、兼好は金沢貞顕側の人間として堀川家に接触し、縁故を得た訳ですね。