学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

堀川具親の母と真乗院顕助の「一躰」(その2)

2017-11-27 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月27日(月)20時31分1秒

続きです。(p88以下)

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 ここに「小坂禅尼の遺命に任せて」とある。定有と釼阿との間では自明なので事情は略されてしまっているが、「小坂禅尼の遺言で、(具親母は真乗院に)扶持されている」ということなのであろう。小坂禅尼とは村上源氏嫡流の久我家の人で、徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基の姉である。禅尼は多くの荘園を譲られて、下醍醐の勝倶胝院のパトロンでもあり(この寺はやはりとはずがたりに登場する。作者が後宮から出奔して、秘密の出産を遂げた尼寺である)、醍醐寺・仁和寺など東密系寺院に顔が利いたのであろう。そこで早く寡婦となった同じ村上源氏一門の具親母を憐れんでか、真乗院に寄寓させたのであろう。なお小坂は例の祇園社の門前で(66頁)、禅尼はここに住んでいたのである。地縁によって貞顕は小坂禅尼と知己であった可能性が高く、ゆえにその遺命である旨を持ち出したのであろう。ともかく顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆となったことは確かなようである。
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堀川具親の母親が数えで21歳くらいの息子と同年齢の真乗院顕助と性的関係にあって同居しているというだけでも「醜聞」であるのに、その関係は小坂禅尼なる「村上源氏嫡流の久我家の人」の遺言に基づいて形成されたもので、しかも具親は母親とそんな「醜聞」っぽい関係にある顕助と仲良しであり、「顕助と具親との交友が、金沢流北条氏と堀川家との最初の絆」なのだそうですが、若干微妙な感じが漂いますね。
ま、これは釼阿宛て定有書状の「一躰」その他の解釈の問題なので深入りせず、というか私には深入りする能力がないのですが、私にとって具親・具親母・顕助の関係以上に奇妙なのは、小川氏が『とはずがたり』の「作者が後宮から出奔して、〔下醍醐の勝倶胝院で〕秘密の出産を遂げた」ことを小説の上の出来事ではなく、事実と考えておられる点ですね。
私は『とはずがたり』全体を自伝風小説と考えているのですが、その中でも「有明の月」関係は特に創作であることが明らかな部分と思っています。
しかし、小川氏の認識は私と正反対のようです。
ま、これも追々検討して行きたいと思います。
なお、小坂禅尼は「徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基の姉」なので、『とはずがたり』作者の後深草院二条の従姉妹ですね。
「後久我太政大臣」久我通光(1187-1248)の息子に通忠(1216-1251)、雅忠(1228-1272)がいて、通忠が通基(1240-1308)と久我禅尼の父、雅忠が後深草院二条(1258-?)の父という関係です。
小坂禅尼について詳しく知りたい人は岡野友彦氏の『中世久我家と久我家領荘園』(続群書類従完成会、2002)などを見て下さい。

『中世久我家と久我家領荘園』
https://catalogue.books-yagi.co.jp/books/view/1699

そして兼好と堀川家の関係ですが、

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 定有は、この話が成就した暁には、堀川家が代々権利を有している陸奥国玉造郡の国衙領の年貢を称名寺に寄進するとか、具親を称名寺の壇那の一人に迎えるとか、あれこれと好条件を出して、釼阿を動かそうと必死である。貞顕の一家はそれほどに京都でも注目されていたのである。首尾はどうなったかは分からないが、ここで結ばれた縁によって、かねて貞顕・顕助に随従していた兼好が堀川家にも出入りするようになったと考えられる。兼好もこの交渉に一役買っていたのかも知れない。これ以前、兼好が堀川家と関係した確実な証拠はない。二百三十八段第二条は、皇太子尊治親王の御所に伺候する具親のもとに「用ありて参りたりしに」、具親が論語の「悪紫之奪朱也」という句の所在する巻をさがしあぐねていて、見事その役に立ったエピソードである。これは尊治の即位前、つまり文保二年(一三一八)二月以前のことであるから、兼好は若き具親にすぐに気に入られたのであろう。
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ということで(p88以下)、確かにこの話は「当時の公武融合の実例として興味深い」ですね。
金沢貞顕が堀川家に接近しようとしたのではなく、逆に堀川家の方が具守の娘「女御代琮子」の名義で有する家産(播磨国印南荘・筑前国楠橋荘以下の領家職)を確保するために武家有力者の後立てを求めて金沢貞顕に擦り寄った、というのが基本的構図で、兼好は金沢貞顕側の人間として堀川家に接触し、縁故を得た訳ですね。
コメント
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堀川具親の母と真乗院顕助の「一躰」(その1)

2017-11-27 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月27日(月)12時27分45秒

『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』で私が若干の疑問を感じたのは村上源氏・堀川家に関する部分です。
『徒然草』と『兼好歌集』には堀川家関係者が頻りに登場しており、従来は兼好は堀川家に「家司」として仕えていたのであろうと言われていた訳ですが、小川氏は次のように述べます。(p85以下)

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 堀川家に迎えられた貞顕の娘

 通説では兼好の主家とされてきた公家、堀川家との縁も、実は兼好出家後の正和年間後半、真乗院と金沢貞顕を介して結ばれたと考えられる。少し煩瑣となるが、当時の公武融合の実例としても興味深いので、紹介しておきたい(図版3-5)。
 貞顕は正和三年(一三一四)十一月に六波羅探題北方の職を解かれて東下した。その直前、定有なる人物が、貞顕の女子一人を堀川家に迎えることを称名寺の釼阿に持ち掛けた。定有は醍醐寺の僧らしい。堀川家と貞顕は直接に接触せず、それぞれの代理人の定有と釼阿とが交渉しているのである。
 当時の堀川家は、具守(百七段に登場する「堀川内大臣殿」)の晩年に当たり、早世した嫡男具俊の息、権中納言具親を養子にして家嫡に定めていた。問題は具守の女で具親には伯母であり姉となる琮子の身上であった。彼女は永仁六年(一二九八)十月、後伏見天皇の大嘗会御禊で女御代を務めた。女御代はそのまま入内することが多いが、後伏見は当時十一歳、かつ三年後に退位したので、琮子は入内の機会を失って実家に止まっていた。しかし一度は女御に擬されたので、朝廷から皇室領荘園の播磨国印南荘・筑前国楠橋荘以下の領家職が与えらえた。堀川家では未婚である琮子の将来を鑑み、その猶子(名目上の養子)となる、後見のしっかりした女性を捜していたのである。釼阿宛ての定有書状を引用する(金文一六六三号)。

  抑も粗ら申さしめ候、彼の御方〔貞顕〕の御捨子一人両人の間、猶子の事、御秘計に預かり候
  の条、何様たるべく候や、かの黄門〔具親〕の姉女御代〔琮子〕、一子無く候、又黄門母儀も此の卿〔具親〕の外、
  他子無く候、その上彼の卿母儀は、真乗院〔顕助〕と一躰の条、定めて御存知候か、小坂禅尼の
  遺命に任せて、扶持に預かり候、仍て真乗院と彼卿と当時内外無く申し奉り候、かた
  がた以てその寄せ候か、御女子多くおはしますの由承り候、其の中定めて御捨子おはし
  ます□□猶々御和讒候はゞ喜び存じ候、

 貞顕には娘がたくさんいらっしゃるので、きっと「御捨子」がおありではないでしょうか、「和讒(働きかけ、斡旋の意)」していただければありがたいです、とかなり不躾な依頼である。このやりとりからすると、それまで堀川家は金沢流北条氏とまったく接点を持たなかったらしい。そこで真乗院顕助と具親母は「一躰」であり、だから顕如と具親もまた隔てなく交際していると告げて、貞顕の警戒を解こうとしたのである。
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兼好の生年は明確ではありませんが、弘安六年(1283)という江戸時代からの説があって、小川氏も「不自然でなく、当面この説に従ってよいであろう」と言われています。(p54)
顕助(1294-1330)は金沢貞顕(1278-1333)が一七歳のときに生れた庶長子で、嘉元三年(1305)、仁和寺真乗院に迎えられ、八代目院主となります。(p83)
釼阿はかなり年長で、弘長元年(1261)生まれですね。
さて、『徒然草』第238段の自賛七箇条に登場し、兼好と非常に親しかったことが伺われる堀川具親は顕助と同年の生まれなので、「一躰」(いったい)云々はなかなか意味深長です。

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 「一躰(一対)」とは婚姻関係を意味する語である。正和三年ならば、具親は顕助と同年で二十一歳、かりにその母が三十八歳くらいとしても、顕助と「一躰」というのは醜聞であろう。釼阿に「定めて御存知候か(きっともう御存知でしょうが)」というのは、ほんらい隠すようなことなのだけれど、というニュアンスを含む。しかし当時の高僧が女性を養うことは珍しくなく、とはずがたりの「有明の月」も、作者とまさに「一躰」になる(「有明の月」も仁和寺の高僧ということになっていた)。少なくとも顕助と具親母は生活をともにしていたのである。
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ということで(p87以下)、いささか唐突に『とはずがたり』が登場するのですが、この後に続く部分も含め、小川氏は『とはずがたり』が自伝風小説ではなく、事実の記録と考えておられるようですね。
長くなったので、いったん切ります。

>筆綾丸さん
>以下の記述などは、今後の兼好像の基準になるのでしょうか。

小川説が学説史上の画期となるのは間違いないでしょうね。
金沢文庫古文書の解釈は私のような素人には近づけない世界なので、歴史学者の評価を聞きたいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

卜部四郎太郎兼好 2017/11/25(土) 19:11:26
小太郎さん
ご紹介の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』を第二章まで読んでみました。何かを云々できる知識はありませんが、以下の記述などは、今後の兼好像の基準になるのでしょうか。
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 卜部兼好は仮名を四郎太郎という。前章で一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定したが、そこから伊勢国守護であった金沢流北条氏のもとに赴いた。亡父は関東で活動し、称名寺長老となる以前の明忍房釼阿とも親しく交流し、正安元年(1299)に没して同寺に葬られた。父の没後、母は鎌倉を離れ上洛したか。しかし姉は留まり、鎌倉の小町に住んだ。倉栖兼雄の室となった可能性がある。兼好は母に従ったものの、嘉元三年(1305)夏以前、恐らくこの姉を頼って再び下向した。そして母の指示を受け、施主として父の七回忌を称名寺で修した。さらに延慶元年(1308)十月にも鎌倉・金沢に滞在し、翌月上洛し釼阿から貞顕への書状を託された。また同じ頃、恐らくは貞顕の意を奉じて、京都から釼阿への書状を執筆し発送した。(53頁~)
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明日から小旅行に出るので、次回の投稿は一週間後です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E4%BA%94%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
https://www.youtube.com/watch?v=68UpSPzdBZY
これはスターリン賞を受賞したとのことですが、佳い曲ですね。
コメント
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