学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

網野善彦を探して(その7)─「父は倒産し、送金はゼロとなり」(by 犬丸義一)

2019-01-18 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月18日(金)11時45分17秒

続きです。(p254)

-------
 民主主義科学協会や歴史学研究会の研究会には、出来るだけ参加した。帯刀貞代さんに会ったが、その点については、「私と女性史」(『総合女性史研究』一九号)に書いたので省略する。 夏休みには、農村工作隊に行った。埼玉県鶴ヶ島村とその隣村である。国鉄などの行政整理反対闘争など労働者の闘争が盛り上がるが、農村がおくれているので、工作隊を派遣して盛り上げるというのである。農学部の針ヶ谷明氏が隊長で六名で、半分が国史だった。約三週間いて村長の不正摘発で村民大会を開いたりしたが、三鷹事件がおこって労働者の闘争は不発に終わった。しかし、私には、農民を直接知り、近現代史をやらなければならない、古代や中世は迂遠だ、という思いがうまれた。それでも、工作隊から帰って、石母田論文のノートをとっている。決定的ショックは、五〇年一月のコミンフォルムの野坂批判であり、五〇年問題だった(『日本共産党の七十年』参照)。
-------

「農村工作隊」は1949年夏の出来事で、後の「山村工作隊」とは異なる話ですね。
「農学部の針ヶ谷明氏」とありますが、正しくは「針谷明」で、「国際派」の解体後、「常東農民運動」に加わり、「常東農民運動史の一考察」(上)(中)(下)(『歴史評論』303~305号、1975)という論文を書いた人物ですね。
以上で「三 東大国史学科入学の頃」は終わり、次の節に入ります。(p255以下)

-------
  四 コミンフォルム論評下の学生運動のなかで

 東大学生細胞は、意見書を出し、「五十分裂」では、「反主流派、宮本派、国際派」ということになる。戦略論争が盛んになり、その観点から戦後の改革の評価が問題となり、現代史への関心が強くなり、前近代史をやめるのが決定的になる。
 独占資本の復活・強化は中小企業の破産をうみ、父は倒産し、送金はゼロとなり、五〇年四月から東大生活協同組合の学生委員となり、生協に勤務することになり、学生委員手当て五千円で生活することになり、細胞は文学部・L班から生協・C班へと転籍する。五月五日、東京都委員会から解散を命じられが、反対ということで「独立共産党」ということになる。この東大細胞史については、『一・九会文集』に譲るほかないが、六月六日、共産党中央の政治追放、六月二五日には朝鮮戦争が開始され、八月三一日~九月一日には大阪で全国統一委員会が結成され、一〇月には、全学連のレッド・パージ反対闘争が展開され、大量処分を出しながらも、南原繁学長らの反対もあって大学でのパージ反対に一応成功する。丸山眞男氏まで「パージ対象」の噂が流れたのである。カンパを安東仁兵衛がもらっていた。「激動の時代」だった。スターリン崇拝の時代であり、朝鮮戦争は米帝国主義の指導下の南朝鮮の一方的侵略という認識でしかなかった。朝鮮の戦局に振りまわされた。
 一〇月闘争ののちに、学生運動の退潮期がくるが、そこに起こったのが、「戸塚・高沢・不破査問・リンチ事件」である。二月中旬の大雪の日、東大細胞のキャップの戸塚秀雄、指導部の高沢寅男、不破哲三を、「スパイ」として監禁・査問した。
-------

いったんここで切ります。
これだけ読んだのでは何のことか全然分からないと思いますが、犬丸自身も関与した日本共産党中央委員会編『日本共産党の七十年』全三冊(上・下・党史年表)(新日本出版社、1994)には共産党側からの公式の説明が書かれていて、犬丸もそれを前提としてこの文章を書いている訳ですね。
ま、批判的な人々からは『日本共産党の七十年』は「宮本党史」などと呼ばれていますが、執筆者がもっとも苦労したのは、おそらく戦前の宮本顕治・袴田里見によるスパイリンチ事件と、この「五〇年問題」の部分でしょうね。
なお、『一・九会文集』は「戸塚・高沢・不破査問・リンチ事件」に関係するので、次の投稿で説明します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

網野善彦を探して(その6)─「この高揚の中で、気分の高揚があり」(by 犬丸義一)

2019-01-18 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月18日(金)09時41分0秒

ここから先は部分引用ではなく、全文を丁寧に見て行きます。(p253以下)

-------
三 東大国史学科入学の頃

 第一志望・西洋史、第二志望・国史、第三志望・東洋史ということで、受験したが、語学が悪くて西洋史は落ち、国史に合格し、浪人する決心がつかず、国史に入学した。一九四九年四月である。
 国史学科に入ってみると、坂本太郎、岩生成一の両教授、宝月圭吾助教授、井上光貞助手がスタッフでマルクス主義史家はいなかったから、頼りにしたのは、大学院生、東大歴史学研究会の人々であった。これが、新入生歓迎集会を開いてくれ、鈴木正四氏の民主主義革命の話を聞いた。さすが東京と感激した。文学部自治会が自主講座を開いていて、松本新八郎氏の封建革命の講義に出た。東大歴研は、小研究会をつくっていて、私は、古文書を読む会と近代史研に参加した。前者は『奈良遺文』の読書会であり、後者は遠山茂樹氏指導の平野義太郎『日本資本主義社会の機構』の読書会であった。この東大歴研の指導者は、青村真明、藤原彰、網野善彦、下山三郎、荒井信一、竹内幹敏氏らであった。特に影響をうけたのは、藤原、網野氏だった。網野氏には、石母田氏宅につれていってもらったが、著作集の月報に書いたので省略するが、近現代史をやれ、といわれ、前近代から近現代に移る契機になった。五月祭で行った同会の「第二次世界大戦と日本」の展示会は、私にとってカルチュア・ショックだった。数十人に及ぶ学部・学科横断的準備であり、交流だった。今でもあの熱気は忘れられない。当時封切られた映画・山本薩夫監督の「戦争と平和」の主題歌の合唱などを含む学生らしいイベントであった。展示の準備と説明は、勉強の必要を痛感させられた。
-------

いったんここで切ります。
犬丸が「影響をうけた」藤原と網野は、犬丸が共産党に入党するに際しての推薦人でもありますね。
藤原は1922年生まれで犬丸より六歳上ですが、陸軍士官学校卒で軍隊での生活が長く、東大入学は1946年と犬丸の三年前です。

藤原彰(1922-2003)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BD%B0
「運動も結構だが勉強もして下さい」(by 坂本太郎)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06ac5441a8971a3ada912df93428d77f

-------
 同時に影響を受けたのは学生運動の高揚だった。先の五月祭は、大学法案反対の学生のゼネストの最中に開かれたのであった。四月の入学式に自治会委員長挨拶は、女性・佐藤=藤原※子さんがおこなったのに驚かされた。最初の学生大会で東大病院看護婦寮の芙蓉寮のハンストの応援デモが提起され、参加し、大学管理法反対ストが挙行され、処分が出、処分反対無期限スト、五・四デモから五・三〇東京都公安条例反対デモなどがあり、この高揚の中で、気分の高揚があり、共産党に五月末に平和革命というので入党する。私の四九年入学組は、十六人中九人に達していた。高揚ぶりがわかるだろう。東大新聞の調査で、政党指示の第一位が共産党という時代であった。(現在は私一人のようである。)この学生ストの取材で『社会評論』記者の肩書きで井上清さんが来て、話し合ったのが同氏への最初の出会いだった。 講師に遠山茂樹さんがきていて、この講義には毎回出て、ノートが残っているが、その想い出は、著作集の月報に書いたから省略する。林健太郎「ドイツ革命史」、高橋幸一郎「フランス革命史」などの革命名の講義に出て単位をとった。
-------

「この高揚の中で、気分の高揚があり、共産党に五月末に平和革命というので入党する」も文章が変ですが、暴力革命に賛同して共産党に入ったのではなく、当時の野坂参三の平和革命路線を正しいと思って入党した、ということなんでしょうね。
「政党指示の第一位が共産党という時代であった」の「指示」は「支持」の誤字ですね。
「現在は私一人のようである」は、「四九年入学組」で共産党に入った「十六人中九人」のうち、八人が離党して、未だに党に残っているのは「私一人」という意味でしょうか。
「講師に遠山茂樹さんがきていて」も唐突ですが、後続の文章から判断すると、これは文学部自治会の自主講座とか東大歴研の小研究会・読書会などではなく、文学部の正規の講座の話なのでしょうね。
できれば段落を変えてほしいところです。

井上清(1913-2001)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%B8%85_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AE%B6)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする