学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

犬丸義一・中国へ行く(その2)

2019-01-29 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月29日(火)21時56分23秒

続きです。(p263)

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 私は結核になり、国際派は袴田氏に随行した秋山良照氏と二人だけだったので圧迫感と孤立感が強く強度のノイローゼになって、入院した。五四年一二月の二五日前後に、河田賢治氏が副校長として着任し、着任講演で、極左冒険主義から絶縁宣言を行い、その晩から眠れるようになった。『歴史評論』は入っていたが、他の歴史雑誌はなく、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東等の古典を読むほかはなかった。中国人は日本語の上手な人ばかりで、講習会はやられたが、何とか読めるようになっただけで会話は駄目だった。
 これは「北京機関」の一部で、その総括は『日本共産党の七十年』上(二四〇-二五八)に記述されている。五七年三月に閉鎖され、帰国準備のため、各地に分散していった。「人民艦隊事件」ということで密航船が検挙され、志田氏が検察側の証人に立ち、非公然に帰国する道は閉ざされた。
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「袴田氏」は袴田里見のことで、「国際派」の意見を主張するために北京に派遣されものの、特に役に立たなかった人ですね。
ま、誰が行ってもソ連・中国側を説得できるような状況ではなかったようですが。
袴田は後に党副委員長の要職を長く務めますが、1977年に除名された後、『昨日の同志 宮本顕治へ』(新潮社、1978)と『私の戦後史』(朝日新聞社、1978)の二著を出し、共産党側も猛烈な反撃キャンペーンを展開しましたね。
秋山良照は野坂参三配下の「反戦兵士」で、『中国土地改革体験記』(中公新書、1977)・『戦争と人間の記録 中国戦線の反戦兵士』(現代史出版会、1979)の著者であり、河田賢治は1922年の日本共産党創立時からの古参メンバーですね。

袴田里見(1904-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%B4%E7%94%B0%E9%87%8C%E8%A6%8B
河田賢治(1900-95)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%94%B0%E8%B3%A2%E6%B2%BB
「人民艦隊」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%89%A6%E9%9A%8A

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 私は北京を希望したが許されず、上海の復旦大学歴史系の研究生になった。中国革命史の講義を聞いたり、日本史の教授が二人いて交流した。明治維新・民族革命・ブルジョワ革命説であり、中国人らしい視点は興味深かった。井上氏の著書が高く評価され利用されていた(『日本近代史』『日本現代史』第一巻)。
 五八年七月中国からの最後の引揚船・白山丸に乗って、自ら密航組であることを名乗り、舞鶴港で隔離された。井上清さんが親戚と名乗って私に面会にきてくれたのには感激した。一三日出入国管理令違反で検挙され、東京に護送され、万世橋署に留置され、起訴され、七回大会後の七月三一日保釈出獄し、九年間の裁判闘争になるが、一審は三ヵ月の懲役・執行猶予一年。こうして、日本の歴史学界に復帰をめざすことになる。
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「白山丸」事件については、「国会議事録検索室 改め 国会ソース」というサイトで、当時の国会での議論を知ることができますが、自由民主党代議士・長谷川峻の発言によれば、

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今回の白山丸による第21次引き揚げによって帰国した者は、総数579名です。その内訳は、いわゆる引揚者のうち、一般邦人374名、旧軍人軍属75名でありまして、ほかに再渡航者と、すでに新聞で御承知の、いわゆる密出国者として戦後渡航し、今回の引き揚げ船に便乗して帰国した65名及び華僑2名となっております。
【中略】
次に、舞鶴における援護状況を申し上げますと、乗船者中の、いわゆる密出国者グループの大部分には、逮捕状が発せられておった。それで、13日の白山丸入港当日は、警視庁の公安部、京都府警の機動隊、並びに17都道府県の捜査官約600名が派遣されていたのであります。

http://rock-sack.blogspot.com/2016/06/blog-post_22.html

といった状況であり、この「密出国者として戦後渡航し、今回の引き揚げ船に便乗して帰国した65名」の中に犬丸も含まれていた訳ですね。
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犬丸義一・中国へ行く(その1)

2019-01-29 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月29日(火)12時45分27秒

網野善彦とはあまり関係ないので犬丸義一「私の戦後と歴史学」の続きは省略しようかなとも思いましたが、この回想録の中で一番興味深いのは中国見聞記なので、ついでに紹介しておきます。(p261以下)

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 こうして、レポの手に渡り、「伊藤」さんという労働者出身の人とともに、静岡県の焼津港に鉄道で行き、夜までぶらぶらして富士山を眺めて、密航漁船に乗って夜出港し、夜和歌山県の串本港に暗くなって入港し、関西からの男女数名をのせた。注意を要するのは、マッカーサー・ラインにひっかかることだった。命がないからである。四国沖、鹿児島沖を通って東海の漁船団の中にまぎれて、夜漁船が引き上げてからも海上に残り、深夜領海突破をはかる。緊張の数時間である。午前四時領海を越えたことを確認し、喜びの声があがる。中国領海である。後は拿捕を待つのみである。三月末、夜が明け切って一時間、中国人民解放軍の砲艦から停船を命じられる。中国兵が乗りこみ銃剣を擬されて逮捕され手錠がかけられ、連行される。舟山列島沖である。上海につれられ、海軍の留置場にいれられる。昼ごろ留置場から解放され、応接室に通される。これでやっと安心した。上海の招待処に案内され、夕方から中国海軍による歓迎会になる。二・三日滞在し、上海見物をして、北京に列車で行く。四月上旬、北京に着くと、もうばらばらである。私と伊藤さんの二人が劉と名乗った西沢隆二氏に会った。服部さんの話が出たりして、歴史の人々はよくやってると話したのが印象的だった。二人は河北省の党学校へ行くのだといわれる。北京の招待処に行き、学校から迎えにきた日本人の案内で一日北京見物をして天安門、故宮博物館、王府井などに行き、列車にのって、済南からトラックで、河北省邯鄲郡永年県についた。
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いったんここで切ります。
犬丸は1953年3月に密出国しますが、朝鮮戦争休戦協定の調印は同年7月27日なので、海上においてはまだまだ緊張状態が続いていた時期ですね。
『伊藤』さんという労働者出身の人」とありますが、もちろん偽名で、犬丸も何か偽名を名乗っていたはずです。
この種の状況においては、互いに相手の素性など知ろうとしてはならないのが共産党のお約束ですね。
この当時の密航事情については、例えば海上保安庁の「海上保安リポート2004」には、

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2 平和条約の発効とその影響

 昭和27年4月、我が国と連合国との間で平和条約が発効しました。これにより我が国は主権国家として自立し、国内の治安も自らの手で維持していくことが必要となりました。また、平和条約の発効は、政治経済をはじめとする各分野において共産圏諸国の干渉が活発化する懸念も生じさせました。
 これまで見られた密航については、朝鮮動乱の休戦により朝鮮半島の情勢が安定したため減少はしたものの、これまでの重点的な取締りによって密航ブローカーが介在し、在日の韓国人と密接な連絡を取り合いながら巧妙に密航を敢行する事例が見られるようになりました。これは、密航請負組織による密航と相通じるものがあります。また、平和条約の発効により、共産圏諸国の我が国に対する諜報工作が活発化し、工作員の密入国も見られるようになりました。

https://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2004/honpen/hp05020200.html

などとあります。
犬丸を乗せた「人民艦隊」の漁船は日本側の巡視船に誰何されることも中国側から疑われて銃撃されるようなこともなく、無事密航に成功した訳ですが、何かの手違いで海の藻屑と消える可能性もあったでしょうね。
さて、北京に到着した犬丸と「伊藤さん」は「劉と名乗った西沢隆二氏」に歓迎されたそうですが、1953年4月というと「北京機関」のボスである徳田球一は重病に倒れ、徳田の後ろ盾を失った伊藤律は野坂参三・西沢隆二との闘争に敗れて、きちんとした裁判もないまま既に拘束状態に置かれていました。
しかし、そのような内情を西沢が犬丸に語るはずもなかったでしょうね。

徳田球一(1894-1953)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%90%83%E4%B8%80
伊藤律(1913-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%BE%8B

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 河北軍官学校の跡であり、日本の党学校であり、中国の解放戦争に参加した日本人と日本から亡命した少数の者が集まっていた。校長文山=高倉テルであった。学生は十中隊に編成されていた。ここは、準備段階で年末に北京郊外へ移転した。鉄筋の近代的校舎だった。研究室は、日本問題、中国革命、政治経済学、マルクス・レーニン主義(ソ党史)に別れ、日本語図書館、全体の資料室があり、私は日本問題であり、日本問題資料室は別個だった。五人が助教だった。中国人教授にソ連人教授がいた。一月から開講になった。中国人民大学第二分校が公式名称だった。
 日本問題は教授は日本から来ることになっていたが、最後まで来なかった。私達は、時事問題の解説に当たるとともに、服部『近代日本のなりたち』、井上『日本近代史』の学習を準備としておこなった。最後に五回の日本問題の講義をおこなうにとどまった。
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高倉テルは1891年生まれですから、犬丸より27歳上ですね。
高倉は三木清が終戦間際に逮捕・投獄され、獄中死することになった原因を作った人物なので、個人的にはあまり良い印象を持てません。
三木清の妻・喜美子は東畑精一の妹で、速水融氏の叔母ですね。

「東畑精一とハルナック」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f63e833f205c8a3985381d0b88b98e77
高倉輝(1891-1986)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%80%89%E8%BC%9D
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