学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その9)

2020-03-16 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月16日(月)12時38分48秒

さて、前回投稿で書いたように「姫の前」の再婚相手である源具親の周辺は謎が多いのですが、宝治二年(1248)の人事については、源泰光・輔通の伯父・甥と同じ年に後深草院二条の父である中院雅忠、そして四条隆親の息子である四条房名も従三位に叙され、『公卿補任』に初登場している点が気になります。
源泰光・輔通は村上源氏の俊房流ですが、輔通が後嵯峨天皇践祚の翌年に「承明院大嘗会御給」で正四位下に昇進しているので、少なくとも輔通は承明門院、従って村上源氏・顕房流の源通親の子孫に親しい存在であることが分かります。
そこで、この二人と源通親の孫である中院雅忠の昇進は、あるいは後嵯峨即位により権勢を得た通親子孫の影響力を示すものかとも思われますが、しかし、後嵯峨即位に最も貢献した土御門定通は前年の宝治元年(1247)に死去し、弟の定通のおかげで寛元四年(1246)に太政大臣になれた久我通光(中院雅忠の父)も、この年の一月に死去しています。
とすると、これら一連の人事を差配したのが誰かが気になるのですが、私は四条隆親ではないかと疑っています。

承明門院(源在子、1171-1257)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%9C%A8%E5%AD%90
土御門定通(1188-1247)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%AE%9A%E9%80%9A

四条隆親(1203-79)は極めて興味深い人物で、承久の乱に際しては法印尊長や久我通光などと一緒に、武装して後鳥羽院の比叡山御幸に供奉したりしているのですが、乱後に他の同行者が皆処罰されているのに、隆親だけが何の処罰も受けていません。
処罰されないどころか、むしろ隆親は以後も順調に昇進して行くのですが、これはおそらく姉の貞子(北山准后、1196-1302)が西園寺実氏(1194-1269)の妻であったためと思われます。
また、隆親の父・隆衡(1172-1255)は乱後、後高倉院(1179-1223)妃で後堀河天皇(1212-34)生母の北白河院(持明院陳子、1173-1251)に近づき、隆衡、ついで隆親は北白河院の執事別当となります。
そして隆親は後堀河天皇の有力な近臣となり、幼くして践祚した四条天皇(1231-42)の「乳父」にもなります。
このように四条家は承久の乱後、後高倉院の皇統に密着して家勢を伸ばすのですが、嘉禎四年(1238)閏二月、隆親は「禁中狼籍事行不調事等之故」(『玉蘂』閏二月十五日条)、「乳父」をやめさせられてしまいます。
しかし、ここで干されたのが仁治三年(1242)の四条天皇急死によってむしろプラスに転ずることになり、隆親は自邸の冷泉万里小路殿を新帝・後嵯峨の内裏に提供するなどして、一転して後嵯峨近臣に入り込みます。
そして当時の記録には、足利義氏(1189-1254)の娘で隆親室となっていた能子が後嵯峨の「乳母」と記されており、従って隆親は後嵯峨の「乳父」だったことになります。
更に、九条道家と一緒に後高倉院の皇統を支えていた西園寺公経が、これまた一転して後嵯峨に接近し、西園寺実氏と四条貞子の間に生まれた女子(後の大宮院、1225-92)を後嵯峨に入内させ、久仁親王(後深草天皇、1243-1304)が生まれるに至って、貞子の弟の隆親の地位も一段と強固になったと思われます。
以上は既に三十年前に秋山喜代子氏が発表された「乳父について」(『史学雑誌』99編第7号、1990)という論文を隆親を中心に要約したものですが、秋山氏は四条家と足利家との関係には僅かに触れていても、四条家と幕府の関係には言及がありません。
私は寛喜三年(1231)、隆親が伊勢公卿勅使として派遣された際に、財源不足で催行が難しく、幕府の多大な助力を仰いだ中で、隆親も幕府側、具体的には当時執権探題であった北条重時と交渉し、以後も重時はじめ幕府関係者とそれなりに連絡を取っていて、その成果のひとつが足利能子との婚姻ではなかったかと想像しています。
ま、その点は後で検討するとして、後嵯峨の重臣の一人となった隆親にとって、後嵯峨践祚に最も貢献した土御門定通が宝治元年(1247)に死んでくれたことは、決して悪いことではなかったというか、もしかしたら、これまた幸運だったのかもしれません。
寛元四年(1246)の宮騒動の影響で九条道家の勢力は一掃され、ついで土御門定通が死んでくれたので、大袈裟に言えば、ここに権力の空白が生じたことになり、隆親にとってみれば、うるさい連中がみんないなくなった、ということになります。
ということで、宝治二年(1248)の人事には、隆親の影響力が相当発揮されるようになったと考えることは、それほど無理な想像でもなかろうと思います。
寛元四年(1246)に僅か四歳の後深草天皇に譲位して院政を執っていた後嵯峨院は、なかなかの苦労人だけあって決して甘い人間ではありませんが、「乳父」隆親の要望は無視しがたいものがあったはずです。
そして、重大人事ではなく、たかだか数人を従三位にする程度は、あっさり了解したような感じがします。

四条隆親(1203-79)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E8%A6%AA
秋山喜代子「乳父について」
http://web.archive.org/web/20150618013530/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/akiyama-kiyoko-menoto.htm
コメント
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