学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その14)

2020-03-21 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月21日(土)11時08分56秒

歌人としての源具親の活動については、下記投稿で森幸夫氏の論文を引用済みです。

(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d700cdb46bad37044c1e151617aae601
(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411da463a2627b80aa6b8470a3d379b4

ただ、森氏は源通親との関係については触れられていないので、参考までに井上宗雄氏の『平安後期歌人伝の研究』(笠間書院、1978)も紹介しておきます。(p468)

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 正治二年、師光は六十九歳程であったが、この老年にして、後鳥羽歌壇の賑わいに遭遇する事となった。初度百首の人数に入って八月廿五日詠進(明月記)、同年第二度の百首には召出されたばかりの具親・宮内卿が入っている。九月三十日院当座歌合に能登守具親出席、十月一日歌合にも出。
 院は多くの歌人を出仕させたのだが、源家長日記に依ると、「又具親といふ人侍り、右京権大夫入道師光の子なり、仁和寺のほとりにかすかなるさまにて住み侍りしかば、召出されてやがて兵衛佐になされ侍りしを、父の入道の涙もかきあへず喜ばれしこそことはりと見え侍りしか、申せばかたじけなしや、かくまで沈み果て給〔侍〕べき身かは、父の思はぬよすがにひかれて身のいたづらになられし故ぞかし」とあって、父の無力の故であろうが、(能登守ではあったが)寂しく住んでいたのを召出されたのである(八、九月頃か)。何か歌の才ある挿話ぐらいはあったのだろうか。因みに兵衛佐の明徴は翌年二月八日(後述)のようで、家長日記によるとこれも院の思召しによったのである(以下、具親・宮内卿の詳細は別の機に考える事とし、師光を主に述べる)。
 正治二年十月十三日通親邸御幸には師光入道参仕、十一月七日院歌合に師光女宮内卿出席(明月記)。この頃から後鳥羽院に出仕したのであろう(文治元年生として十六歳)。十二月廿六日通親邸影供歌合に師光参会(明月記)。この年の三百六十番歌合に、生蓮・宮内卿が入っている。【後略】
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「生蓮」は師光の法名で(p467)、井上氏は史料の表記に従って「師光入道」「師光」「生蓮」と記述されているのでしょうね。
「建久七年の政変」から正治二年(1200)の頃は源通親が最も権勢を振るっていた時代であり、師光とは社会的地位は隔絶していますが、具親・宮内卿を含め、歌人としての交流はあった訳ですね。
具親・宮内卿が歌人としてどんなに優れた素質があったとしても、師光・具親が九条家に近い存在であったら、この時期に後鳥羽院の歌壇に入るのは難しく、具親が源通宗の猶子となっていたことは二人の歌人としての立身出世に極めて有利に働いたものと思われます。
さて、歌人としての具親についての森幸夫氏の説明は、いつもの固い論文と異なり、楽しそうに書かれていて、それはそれでよいのですが、ちょっと行き過ぎではないかと思われる記述があることは以前指摘しました。
特に森氏が、

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建仁元年、和歌所寄人となった年の八月十五夜の歌合で、具親は「いさゝか例ならぬこと」により退出したため、翌日後鳥羽院は「口をしさ思ひしつめがた」く、具親を和歌所に召し籠めた。やはり彼は怠け者的性質が強かったようである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411da463a2627b80aa6b8470a3d379b4

とされている点、井上氏は、

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十五夜には終夜歌合があったが、具親が「れいならぬ事いできて」早く退出したのを院が「くちをしさ思ひしづめがたし」として翌日和歌所に召籠め、具親の詠歌によって許したことが家長日記に見える。別に具親自身不風流ではなかったのだろうが、体調が悪いとか急用とかで帰宅したのを院に咎められたのである。
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と慎重な書き方をされています。(p469)
まあ、具親の退出の理由が分からないので何とも言い難いところですが、後鳥羽院は泳げない近臣二十人ばかりを船に乗せてから川に落とすような、なかなか臣下への思いやりに満ち溢れた方でもあるので、この件でも一方的に具親が悪いと決めつけるのはどんなものだろうかと思います。
さて、森氏は上記引用部分に続けて、

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具親と宮内卿は好対照な兄妹であった。なお具親は、後嵯峨院政期の弘長二年(一二六二)九月の『三十六人大歌合』にも沙弥如舜としてその名がみえているから、非真面目でストレスのあまりない性格も幸いしてか、かなりの長寿であったとみられる。おそらく八十歳は越えていただろう。
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という具合に、具親の「非真面目でストレスのあまりない性格」を改めて強調された上で、第二節を次のように閉じます。

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 さて源具親は後鳥羽院に見出され、その側近歌人として活動したが、家格も低く、また怠惰な性格も災いしてか、高い官位を得ることは出来なかった。能登守・左兵衛佐に次いで元久二年四月、右少将に任じられた。これが彼の極官である。父師光はかつて少将任官を望んだものの果たせなかったわけだから、一応具親は父の先途を越えたわけである。彼はこのまま、公家社会に低迷する歌詠みとして生涯を終えるかにみえた。だが具親は北条義時の前妻姫前と結婚し、これが彼とその子どもに「光華」をもたらすこととなる。次節以下でこれらにつきみてみよう。
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具親が右少将に任じられた元久二年(1205)の前年、輔通が生まれているので、具親と「北条義時の前妻姫前」の結婚はさらにその前となるはずですが、これがどこまで遡るのかが問題となります。
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「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その13)

2020-03-21 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月21日(土)07時56分32秒

前回投稿、源具親をめぐる最大の難問、とか言いながら、右中将がダメなら左中将でいいんじゃないの、で終わってしまいましたが、まあ、九条兼実だって『玉葉』の読者として想定している自分の子孫に向かって謎をかけている訳ではないですから、ちょっと考えれば分かる程度の記述で丁度良い具合ですね。
もっとも私も最初から源通宗に着目した訳ではなくて、むしろ四条家に適当な人はいないかと思って四条隆房(1148-1209)や隆衡(1172-1255)などの経歴を見てみたのですが、「中将」の該当者はいませんでした。
さて、源具親が九条兼実の息子である良輔の猶子ではなく、九条兼実の宿敵である源通親に近い人物と考えると、森幸夫氏が指摘されている次のような問題も理解しやすいのではないかと思います。
森氏は、

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具親の生年は不明だが、九条良輔より年下であったとは考えにくいであろう。井上氏は年齢関係から判断して、この猶子関係に懐疑的である。私も具親を良輔の猶子とするのは誤りであると思う。『玉葉』本文に何らかの錯誤が存在すると考えられる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9df962f6fffa8d9a9e13f51006887b4

に続けて、次のように書かれています。(p82)

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 実は具親は、このころから近衛家に仕えていたようである。建久九年四月、摂政近衛基通が賀茂社に参詣した時、具親は舞人・陪従の饗料を負担し、正治二年(一二〇〇)正月に基通息右大臣家実が春日祭上卿として参向した際には、東遊装束の青末濃袴十四腰を調進している。具親は正治二年十一月までは能登守在任が知られるが、これらの負担は能登国司としての公役負担とみるよりは、近衛家家人としての負担と考えるべきであろう。建久末・正治ころ具親は近衛家に仕えていたとみられる。前節でみたように、父師光は九条兼実に仕えたのであるが、具親はそのライバルともいえる近衛基通・家実父子に奉仕していたのである。当時九条家は建久七年の政変で凋落していたから、具親は父が祗候した九条家ではなく、近衛家に仕えたのであろう。そうすると、先にみたような、具親が九条良輔の猶子であった点も誤りの可能性がさらに高くなる。師光・具親が九条家から近衛家に奉公先を替えたことは、斜陽貴族ともいえる村上源氏俊房流一族にとって、生き残るための必須の選択であったといえるだろう。このような時期に具親は後鳥羽院に見出されたのである。
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「前節でみたように、父師光は九条兼実に仕えたのであるが」とありますが、「前節」即ち「一、源具親の父祖」では、『玉葉』養和元年(1181)閏二月十四日の記事に基づき、九条家に初参した源師光が九条兼実から「件人、和歌之外、無他芸」と酷評されたことが記されています。
ただ、まあ、これは養和元年の話であり、その後の政治情勢は変遷を重ね、「九条家は建久七年の政変で凋落」しています。
従って、「具親が九条良輔の猶子であった点も誤りの可能性がさらに高くなる」訳ですね。
仮に具親が九条良輔の猶子であったら建久七年の政変のとばっちりで大変だったはずですが、具親はこの政変の僅か四か月後、建久八年(1197)三月二十日に四条隆保のおかげでちゃっかり能登守になっており、九条家に近い存在のはずがありません。
逆に、九条兼実の宿敵であり、歌人としても有力な源通親に近い存在であったからこそ、その後、具親と妹の宮内卿が「後鳥羽院に見出された」ことが理解しやすくなります。
なお、森氏が「斜陽貴族ともいえる村上源氏俊房流一族にとって、生き残るための必須の選択であった」とされている点は、いささか大袈裟にすぎるように感じます。
師光は小野宮第を承継している財産家である上に、具親を能登守にさせるような人脈を持っている訳ですから、官位官職は劣っていても「斜陽貴族」ではありえません。
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