投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月21日(土)11時08分56秒
歌人としての源具親の活動については、下記投稿で森幸夫氏の論文を引用済みです。
(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d700cdb46bad37044c1e151617aae601
(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411da463a2627b80aa6b8470a3d379b4
ただ、森氏は源通親との関係については触れられていないので、参考までに井上宗雄氏の『平安後期歌人伝の研究』(笠間書院、1978)も紹介しておきます。(p468)
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正治二年、師光は六十九歳程であったが、この老年にして、後鳥羽歌壇の賑わいに遭遇する事となった。初度百首の人数に入って八月廿五日詠進(明月記)、同年第二度の百首には召出されたばかりの具親・宮内卿が入っている。九月三十日院当座歌合に能登守具親出席、十月一日歌合にも出。
院は多くの歌人を出仕させたのだが、源家長日記に依ると、「又具親といふ人侍り、右京権大夫入道師光の子なり、仁和寺のほとりにかすかなるさまにて住み侍りしかば、召出されてやがて兵衛佐になされ侍りしを、父の入道の涙もかきあへず喜ばれしこそことはりと見え侍りしか、申せばかたじけなしや、かくまで沈み果て給〔侍〕べき身かは、父の思はぬよすがにひかれて身のいたづらになられし故ぞかし」とあって、父の無力の故であろうが、(能登守ではあったが)寂しく住んでいたのを召出されたのである(八、九月頃か)。何か歌の才ある挿話ぐらいはあったのだろうか。因みに兵衛佐の明徴は翌年二月八日(後述)のようで、家長日記によるとこれも院の思召しによったのである(以下、具親・宮内卿の詳細は別の機に考える事とし、師光を主に述べる)。
正治二年十月十三日通親邸御幸には師光入道参仕、十一月七日院歌合に師光女宮内卿出席(明月記)。この頃から後鳥羽院に出仕したのであろう(文治元年生として十六歳)。十二月廿六日通親邸影供歌合に師光参会(明月記)。この年の三百六十番歌合に、生蓮・宮内卿が入っている。【後略】
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「生蓮」は師光の法名で(p467)、井上氏は史料の表記に従って「師光入道」「師光」「生蓮」と記述されているのでしょうね。
「建久七年の政変」から正治二年(1200)の頃は源通親が最も権勢を振るっていた時代であり、師光とは社会的地位は隔絶していますが、具親・宮内卿を含め、歌人としての交流はあった訳ですね。
具親・宮内卿が歌人としてどんなに優れた素質があったとしても、師光・具親が九条家に近い存在であったら、この時期に後鳥羽院の歌壇に入るのは難しく、具親が源通宗の猶子となっていたことは二人の歌人としての立身出世に極めて有利に働いたものと思われます。
さて、歌人としての具親についての森幸夫氏の説明は、いつもの固い論文と異なり、楽しそうに書かれていて、それはそれでよいのですが、ちょっと行き過ぎではないかと思われる記述があることは以前指摘しました。
特に森氏が、
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建仁元年、和歌所寄人となった年の八月十五夜の歌合で、具親は「いさゝか例ならぬこと」により退出したため、翌日後鳥羽院は「口をしさ思ひしつめがた」く、具親を和歌所に召し籠めた。やはり彼は怠け者的性質が強かったようである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411da463a2627b80aa6b8470a3d379b4
とされている点、井上氏は、
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十五夜には終夜歌合があったが、具親が「れいならぬ事いできて」早く退出したのを院が「くちをしさ思ひしづめがたし」として翌日和歌所に召籠め、具親の詠歌によって許したことが家長日記に見える。別に具親自身不風流ではなかったのだろうが、体調が悪いとか急用とかで帰宅したのを院に咎められたのである。
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と慎重な書き方をされています。(p469)
まあ、具親の退出の理由が分からないので何とも言い難いところですが、後鳥羽院は泳げない近臣二十人ばかりを船に乗せてから川に落とすような、なかなか臣下への思いやりに満ち溢れた方でもあるので、この件でも一方的に具親が悪いと決めつけるのはどんなものだろうかと思います。
さて、森氏は上記引用部分に続けて、
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具親と宮内卿は好対照な兄妹であった。なお具親は、後嵯峨院政期の弘長二年(一二六二)九月の『三十六人大歌合』にも沙弥如舜としてその名がみえているから、非真面目でストレスのあまりない性格も幸いしてか、かなりの長寿であったとみられる。おそらく八十歳は越えていただろう。
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という具合に、具親の「非真面目でストレスのあまりない性格」を改めて強調された上で、第二節を次のように閉じます。
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さて源具親は後鳥羽院に見出され、その側近歌人として活動したが、家格も低く、また怠惰な性格も災いしてか、高い官位を得ることは出来なかった。能登守・左兵衛佐に次いで元久二年四月、右少将に任じられた。これが彼の極官である。父師光はかつて少将任官を望んだものの果たせなかったわけだから、一応具親は父の先途を越えたわけである。彼はこのまま、公家社会に低迷する歌詠みとして生涯を終えるかにみえた。だが具親は北条義時の前妻姫前と結婚し、これが彼とその子どもに「光華」をもたらすこととなる。次節以下でこれらにつきみてみよう。
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具親が右少将に任じられた元久二年(1205)の前年、輔通が生まれているので、具親と「北条義時の前妻姫前」の結婚はさらにその前となるはずですが、これがどこまで遡るのかが問題となります。
歌人としての源具親の活動については、下記投稿で森幸夫氏の論文を引用済みです。
(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d700cdb46bad37044c1e151617aae601
(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411da463a2627b80aa6b8470a3d379b4
ただ、森氏は源通親との関係については触れられていないので、参考までに井上宗雄氏の『平安後期歌人伝の研究』(笠間書院、1978)も紹介しておきます。(p468)
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正治二年、師光は六十九歳程であったが、この老年にして、後鳥羽歌壇の賑わいに遭遇する事となった。初度百首の人数に入って八月廿五日詠進(明月記)、同年第二度の百首には召出されたばかりの具親・宮内卿が入っている。九月三十日院当座歌合に能登守具親出席、十月一日歌合にも出。
院は多くの歌人を出仕させたのだが、源家長日記に依ると、「又具親といふ人侍り、右京権大夫入道師光の子なり、仁和寺のほとりにかすかなるさまにて住み侍りしかば、召出されてやがて兵衛佐になされ侍りしを、父の入道の涙もかきあへず喜ばれしこそことはりと見え侍りしか、申せばかたじけなしや、かくまで沈み果て給〔侍〕べき身かは、父の思はぬよすがにひかれて身のいたづらになられし故ぞかし」とあって、父の無力の故であろうが、(能登守ではあったが)寂しく住んでいたのを召出されたのである(八、九月頃か)。何か歌の才ある挿話ぐらいはあったのだろうか。因みに兵衛佐の明徴は翌年二月八日(後述)のようで、家長日記によるとこれも院の思召しによったのである(以下、具親・宮内卿の詳細は別の機に考える事とし、師光を主に述べる)。
正治二年十月十三日通親邸御幸には師光入道参仕、十一月七日院歌合に師光女宮内卿出席(明月記)。この頃から後鳥羽院に出仕したのであろう(文治元年生として十六歳)。十二月廿六日通親邸影供歌合に師光参会(明月記)。この年の三百六十番歌合に、生蓮・宮内卿が入っている。【後略】
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「生蓮」は師光の法名で(p467)、井上氏は史料の表記に従って「師光入道」「師光」「生蓮」と記述されているのでしょうね。
「建久七年の政変」から正治二年(1200)の頃は源通親が最も権勢を振るっていた時代であり、師光とは社会的地位は隔絶していますが、具親・宮内卿を含め、歌人としての交流はあった訳ですね。
具親・宮内卿が歌人としてどんなに優れた素質があったとしても、師光・具親が九条家に近い存在であったら、この時期に後鳥羽院の歌壇に入るのは難しく、具親が源通宗の猶子となっていたことは二人の歌人としての立身出世に極めて有利に働いたものと思われます。
さて、歌人としての具親についての森幸夫氏の説明は、いつもの固い論文と異なり、楽しそうに書かれていて、それはそれでよいのですが、ちょっと行き過ぎではないかと思われる記述があることは以前指摘しました。
特に森氏が、
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建仁元年、和歌所寄人となった年の八月十五夜の歌合で、具親は「いさゝか例ならぬこと」により退出したため、翌日後鳥羽院は「口をしさ思ひしつめがた」く、具親を和歌所に召し籠めた。やはり彼は怠け者的性質が強かったようである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411da463a2627b80aa6b8470a3d379b4
とされている点、井上氏は、
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十五夜には終夜歌合があったが、具親が「れいならぬ事いできて」早く退出したのを院が「くちをしさ思ひしづめがたし」として翌日和歌所に召籠め、具親の詠歌によって許したことが家長日記に見える。別に具親自身不風流ではなかったのだろうが、体調が悪いとか急用とかで帰宅したのを院に咎められたのである。
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と慎重な書き方をされています。(p469)
まあ、具親の退出の理由が分からないので何とも言い難いところですが、後鳥羽院は泳げない近臣二十人ばかりを船に乗せてから川に落とすような、なかなか臣下への思いやりに満ち溢れた方でもあるので、この件でも一方的に具親が悪いと決めつけるのはどんなものだろうかと思います。
さて、森氏は上記引用部分に続けて、
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具親と宮内卿は好対照な兄妹であった。なお具親は、後嵯峨院政期の弘長二年(一二六二)九月の『三十六人大歌合』にも沙弥如舜としてその名がみえているから、非真面目でストレスのあまりない性格も幸いしてか、かなりの長寿であったとみられる。おそらく八十歳は越えていただろう。
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という具合に、具親の「非真面目でストレスのあまりない性格」を改めて強調された上で、第二節を次のように閉じます。
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さて源具親は後鳥羽院に見出され、その側近歌人として活動したが、家格も低く、また怠惰な性格も災いしてか、高い官位を得ることは出来なかった。能登守・左兵衛佐に次いで元久二年四月、右少将に任じられた。これが彼の極官である。父師光はかつて少将任官を望んだものの果たせなかったわけだから、一応具親は父の先途を越えたわけである。彼はこのまま、公家社会に低迷する歌詠みとして生涯を終えるかにみえた。だが具親は北条義時の前妻姫前と結婚し、これが彼とその子どもに「光華」をもたらすこととなる。次節以下でこれらにつきみてみよう。
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具親が右少将に任じられた元久二年(1205)の前年、輔通が生まれているので、具親と「北条義時の前妻姫前」の結婚はさらにその前となるはずですが、これがどこまで遡るのかが問題となります。