学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

ミスター宮内卿を探して

2020-03-31 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月31日(火)11時18分13秒

ということで、善鸞の「公名」である「宮内卿」、そして後鳥羽院宮内卿の「女房名」である「宮内卿」の由来を探す旅が始まったのですが、だいたいこの種の名前は、本人の父親か祖父あたりの官職に関係することが多いですね。
そこで、まずは『尊卑分脈』の索引で「宮内卿」「宮内卿局」「宮内卿公」などとある人々を全て確認してみたのですが、親鸞の周辺や源師光の周辺には「宮内卿」の官職を得た人を見出すことができませんでした。
実は私は源通親の周辺や四条家関係者に「宮内卿」がいないだろうかと見込んでいたのですが、これも駄目でした。
そこで、やはり『公卿補任』を丁寧に見て行くのが結局は近道だろうと思って「後鳥羽院」で始まる寿永三年(1184)から「宮内卿」を探してみたのですが、そもそも宮内卿は公卿が任ぜられる官職ではないので、なかなか出てきません。
そして建仁四年(元久元年、1204)に至って、やっと「宮内卿」を見つけることができました。
それは、この年に従三位に叙せられた源家俊の尻付です。

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従三位 源家俊 三月六日叙。宮内卿如元。
入道近江介俊光朝臣男。母。
応保二正五叙位(氏)。仁安三十一廿従五上(父近江介俊光朝臣大嘗会国司賞譲。嘉応元三五侍従(父俊光譲)。【中略】文治元六十従四上。同五十一十三宮内卿。建久元七十八正四下。正治元三廿三讃岐守。
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即ち、源家俊は文治五年(1189)十月十三日、宮内卿に任ぜられて、そのまま十五年間、宮内卿にとどまったようですね。
さて、源家俊は文治五年からずっと宮内卿ということですから、時代的には後鳥羽院宮内卿、善鸞のいずれにも合いそうですが、そもそも私は源家俊という人物について何も知りませんでした。
政治家としても歌人としても、更には宗教人としても、この人の名前を聞いたことがありません。
そこで、試しに「源家俊」で検索をかけてみたところ、「浄土宗西山深草派 宗学会」サイトで、吉良潤という僧籍の方が書かれた「親鸞の流罪に縁座した歌人・藤原家隆」という論文を見つけました。
通読してみたところ、吉良氏は「私たちも親鸞が九条兼実の七女・玉日と結婚したという親鸞門流の伝承が歴史的事実であると主張している」方であって、正直、私は「玉日」姫の関係については吉良氏の主張に賛成はできませんでした。
しかし、冒頭の「問題の所在」は、私にとって重大な示唆を与えてくれるものでした。
その部分を引用させてもらいます。

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藤原定家(ふじわらのさだいえ)(「ふじわらていか」と呼び習わす)の好敵手として『新古今和歌集』の撰者の一人であった藤原家隆(ふじわらのいえたか)は1206年(元久3年)1月13日、後鳥羽上皇から望みもしなかった宮内卿(くないきょう)の官職を与えられて感涙にむせんだ。そのとき上皇は宮内卿前任者であった源家俊(みなもとのいえとし)から宮内卿職を召し上げる代わりに、家俊の息子を侍従(じじゅう)に任命したのであった(『源家長日記』風間書房1985年)。
しかし国史大系『公卿補任(くぎょうぶにん)』(吉川弘文館)を見ると、源家俊は文治5年(1189)11月13日に宮内卿に任命されて以来、承元(じょうげん)3年(1209)2月18日に出家するまで、20年間の長きに亘って宮内卿職を勤めていたと記録されている。また同じ国史大系『公卿補任』によると、歌人・藤原家隆は元久3年(1206)1月13日から承久2年(1220)3月22日まで宮内卿であったと記録されている。そうすると、元久3年(1206)1月13日から承元3年(1209)2月18日までの期間、すなわち足掛け4年の間に二人の宮内卿が存在したことになる。

http://www.fukakusa.org/p005_detail.html?search=%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%81%AE%E6%B5%81%E7%BD%AA%E3%81%AB%E7%B8%81%E5%BA%A7%E3%81%97%E3%81%9F%E6%AD%8C%E4%BA%BA%E3%83%BB%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%EF%A7%9C%E3%80%94%E8%AB%96%E6%96%87%E3%80%95
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二人の「宮内卿」

2020-03-31 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月31日(火)09時40分4秒

三回にわたって本願寺第三代・覚如の華麗なる稚児遍歴を紹介しましたが、私は中世寺院社会における同性愛とかには特に興味はありません。
ただ、この一連の話で気になった点が二つあります。
まず第一に、この時期、親鸞の子孫たちは経済的に相当豊かであったのではないかと思われることです。
素人ながら浄土真宗の研究史をざっと辿ってみたところ、民衆宗教として発展した浄土真宗の祖師につながる人々が豊かな生活を送っていたというストーリーはあまり好ましくないためか、蓮如以前の本願寺は弱小教団で、親鸞の子孫たちも質素な生活を送っていたと描かれることが多いようです。
従来の研究に様々な点で批判的な今井雅晴氏すら、

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 文永七年(一二七〇)、覚恵に息子覚如が生まれた。【中略】覚恵一家がどうしていたかは不明であるが、覚如が生まれて二年後、母の中原氏の女が亡くなっている。覚恵に定収入はなく、後には父子ともに覚信尼に引き取られている。覚恵はおだやかだけが取り柄で、生活力には欠ける人間だったようである。
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と書かれています。(『親鸞と浄土真宗』、p134以下)
しかし、『慕帰絵詞』で興福寺一乗院門主の信昭が覚如の引き渡しを覚恵に求めた場面を見ると、信昭は「小野宮中将入道師具」に覚如の誘拐を依頼したり、配下の僧兵に覚如の強奪を計画させたりしていますが、その前段階として、覚恵に多額の金員を提供するなどの経済的な提案をしたことが当然に想像されます。
信昭は大変な金持ちですから、金で簡単に済む話を解決するために、いきなり配下の僧兵を送り込むはずがありません。
山門から寺門、更に興福寺へとわたり歩くほどの人気の的の稚児は、現代で言えば超有名芸能人みたいなものですから、最終的に覚恵が信昭の要求に応じた際には相当多額の経済的利益を得たものと考えるのが自然です。
しかし、少なくとも覚恵は信昭の要請を何度も拒んでいる訳ですから、多少の金では動かない程度には豊かな存在ですね。
第二に、親鸞子孫の周辺に複数の「小野宮」関係者が存在していることが非常に気になります。
「小野宮中将入道師具」が覚恵の「知音」だということは、親鸞の子孫と「小野宮」を号する源師光の子孫との関係が覚信尼の小野宮禅念との再婚で初めて生じたのではなく、相当以前からのものである可能性を示唆しています。
実際、貴族社会では特定の家同士の婚姻関係が数世代にわたることはごく普通の現象です。
そうした可能性を踏まえて親鸞子孫と源師光子孫の系図を眺めてみると、親鸞の息子で、後に義絶したとされる善鸞の最初の号が「宮内卿」であったことと、源師光に娘に天才的な歌人「宮内卿」が存在することが気になってきます。
善鸞は何故に「宮内卿」と号したのか。
そして後鳥羽院宮内卿は何故に「宮内卿」なのか。
ちなみに『尊卑分脈』等の系図類を見ても、親鸞の係累、また源師光の係累には「宮内卿」という官職を得た人を見出すことはできません。

善鸞(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E9%B8%9E
後鳥羽院宮内卿(生没年不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%8D%BF
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