学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「幕府内の権力闘争に勝利した義時は、頼朝の真の後継者として、鎌倉武士の棟梁になった」(by 本郷和人氏)

2020-06-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月 5日(金)10時57分9秒

本郷和人氏の『承久の乱 日本史のターニングポイント』は非常に鋭い指摘と、何を言っているのか理解できない非論理的な部分がまだら模様になっていて、実に奇妙な本ですね。
後者の例として、和田合戦に関する叙述を見ておきます。(p129以下)

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 権力の座に就いた北条義時もまた、自らの権力基盤を固めるための陰謀を巡らせます。相模国に勢力を持ち、幕府創設以来の重鎮として栄えたのが三浦一族ですが、そのなかでも、三浦本家を凌ぐ力を持っていたのが和田義盛でした。義時はその和田氏を繰り返し挑発して、暴発させたのです。
 かつて北条氏が自分よりも強大な比企氏を滅ぼした際は、騙し討ちで当主を殺してから奇襲をかけ、一族を皆殺しにしました。しかし、和田義盛とは真っ向勝負を行います。それだけ、北条氏の力は急成長を遂げていたのです。
【中略】
 和田義盛は幕府を草創期から支えた人物です。義時は鎌倉幕府の軍事部門のトップと、正面からぶつかり武力で叩き潰すことに成功したわけです。この戦いで名実ともに北条氏が鎌倉幕府のナンバー1になりました。
 このように義時は、実力で北条家の家督を奪い取り、幕府の実権を握ったのです。
 鎌倉を舞台に、梶原景時、比企氏、畠山重忠といったライバルたちを次々に謀略で滅ぼし、将軍・頼家までも幽閉した北条時政。その時政に従い、血なまぐさい政争に明け暮れながら、最後は父すら追い落とした北条義時。血で血を洗うサバイバルの最終勝者となった義時こそ、知謀と武力、すなわち実力で勝ちあがった「鎌倉の王」であると、東国武士の誰もが認めたはずです。
 頼朝が関東の武士団を率い、平家を打ち破って「武士による、武士のための政治」を実現する場として、鎌倉幕府は生まれました。その幕府内の権力闘争に勝利した義時は、頼朝の真の後継者として、鎌倉武士の棟梁になった。このとき、鎌倉幕府は、「頼朝とその仲間たち」による政権から「義時とその仲間たち」による政権となったのです。
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うーむ。
頼朝は確かに「関東の武士団を率い、平家を打ち破って」東国に「武士による、武士のための政治」をもたらしましたが、義時は頼朝が「武士による、武士のための政治」を「実現する場」として作った鎌倉幕府という組織を前提に、その中で「血で血を洗うサバイバルの最終勝者」となっただけじゃないですかね。
結局のところ、義時は「幕府内の権力闘争に勝利した」だけ、そして頼朝が創始した「武士による、武士のための政治」を「北条氏による、北条氏のための政治」に変えただけの人であり、「義時とその仲間たち」に入れなかった東国武士は、義時の「知謀と武力」は嫌々ながら認めても、義時が「頼朝の真の後継者」・「鎌倉武士の棟梁」・「鎌倉の王」だなどとは決して認めなかったでしょうね。
また、本郷氏は和田合戦の勝利によって「鎌倉幕府は、「頼朝とその仲間たち」による政権から「義時とその仲間たち」による政権となった」と言われますが、では頼朝の死(1199年)から和田合戦(1213年)までの足かけ十五年間は何だったのか。
その間は「鎌倉幕府」は存在していなかったのか。
第二代将軍頼家の時代のように、幕府のリーダーシップの所在が明確ではない時期は鎌倉時代を通していくらでもあります。
理念や形式ではなく「実態を捉える」(p99)、「実態の力関係」(p103)を直視するという本郷氏の発想も理解できない訳ではありませんが、「実態」のみを重視するならば、「頼朝とその仲間たち」「義時とその仲間たち」以後も、宝治合戦後の「時頼とその仲間たち」、元寇に対処した「時宗とその仲間たち」、更に霜月騒動後の「平頼綱とその仲間たち」の時代などを除いた時期には「鎌倉幕府」は不存在で、「鎌倉幕府」は間歇的にのみ生起する不連続政権、ということになりかねません。
ま、「実態」とともに制度・法形式も重視すべきであって、鎌倉幕府の本質は決して「その時々の実力者とその仲間たち」ではないと私は考えます。

>筆綾丸さん
『中世公武関係と承久の乱』は未だに入手できていませんが、長村氏も政子による「すり替え」という表現を使用されていますか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

東下りの変(上京の乱)  2020/06/03(水) 19:29:56
小太郎さん
今日、長村祥知著『中世公武関係と承久の乱』と野口実編『承久の乱の構造と展開』を図書館で借りましたが、最近は、スマホで英仏の記事を読むことが多く、読書量はめっきり減ったので、はたして通読できるかどうか、自信がありません。

四人の使者は、5月15日以後、京を発ち、5月19日、鎌倉に着いたが、時刻は異同があって、よくわからない、ということかもしれませんね。
坂井孝一著『承久の乱』には(159頁)、胤義の使者と押松は別々に京を発ったのに、どこかで合流したらしく、両者は一緒に鎌倉に着いたとありますが、これがよく理解できません。常識的に考えて、両者は別々に行動したのではあるまいか。

田辺旬氏のように、実朝亡き後の政子の政治権力を強調しすぎると、実朝暗殺の真の黒幕は政子になってしまうんじゃないの、と皮肉りたくなります。
コメント
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