学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

葉室光親が死罪となった理由(その1)

2020-06-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月20日(土)20時05分37秒

『中世公武関係と承久の乱』の「あとがき」によれば、「本書の刊行は、本書第二章の原論文が二〇一一年七月に第十二回日本歴史学会賞を受賞したことを契機」(p318)とするそうです。
1982年生まれで受賞時にはまだ二十代だった長村氏は「日本歴史学会会長の笹山晴生先生をはじめとする理事・評議員・編集委員の大半の先生方には一面識もなかったが、名誉ある賞を拝受できたことは大きな励み」となり、更に「厳しい出版事情のなか、日本史分野で定評ある吉川弘文館から早くに著書刊行という過分のお誘い」を受けたのだそうです。
社会的に高い評価を得ただけあって、「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」は実に精緻な論文ですが、葉室光親に関しては少し奇妙なところがあるように思われます。
論評に際して、対象を黒く塗ってからその黒さを批判するのは私の好むところではありませんので、まずは長村氏の論理を丁寧に追ってみたいと思います。
さて、この論文の構成は既に紹介済みです。


長村氏は「一 院宣と葉室光親」で北条義時追討の「院宣」の発給が実在したことを論証し、ついで「二 官宣旨と葉室光親」において、官宣旨の文面には葉室光親の名前は登場しないものの、藤原定家本『公卿補任』に、

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五月十五日<新帝未即位>、被下可追討平義時朝臣院宣<按察使光親卿奉書。蔵人頭右大弁資頼口宣>。発官軍向尾張国。六月十四日、関東大軍入洛。
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とあること等に着目して、葉室光親は伝奏として官宣旨発給にも関与した、という新説を提起されます。
そして、「三 葉室光親の死罪」において、「承久の乱で鎌倉方が勝利した直後に鎌倉で「卿相雲客罪名」を定める際、大江広元が「文治元年沙汰先規」を引勘したとあり(『吾妻鏡』承久三年六月二十三日条)、一定の処罰基準が窺える」(p96)として、源頼朝追討「宣旨」の発給関係者への処分との比較で、承久の乱後の処分においては、葉室光親の死罪という処分が極めて重いと主張されます。(p97以下)

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 文治元年十月十八日、源義経が後白河院に源頼朝追討「宣旨」を発給させた。その際の「伝奏」たるにより、高階泰経が籠居している(『吾妻鏡』十一月二十六日条)。宣旨発給と無関係なはずの非参議・大蔵卿である高階泰経の籠居は、義経の言上を取り次ぐとともに、後白河による宣旨発給の意思を蔵人頭藤原光雅に伝達したためであろう。泰経は頼朝の所謂廟堂改革により十二月十七日に解官される(『玉葉』十二月十八日条)。
 同「宣旨」の発給に関与したのは、上卿の左大臣藤原経宗、蔵人頭・右大弁の藤原光雅、左大史の小槻隆職であった。藤原経宗は鎌倉に弁解の使節を派遣した甲斐あって処罰されなかったが(『吾妻鏡』文治二年正月七日条)、藤原光雅と小槻隆職は十二月二十九日に解官されている。ここでは、頼朝追討「宣旨」の発給に関わった伝奏と頭弁・史が同等の処罰を受けていることに注意しておきたい。
 それに対して、承久の乱時の北条義時追討「官宣旨」発給関係者の処罰は次の通りである。

 伝奏 葉室光親
  「六月廿四日、武家申請。依奉行追討事也。七月廿三日、於駿河国就斬。先出家。法名西親」。
 上卿(内大臣) 源通光
  「七月三日上表、辞大臣。七月廿日恐懼」。安貞二年(一二二八)三月二十日の朝覲行幸まで籠居(『公卿補任』同年)。
 蔵人頭・右大弁 葉室資頼
  七月二十八日に内蔵頭を停止、八月二十九日に蔵人頭を停止、翌承久四年正月二十四日に右大弁を解官。
 右大史 三善信直
  特に処罰なし。
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いったん、ここで切ります。
リストの冒頭に「伝奏 葉室光親」とあるのは、あくまで長村氏の新説ですね。
長村氏はこの後、「文治の伝奏高階泰経」と比較して光親の処罰はあまりに重いではないかと強調されるのですが、そもそも文治元年の源頼朝追討「宣旨」は頼朝と対立した源義経の強迫に応じて、朝廷側としては嫌々ながら出したものです。
それに対し、義時追討「官宣旨」は朝廷側の積極的な意思に基づくものです。
従って、関係者の処分が大幅に異なるのは当たり前ではないかと思われるのですが、長村氏はそのような実質的考察はせず、形式的論理を積み重ねます。
少し長くなったので、続きは次の投稿で書きます。

葉室光親(1176-1221)

>筆綾丸さん
>幕府独自の「奉行」などそもそも有り得ないのだ、

確かにそうですね。
幕府側からすれば、後鳥羽の論理はあまりに現実離れ・理念倒れであって、ポカンと眺める以外に対応のしようがなかったのではないかと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「裁断と奉行」 2020/06/19(金) 15:03:08
小太郎さん
下村氏の書評は紳士的ですね。

官宣旨における「参院庁蒙裁断」と「恣致裁断」の文言からすると、裁断の権能は後鳥羽にあるにもかかわらず、義時は言詞を教命に仮(借)り、恣に裁断している、となると思います。
院宣では、幕府の家人らは聖断を仰ぐべきところ、義時は権を朝威に借り、独善的に奉行しているので、奉行の仁に値しない、となると思います。
つまり、官宣旨にいう「裁断」と院宣にいう「奉行」は、ほぼ同じような意味で使われていて、ともに後鳥羽の権能に属するのであり、幕府独自の「奉行」などそもそも有り得ないのだ、と読めるような気がしますね。
コメント
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