投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月22日(月)12時13分24秒
文治元年の頼朝追討宣旨について、その発給された事情をざっと見てきましたが、葉室光親の処分に関する長村祥知氏の形式論が如何に莫迦莫迦しいものであるかを明確にするために、頼朝追討宣旨が出された後の状況についても概観しておきます。
まず、頼朝が自分を殺せと命じたこの宣旨が出たことを聞いて動転したり激怒したりしたかというと、そんなことは全然ありません。(『吾妻鏡』十月二十二日条)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-10.htm
義経を追い詰めたのは頼朝自身であり、宣旨発給も想定の範囲内の展開ですね。
ただ、頼朝は追討宣旨を受けた前二回と異なり、今度は朝廷に対して猛烈に怒ったフリはします。
それは何故かといえば、この朝廷側の失策につけ込んで揺さぶりをかければ、幕府(ないしその前身である東国の軍事組織)の新たな権益を確保する機会に利用できるからで、様々な対応策が検討されたでしょうが、一番役立ったのは大江広元の守護地頭設置の献策(『吾妻鏡』十一月十二日条)ですね。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-11.htm
以下、再び五味文彦氏の『源義経』を引用させてもらいます。(p150)
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十五日にその泰経の使者が鎌倉にやってきたが、頼朝の怒りを恐れて使者は直接に御所にはやってこず、頼朝の妹婿の一条能保の亭に参り、書状を頼朝に献じて欲しいと依頼している。能保がこれを御所に持参すると、頼朝の側近藤原俊兼が読みあげた。
行家・義経の謀叛の事、偏へに天魔の所為たるか。宣下無くんば、宮中に参り自殺すべき
の由、言上の間、当時の難を避けんがため、一旦は勅許有るに似たりと雖も、かつて叡慮
の与する所に非ず。
謀反は天魔によるものであるというこの言い分を聞いた頼朝は、すぐに使者を京に派遣した。二十六日にその使者が院の御所にやってきて書状を泰経に付けようとしたところ、泰経が祗候していないと聞くや、怒って書状を中門廊に投げ入れて帰ったという(『玉葉』)。その書状は次のような内容であった。
義経らの謀反を天魔のなせることというが、天魔は仏法を妨げるものである。頼朝は朝敵
を滅ぼし、政治を君に戻した忠ある者であるから、天魔によるというのは全く理屈が通ら
ない。頼朝を追討する院宣を出させようとしたものこそが天魔であり、その日本第一の大
天狗なるものはほかにはいない。
「日本第一の大天狗」という表現については、これまでの多くの見解は後白河院をさすと考えられてきたが、文脈からしても、また頼朝と後白河院の関係からしても、院をこう表現したとは考えがたく、泰経をさすと考えるべきであろう。
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ま、まずはこういったやり取りがある訳ですが、「日本第一の大天狗」という決めゼリフといい頼朝の使者の大袈裟な振舞いといい、どこか芝居がかったところがありますね。
次いで「関東第一の大狸」とでも言うべきタフ・ネゴシエーターの北条時政が登場し、頼朝が忿怒していることを伝えると、朝廷側は慌てて源行家・義経追討の宣旨を出しますが、時政はこれでは満足せず、朝廷との折衝により、十一月二十九日に守護・地頭の設置を認めさせ、兵糧米の徴収も認めさせます。
この後、十二月六日に頼朝は大江広元らと協議の上、院奏の折紙を作成し、議奏公卿の設置など朝廷の改革案を提示しますが、その要求項目のひとつとして、行家・義経が天下を乱そうとするのに同意した「凶臣」の解職も含まれます。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-12.htm
そして、実際に同月中に「凶臣」が解職され、その中には高階泰経(十七日)、藤原光雅と小槻隆職(二十九日)も含まれています。
高階泰経は義経にかなり近かったので、解職の理由は単に頼朝追討宣旨に関与しただけではなかったでしょうが、それでも朝廷側が頼朝追討宣旨を出さざるを得なかった事情は頼朝も百も承知であり、さすがに高階泰経を死罪にする、といった発想はなかったでしょうね。
さて、長村祥知氏は葉室光親が死罪となったことについて、「文治の伝奏高階泰経の処罰に比しても、過度の厳罰といわねばならない」(『中世公武関係と承久の乱』、p98)と言われますが、本当にそうなのか。
文治元年の場合、頼朝追討宣旨の発給過程については詳細な事実調査が行われ、朝廷との度重なる折衝を踏まえて関係者の処分が決定されていますが、葉室光親については幕府はろくに事情を調べないまま、光親が「無双寵臣」だから後鳥羽の策謀に関与したに違いないと断定して、さっさと処刑してしまっています。
そして、実際には光親は無謀な企ては止めるように何度も後鳥羽に諫言している証拠が出て来て、泰時が後悔したと『吾妻鏡』承久三年七月十二日条に出てきます。
長村氏も同日条に言及はしていますが(p93)、その言及の仕方がまた奇妙ですね。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm
高階泰経(1130-1201)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E6%B3%B0%E7%B5%8C
文治元年の頼朝追討宣旨について、その発給された事情をざっと見てきましたが、葉室光親の処分に関する長村祥知氏の形式論が如何に莫迦莫迦しいものであるかを明確にするために、頼朝追討宣旨が出された後の状況についても概観しておきます。
まず、頼朝が自分を殺せと命じたこの宣旨が出たことを聞いて動転したり激怒したりしたかというと、そんなことは全然ありません。(『吾妻鏡』十月二十二日条)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-10.htm
義経を追い詰めたのは頼朝自身であり、宣旨発給も想定の範囲内の展開ですね。
ただ、頼朝は追討宣旨を受けた前二回と異なり、今度は朝廷に対して猛烈に怒ったフリはします。
それは何故かといえば、この朝廷側の失策につけ込んで揺さぶりをかければ、幕府(ないしその前身である東国の軍事組織)の新たな権益を確保する機会に利用できるからで、様々な対応策が検討されたでしょうが、一番役立ったのは大江広元の守護地頭設置の献策(『吾妻鏡』十一月十二日条)ですね。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-11.htm
以下、再び五味文彦氏の『源義経』を引用させてもらいます。(p150)
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十五日にその泰経の使者が鎌倉にやってきたが、頼朝の怒りを恐れて使者は直接に御所にはやってこず、頼朝の妹婿の一条能保の亭に参り、書状を頼朝に献じて欲しいと依頼している。能保がこれを御所に持参すると、頼朝の側近藤原俊兼が読みあげた。
行家・義経の謀叛の事、偏へに天魔の所為たるか。宣下無くんば、宮中に参り自殺すべき
の由、言上の間、当時の難を避けんがため、一旦は勅許有るに似たりと雖も、かつて叡慮
の与する所に非ず。
謀反は天魔によるものであるというこの言い分を聞いた頼朝は、すぐに使者を京に派遣した。二十六日にその使者が院の御所にやってきて書状を泰経に付けようとしたところ、泰経が祗候していないと聞くや、怒って書状を中門廊に投げ入れて帰ったという(『玉葉』)。その書状は次のような内容であった。
義経らの謀反を天魔のなせることというが、天魔は仏法を妨げるものである。頼朝は朝敵
を滅ぼし、政治を君に戻した忠ある者であるから、天魔によるというのは全く理屈が通ら
ない。頼朝を追討する院宣を出させようとしたものこそが天魔であり、その日本第一の大
天狗なるものはほかにはいない。
「日本第一の大天狗」という表現については、これまでの多くの見解は後白河院をさすと考えられてきたが、文脈からしても、また頼朝と後白河院の関係からしても、院をこう表現したとは考えがたく、泰経をさすと考えるべきであろう。
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ま、まずはこういったやり取りがある訳ですが、「日本第一の大天狗」という決めゼリフといい頼朝の使者の大袈裟な振舞いといい、どこか芝居がかったところがありますね。
次いで「関東第一の大狸」とでも言うべきタフ・ネゴシエーターの北条時政が登場し、頼朝が忿怒していることを伝えると、朝廷側は慌てて源行家・義経追討の宣旨を出しますが、時政はこれでは満足せず、朝廷との折衝により、十一月二十九日に守護・地頭の設置を認めさせ、兵糧米の徴収も認めさせます。
この後、十二月六日に頼朝は大江広元らと協議の上、院奏の折紙を作成し、議奏公卿の設置など朝廷の改革案を提示しますが、その要求項目のひとつとして、行家・義経が天下を乱そうとするのに同意した「凶臣」の解職も含まれます。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma05-12.htm
そして、実際に同月中に「凶臣」が解職され、その中には高階泰経(十七日)、藤原光雅と小槻隆職(二十九日)も含まれています。
高階泰経は義経にかなり近かったので、解職の理由は単に頼朝追討宣旨に関与しただけではなかったでしょうが、それでも朝廷側が頼朝追討宣旨を出さざるを得なかった事情は頼朝も百も承知であり、さすがに高階泰経を死罪にする、といった発想はなかったでしょうね。
さて、長村祥知氏は葉室光親が死罪となったことについて、「文治の伝奏高階泰経の処罰に比しても、過度の厳罰といわねばならない」(『中世公武関係と承久の乱』、p98)と言われますが、本当にそうなのか。
文治元年の場合、頼朝追討宣旨の発給過程については詳細な事実調査が行われ、朝廷との度重なる折衝を踏まえて関係者の処分が決定されていますが、葉室光親については幕府はろくに事情を調べないまま、光親が「無双寵臣」だから後鳥羽の策謀に関与したに違いないと断定して、さっさと処刑してしまっています。
そして、実際には光親は無謀な企ては止めるように何度も後鳥羽に諫言している証拠が出て来て、泰時が後悔したと『吾妻鏡』承久三年七月十二日条に出てきます。
長村氏も同日条に言及はしていますが(p93)、その言及の仕方がまた奇妙ですね。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm
高階泰経(1130-1201)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E6%B3%B0%E7%B5%8C