学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「朝廷が幕府を倒す命令を下すときには、必ず排除すべき指導者の名を挙げるのです」(by 本郷和人氏)

2020-06-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 6月 6日(土)12時02分5秒

本郷氏の義時追討説に対する批判の部分も紹介しておきます。(p170以下)

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 承久三(一二二一)年五月十五日、後鳥羽上皇がついに鎌倉幕府の「追討」を決意します。『吾妻鏡』の伝えるところでは、「勅命に応じて右京兆(北条義時)を誅滅せよ。勲功の恩賞は申請通りにする」との命令を各地の御家人に与えたのです。残念ながら実物が残っていませんので、歴史学的には、それが正式文書である「官宣旨」なのか、その略式版の「院宣」なのかは今も議論が分かれるところですが、それはさておくとします。
【中略】
 後鳥羽上皇の命令に「義時を討て」とあることを捉えて、後鳥羽上皇は北条義時を排除することだけが目的で、鎌倉幕府の存在そのものを否定したわけではないという説があります。しかし、私はこの説は成り立たないと考えています。
 そもそも冒頭で論じたように、この時代、「幕府」という言葉自体がないのです。統治の主体だと考えられていたのは、システムではなく、あくまでも「人」、すなわち最高指導者とそれを支持する人々でした。
 だから、朝廷が幕府を倒す命令を下すときには、必ず排除すべき指導者の名を挙げるのです。たとえば以仁王の令旨には「清盛法師ならびに従類の叛逆の輩を追討すべきの事」と記されており(まさに「清盛とその仲間たち」です!)、後醍醐天皇が下した討幕の命令にも、倒すべき相手は「平時政(北条時政)の子孫」とされていました。
 鎌倉幕府の実態が「北条義時とその仲間たち」なのですから、義時を討つことは鎌倉幕府を否定することと同じなのです。その意味では、将軍ではなく(実際には摂関家から鎌倉に赴いたばかりの九条頼経はわずか四歳で、将軍の座は空位でしたが)、義時こそが最高権力者であるとした後鳥羽上皇は鎌倉幕府の構造を見抜いていたといえるでしょう。
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「幕府」という言葉がないことと、「幕府」的なシステムないし組織の存否の問題は別であることは前回投稿で述べました。
「統治の主体」は「システムではなく、あくまでも「人」、すなわち最高指導者とそれを支持する人々」だとすると、頼家期のように最高指導者が不明確な時期には「統治の主体」が存在しない、という奇妙な結論になってしまうことについても先に述べました。
更に本郷説に些細な不満を述べるとすれば、何故に「後醍醐天皇が下した討幕の命令」には、倒すべき相手として「平高時ならびに従類」ではなく「平時政(北条時政)の子孫」とあるのかについての説明が欲しいですね。
ま、本郷説には色々と疑問があるのですが、それでも私は、上記引用部分に続く見解は基本的に正しいものと思っています。(p171)

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 さらに重要なのは、鎌倉幕府を支える御家人たちの間で、義時追討令とは幕府を倒すことだという認識が共有されていたことです。これを説明するためは、後鳥羽上皇の命令に、それぞれの武士がどのように反応したかをみていく必要があります。
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この後は長くなりすぎるので引用を控えますが、現代の義時追討説の論者が後鳥羽の「官宣旨」・「院宣」の細かい文言に拘るにもかかわらず、「鎌倉幕府を支える御家人たち」にとってはそんなことはどうでもいい話で、彼らはろくに「官宣旨」・「院宣」を読みもしないまま「義時追討令とは幕府を倒すことだという認識」を共有していたのは間違いなさそうです。
それは何故なのか。

>筆綾丸さん
>あるかのごとく
ありがとうございます。
それと、田辺旬氏の見解ですが、私は政子の「和字御教書」というのは田辺氏の新発見なのかと思い、「田辺氏の功績は「尼将軍」が単なる美称や比喩ではなく、実体を伴っていたことを実証的に解明したことにありそう」などと書いてしまいました。


ただ、野村育代氏の『北条政子 尼将軍の時代』(吉川弘文館、2000)を見ると、政子の「和字御文」について『小早川家文書』の例(鎌倉遺文九五二一号)などが載っていて、古文書に詳しい人にとってはけっこう当たり前の話みたいですね。
田辺説の位置づけが分からなくなってしまったので、後で『ヒストリア』の論文を確認してみるつもりです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

あるかのごとく 2020/06/05(金) 14:35:40
小太郎さん
長村氏の著書をざっと確認したところ、『六代勝事記』に言及した箇所で(274頁~)、
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承久の乱の発端の叙述では、後鳥羽の追討命令に対して北条政子が、(中略)北条義時追討命令を将軍追討命令であるかのごとく演説し、「不忠の讒臣」に対する名目で東国武士を結束させたとする。
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とありますね。
コメント
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