学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「支離滅裂」なのは後醍醐ではないか。(その1)

2021-08-23 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月23日(月)15時23分39秒

佐藤進一氏は『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)において、中先代の乱以降の尊氏の動向を論ずる中で「人間尊氏」の「行動の複雑性」(p119)に困惑され、尊氏の「常識をこえた行動」について次のように書かれています。(p121)

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 もう一つ注目すべき点は、常識をもってはかりがたいかれのいくつかの行動である。もっとも顕著な例をあげれば、のち(一三五一年)のことだが、弟直義と争って、戦いに敗れた尊氏が、和睦ということで、ようやく体面を保つことができた際に、直義側の武将細川顕氏が拝謁を望んだところ、敗残者であるはずの尊氏は「降参人の分際で何をいうか」と怒って、謁見を拒んだ事実がある。負けていながら、勝ったと思い込んでいるふしがある。
 こんなことをいろいろ並べて考えてみると、尊氏は性格学でいう躁鬱質、それも躁状態をおもに示す躁鬱質の人間ではなかったかと思われる。かれの父貞氏に発狂の病歴があり、祖父家時は天下をとれないことを嘆いて自殺したという伝えがあり、そのほかにも先祖に変死者が出ている。子孫の中にも、曾孫の義教を筆頭に、異常性格もしくはそれに近い人間がいく人か出る。尊氏の性格は、このような異常な血統と無関係ではないだろう。
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また、細川重男氏も「足利尊氏は建武政権に不満だったのか?」(『南朝研究の最前線』、洋泉社、2016)において、尊氏を「支離滅裂」と評されています。

「支離滅裂である」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/622f879dac5ef49c38c9d720c9566824

しかし、尊氏ではなく後醍醐が「支離滅裂」なのではなかろうかと想像してみると、従来謎とされていた中先代の乱後の尊氏の行動がそれなりに合理的に説明できるのではないか、と私は考えます。
出発点として、『太平記』に描かれた関東下向の際の尊氏の二つの要求のうち、「東八ヶ国の管領」は史実であったと仮定してみます。
これは具体的には「直に軍勢の恩賞を取り行ふ」権限なので、征夷大将軍任官とは対照的に、戦争の実態に適合した極めて合理的な要求ですね。
そして、「征東将軍」尊氏が、いつもらえるか分からない恩賞の約束を後醍醐に取り次ぐ仲介役ではなく、自身で迅速に恩賞付与できる新しい権限を得たからこそ、足利一門と家臣、従来からの味方、そして日和見を決め込んでいた連中も大いに奮起し、中先代の乱が短期間に平定できたとします。
しかし、中先代の乱が意外にあっさり終わってしまったのを見て、後醍醐が尊氏に恩賞付与権限を与えたことを後悔するようになった、と仮定を重ねてみます。
即ち、この権限付与は「天下治乱の端なれば」、自分も「よくよく御思案あるべかりけるを、申し請くる旨に任せて、左右なく勅許」してしまったことだなあ、と反省した後醍醐は、中院具光を勅使として、「お前を従二位にしたよ」という手土産を持たせた上で、尊氏に与えた許可を撤回し、やっぱり恩賞は自分が決めるのだ、と言ったとします。
食言であり、「支離滅裂」な行動ですが、後に北朝に渡した三種の神器は偽物だと言ったり、恒良親王に皇位を譲ったと称したような行動に較べれば、「支離滅裂」の程度もそれほどではなく、後醍醐にしてみれば通常運転だったかもしれません。
さて、このように言われた尊氏としては、はいそうですか、と了解する訳には行きません。
自分に恩賞付与権限があるから一門・家臣、そして味方はみんな頑張ったのに、今さら自分にはそんな権限はないということになったら尊氏は詐欺師扱いされてしまい、足利家当主としての権威は失墜します。
そこで尊氏としては、一旦与えた権限の勝手な撤回などできない、という当然の事理を中院具光に主張することになりますが、具光も後醍醐の勅使である以上、尊氏卿のお考えはもっともです、納得しました、とは言えません。
そこで、尊氏としては、おそらく自分の主張を奏状に認め、具光に持たせてやるような対応を取ることになったはずです。
こうして『太平記』と『梅松論』に一応の手がかりがあるいくつかの仮定を重ねてみると、九月二十七日の恩賞付与は、尊氏から見れば後醍醐の委任の範囲内の行為であり、後醍醐から見れば越権行為、という状況が生まれることになります。
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尊氏関東下向記事についての『太平記』と『梅松論』の比較

2021-08-23 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月23日(月)11時50分43秒

建武二年(1335)八月二日、尊氏が関東に下向した際に征夷大将軍を望んだという『太平記』の記述に関しては、昨年の十二月頃、相当しつこく検討しましたが、「東八ヶ国管領」は未検討のままで、『太平記』の原文もきちんと紹介していませんでした。

四月初めの中間整理(その3)(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cddb89fb0fa62d933481f0cab6994b2c

そこで、改めて原文を紹介した上で、『梅松論』の記事と比較しておきたいと思います。
『太平記』第十三巻第七節「足利殿東国下向の事」の冒頭から少し引用します。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p333以下)
なお、流布本でも内容は殆ど同じです。

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 直義朝臣、鎌倉を落ちて上洛せられけるが、駿河国入江庄は、海道第一の難所なり。相摸次郎が与党の者ども、もし道を塞〔ふさ〕がんずらんと、士卒皆これを危ぶめり。これによつて、その所の地頭入江左衛門春倫〔はるとも〕がもとへ、使者を遣はされて、憑〔たの〕むべき由を宣ひたりければ、春倫が一族どもに、関東再興の時刻到りぬと料簡しける者どもは、「ただ左馬頭を討ち奉つて、相模次郎殿に馳せ参らん」と申しけるを、春倫、つくづくと思案して、「天下の落居は、愚蒙のわれらが知るべき処にあらず。ただ義の向かふ処を思ふに、入江庄は、もと得宗領にてありしを、朝恩に下し給はつて、この二、三年が間、一家を顧みること皆日来〔ひごろ〕に勝れたり。これ天恩の上になほ重きを重ねたり。この時、いかが傾敗の弊〔つい〕えに乗じて、不義の振る舞ひを致しなん」とて、春倫、御迎ひに参じければ、直義朝臣、斜めならず悦びて、やがてかれらを召し具し、矢矧の宿に陣を取つて、ここに暫く汗馬を休め、京都へ早馬をぞ立てられける。
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西源院本では、入江春倫はこの場面だけに登場する人物です。
この時、直義の命運は入江春倫が握っていた訳で、直義の人生の中でも最大級のピンチですね。
このピンチを何とか乗り切った直義が京都へ早馬を送ると、尊氏が直ぐに救援に駆けつけてくれるかと思いきや、『太平記』では、先ず諸卿の会議で尊氏派遣が決まり、それを勅使が尊氏に伝えに行ったところ、尊氏は二つの条件を付け、それが受諾できないのなら他人を派遣してくれ、と返答するとの展開となります。

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 これによつて、諸卿議奏〔ぎそう〕ありて、急ぎ足利宰相尊氏を、討手に下さるべきに定まりにけり。則ち勅使を以て、この由を仰せ下されければ、相公、勅使に対して申されけるは、「去んぬる元弘の乱の始め、高氏、御方〔みかた〕に参ぜしによつて、天下の士卒皆官軍に属して、勝つ事を一時〔いっし〕に決し候ひき。しかれば、今一統の御代〔みよ〕、ひとへに尊氏が武功とも云ひつべし。そもそも征夷将軍の任は、代々源平の輩〔ともがら〕、功によつてその位に居する例、勝計〔しょうけい〕すべからず。この一事、殊に朝のため、家のため、望み深き所なり。次には、乱を鎮めて治を致す謀り事、士卒功ある時、即時に賞を行ふに如〔し〕く事なし。もし注進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、挙達〔きょたつ〕道遠くして、忠戦の輩勇みをなすべからず。しかれば、暫く東八ヶ国の管領を許されて、直に軍勢の恩賞を取り行ふやうに、勅裁を成し下されば、夜を日に継いで罷り下つて、朝敵を退治仕るべきにて候。もしこの両条勅許を蒙らずは、関東征罰の事、他人に仰せ付けらるべし」とぞ申されたる。
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直義が早馬で救援を依頼してきた割には尊氏はずいぶんのんびりしていて、出立を自ら申し出ることなく、公卿の会議を経て尊氏発遣を決定した旨を伝える後醍醐の勅使に対し、二つの条件を付けます。
その第一は征夷大将軍任官で、「そもそも征夷将軍の任は、代々源平の輩、功によつてその位に居する例」云々とのもったいぶった口上が添えられています。
次いで第二は「東八ヶ国の管領」で、こちらは第一の要求と異なり、当時の合戦の実態に即した極めて合理的な要求ですね。
そして、もしもこの二つの条件が呑めないのだったら、関東征伐はどうぞ別の人に命じてください、とのことですから、まるで相手の弱みにつけ込む強請りのような言い草です。
この尊氏の条件に対し、

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 この両条は天下治乱の端〔はし〕なれば、君もよくよく御思案あるべかりけるを、申し請くる旨に任せて、左右なく勅許あつて、「征夷将軍の事は、関東静謐の忠に依るべし。東八ヶ国管領の事は、先づ子細あるべからず」とて、則ち綸旨をぞなされける。これのみならず、忝なくも天子の御諱の字を下されて、高氏と名乗られける高の字を改めて、尊の字にぞなされける。
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とのことで(p335)、後醍醐は「東八ヶ国の管領」を簡単に認めてしまいますが、『太平記』の作者はこの後醍醐の対応について、「君もよくよく御思案あるべかりけるを」と厳しい批評を加えています。
なお、足利「高氏」が後醍醐から「尊」字をもらって「尊氏」に改名したのは、史実では二年前、元弘三年(1333)八月五日のことで、これはこの場面全般についての信頼性に疑問を抱かせる記述ですね。
以上で第七節は終わり、第八節「相模次郎時行滅亡の事、付 道誉抜懸け敵陣を破る 并 相模川を渡る事」に入ると、その冒頭に、駄目押しのように、

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 尊氏卿の東八ヶ国の管領の所望、たやすく道行きて、「将軍の事は、今度の功に依るべし」と、勅約ありてければ、(時日を廻らさず、関東へ下向せられける。
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との一文があります。(p335)
さて、『梅松論』の記述はどうかというと、これは『太平記』とは全く異なります。
『大日本史料 第六編之二』より引用すると、

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〔梅松論〕<〇前文七月二十二日ノ条ニ収ム> 扨関東の合戦の事、先達て京都へ申されけるに依て、将軍<〇尊氏ヲ指ス、>御奏聞有けるは、関東にをいて、凶徒既に合戦をいたし、鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして、ふせき戦ふへき智略なきに依て、海道に引退きし其聞え有上は、いとまを給ひて合力を加へき旨、御申たひたひにをよふといへとも、勅許なき間、所詮私にあらす、天下の御為のよしを申し捨て、八月二日京を御出立あり、此比公家を背奉る人々、其数をしらす有しか、皆喜悦の眉をひらきて、御供申けり、三河の矢作<〇三河碧海郡>に御著有て、京都鎌倉の両大将御対面あり、<〇下文十八日ノ条ニ収ム、>

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c570eabc77c671779a06556b40320714

とのことで、こちらは直義の危急を聞いた尊氏が、何の条件も付けることなく「いとまを給ひて合力を加へき旨、御申たひたひにをよふといへとも」、勅許が得られなかったので、「所詮私にあらす、天下の御為のよしを申し捨て」直義救援に向かった、という展開です。
『太平記』と『梅松論』の記述のどちらが正しいのかというと、『大日本史料 第六編之二』では西源院本とほぼ同一内容の流布本を引用しつつ、「東八ヶ国の管領」について、

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〇梅松論に拠るに、中院具光を鎌倉に遣りて、旨を尊氏に伝へしめられし時、軍兵の賞は、京都に於て綸旨を以て宛行ふべしとあれば、是時御委任なきこと知るべし。十月十五日の条参看すべし、
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とあって(p525)、『梅松論』が正しいとの判断がなされ、以後、これが歴史研究者の共通理解ですね。
ただ、『太平記』と『梅松論』の八月二日の記事に矛盾があって『梅松論』の方が信頼できるとされたのではなく、『梅松論』の後日の記事に基づいて『太平記』の八月二日の記述が否定されていることに留意すべきだと私は考えます。
また、『太平記』の八月二日の記事が全面的に否定されている訳ではなくて、尊氏が征夷大将軍を要求したとの点については史実とするのが従来の通説、というか歴史研究者の共通理解ですね。
こちらは『神皇正統記』に尊氏が「征夷将軍ならひに諸国の総追捕使を望けれと、征東将軍<〇印本征夷ニ作レルハ誤レリ、>になされて、ことことくはゆるされず」とあることが影響しているのだと思われます。
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