投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月26日(木)13時26分7秒
ということで『太平記』の新田義貞奏状を読み直してみると、まあ、直義による護良親王殺害以外は言いがかりですね。
まず、総論には、
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この時、尊氏、東夷の命に随ひ、族を尽くして上洛す。潜〔ひそ〕かに官軍の勝〔かつ〕に乗るを看て、死を免れん意〔こころ〕有り。然れども、猶心を一偏に決〔さだ〕めず、運を両端に相窺ふの処、名越尾張守高家、戦場に於て命を墜〔お〕としし後、始めて義卒に与〔くみ〕して、丹州に軍〔いくさ〕す。天誅命を革〔あらた〕むるの日、兀〔たちま〕ち鷸蚌〔いっぽう〕の弊〔つい〕えに乗じて、快く狼狽が行を為す。若〔も〕し夫〔そ〕れ義旗〔ぎき〕京を約〔つづ〕め、高家死を致すに非ずんば、尊氏、独り斧鉞〔ふえつ〕を把〔と〕つて強敵〔ごうてき〕に当たらんや。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/764f11e9a737d8e3ffce3715aaf34543
とありますが、尊氏が名越高家の討死を聞いて、やっと最終的に討幕を決意した、というのは『太平記』の創作だと私は考えます。
次いで八つの罪を論じる各論に入ると、第一・第二・第三の罪には、その前提となる事実関係に史実と適合しない脚色が多々含まれています。
「両家奏状の事」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3f8769a52a001e9447e5772b56f94fe
第四の罪は尊氏に成良親王への「僭上無礼」があったとの主張ですが、具体的事実の指摘はなく、そもそも鎌倉将軍府のお飾り的な存在である成良親王への「僭上無礼」自体が分かりにくい話で、単なる言いがかりです。
第五の罪は、
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前亡〔せんぼう〕の余党、纔〔わず〕かに存つて、蟷螂の怒りを揚ぐる日、尊氏、東八箇国の管領を申し賜り、以往〔いおう〕の勅裁を叙用せず、寇〔あた〕を養ひて恩沢を堅め、民を害して利欲を事とす。違勅悖政〔はいせい〕の逆行〔げきこう〕、これより甚だしきは無し。その罪五つ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcb2d4aef0659d140681ac911d464ae8
とのことですが、「東八箇国の管領」とは具体的には尊氏が独自の判断で恩賞を与えることができる権限であり、合戦の実情に適合した極めて合理的な権限であって、いったんこれを許可する「勅裁」があった以上、個々の恩賞付与に多少の偏頗があろうとも、それは尊氏に与えられた権限の正当な行使であって、「違勅」ではありません。
従って、これも単なる言いがかりです。
第六・第七・第八はいずれも護良親王関係で、第六は護良親王を「流刑に陥れ」たこと自体が尊氏の讒言によるものだとするものですが、護良の逮捕・流刑は後醍醐の正式な決定に基づくものであって、尊氏が「讒臣」ならば、後醍醐は「讒臣」を信頼した愚帝ということになります。
ま、これも言いがかりですね。
第七は、要するに護良親王を牢獄に監禁したのがけしからん、というだけの話ですが、流刑にした以上、牢獄に閉じ込めるのは当然です。
なお、『太平記』には「二階堂谷に土の獄を掘つて、置きまゐらせける」(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p278)とありますが、実際上、手間暇かけてそんな面倒なことをするとは思えず、これは明らかに『太平記』の創作ですね。
ということで、結局のところ、罪の名に値するのは第八の、
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直義朝臣、相摸次郎時行が軍旅に劫〔おびや〕かされて、戦はずして鎌倉を退きし時、竊〔ひそ〕かに使者を遣はして、兵部卿親王を誅し奉る。その意〔こころ〕、偏へに将に国家を傾けんとするの端〔はし〕に在り。この事隠れて、未だ叡聞に達せずと雖も、世の知る所、遍界〔へんかい〕蓋〔なん〕ぞ蔵〔かく〕れん。大逆無道の甚だしきこと、千古未だ此の類を聞かず。その罪八つ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae712c1ba858d2428a14c12571ed16e5
だけですね。
護良親王の流刑と監禁は後醍醐の「勅裁」の範囲内ですが、殺害は命じられておらず、こればっかりは明確に「違勅」です。
逆に言えば、尊氏の罪を問おうとしても説得力のある説明は不可能で、結局は直義の護良親王殺害の罪に連座させる以外になかった訳ですね。
ということで『太平記』の新田義貞奏状を読み直してみると、まあ、直義による護良親王殺害以外は言いがかりですね。
まず、総論には、
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この時、尊氏、東夷の命に随ひ、族を尽くして上洛す。潜〔ひそ〕かに官軍の勝〔かつ〕に乗るを看て、死を免れん意〔こころ〕有り。然れども、猶心を一偏に決〔さだ〕めず、運を両端に相窺ふの処、名越尾張守高家、戦場に於て命を墜〔お〕としし後、始めて義卒に与〔くみ〕して、丹州に軍〔いくさ〕す。天誅命を革〔あらた〕むるの日、兀〔たちま〕ち鷸蚌〔いっぽう〕の弊〔つい〕えに乗じて、快く狼狽が行を為す。若〔も〕し夫〔そ〕れ義旗〔ぎき〕京を約〔つづ〕め、高家死を致すに非ずんば、尊氏、独り斧鉞〔ふえつ〕を把〔と〕つて強敵〔ごうてき〕に当たらんや。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/764f11e9a737d8e3ffce3715aaf34543
とありますが、尊氏が名越高家の討死を聞いて、やっと最終的に討幕を決意した、というのは『太平記』の創作だと私は考えます。
次いで八つの罪を論じる各論に入ると、第一・第二・第三の罪には、その前提となる事実関係に史実と適合しない脚色が多々含まれています。
「両家奏状の事」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3f8769a52a001e9447e5772b56f94fe
第四の罪は尊氏に成良親王への「僭上無礼」があったとの主張ですが、具体的事実の指摘はなく、そもそも鎌倉将軍府のお飾り的な存在である成良親王への「僭上無礼」自体が分かりにくい話で、単なる言いがかりです。
第五の罪は、
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前亡〔せんぼう〕の余党、纔〔わず〕かに存つて、蟷螂の怒りを揚ぐる日、尊氏、東八箇国の管領を申し賜り、以往〔いおう〕の勅裁を叙用せず、寇〔あた〕を養ひて恩沢を堅め、民を害して利欲を事とす。違勅悖政〔はいせい〕の逆行〔げきこう〕、これより甚だしきは無し。その罪五つ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcb2d4aef0659d140681ac911d464ae8
とのことですが、「東八箇国の管領」とは具体的には尊氏が独自の判断で恩賞を与えることができる権限であり、合戦の実情に適合した極めて合理的な権限であって、いったんこれを許可する「勅裁」があった以上、個々の恩賞付与に多少の偏頗があろうとも、それは尊氏に与えられた権限の正当な行使であって、「違勅」ではありません。
従って、これも単なる言いがかりです。
第六・第七・第八はいずれも護良親王関係で、第六は護良親王を「流刑に陥れ」たこと自体が尊氏の讒言によるものだとするものですが、護良の逮捕・流刑は後醍醐の正式な決定に基づくものであって、尊氏が「讒臣」ならば、後醍醐は「讒臣」を信頼した愚帝ということになります。
ま、これも言いがかりですね。
第七は、要するに護良親王を牢獄に監禁したのがけしからん、というだけの話ですが、流刑にした以上、牢獄に閉じ込めるのは当然です。
なお、『太平記』には「二階堂谷に土の獄を掘つて、置きまゐらせける」(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p278)とありますが、実際上、手間暇かけてそんな面倒なことをするとは思えず、これは明らかに『太平記』の創作ですね。
ということで、結局のところ、罪の名に値するのは第八の、
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直義朝臣、相摸次郎時行が軍旅に劫〔おびや〕かされて、戦はずして鎌倉を退きし時、竊〔ひそ〕かに使者を遣はして、兵部卿親王を誅し奉る。その意〔こころ〕、偏へに将に国家を傾けんとするの端〔はし〕に在り。この事隠れて、未だ叡聞に達せずと雖も、世の知る所、遍界〔へんかい〕蓋〔なん〕ぞ蔵〔かく〕れん。大逆無道の甚だしきこと、千古未だ此の類を聞かず。その罪八つ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae712c1ba858d2428a14c12571ed16e5
だけですね。
護良親王の流刑と監禁は後醍醐の「勅裁」の範囲内ですが、殺害は命じられておらず、こればっかりは明確に「違勅」です。
逆に言えば、尊氏の罪を問おうとしても説得力のある説明は不可能で、結局は直義の護良親王殺害の罪に連座させる以外になかった訳ですね。