投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 8月29日(日)11時09分20秒
今まで『太平記』に描かれた尊氏東下場面での尊氏の二つの要求のうち、「東八ヶ国の管領」は実際に後醍醐の勅許があったものの、後に後醍醐は中院具光を通じてこの勅許を撤回した、と考えてきました。
ただ、「東八ヶ国の管領」は『太平記』に即して考えても、その実質は「直に軍勢の恩賞を取り行ふ」権限であり、「東八ヶ国の管領」という表現と正確に対応している訳ではありません。
また、九月二十七日に尊氏が恩賞として給付した土地は「東八ヶ国」より広い範囲に及んでいます。
亀田俊和氏「足利尊氏─室町幕府を樹立した南北朝時代の覇者」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc0f4edf1c7ac33e9a85447a3981beb8
この点、以前から気になっていたのですが、桃崎有一郎氏の「建武政権論」(『岩波講座日本歴史第7巻 中世2』、2014)を読み直してみたところ、「東八ヶ国の管領」問題に影響すると思われる記述がありました。
もともと私は桃崎氏の「建武政権論」をあまり高く評価しておらず、桃崎氏は佐藤進一説の駄目な部分をより駄目な方向に精緻化している人ではないかと思っていますが、当該部分には注目すべき指摘があるので、少し検討してみます。
「直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じ」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99da6cfdc6137a7819a7db87f66b3e69
「建武政権論」全体の構成は上記投稿を参照していただくとして、問題の箇所は次の通りです。(p66以下)
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3 中先代の乱と室町幕府の成立
建武二年(一三三五)七月、北条高時の遺児時行が信濃で挙兵すると(中先代の乱)、直義は鎌倉を逐われ足利氏守護分国三河へ退却した(鎌倉に幽閉中で北条氏残党と通じた形跡がある政敵護良は、時行との合流を警戒され殺害された)。この危機に際し、尊氏は自らの出陣と征夷大将軍・諸国惣追捕使(守護を統括する幕府将軍の職権)への任命を希望したが、後醍醐は京都に送還された成良を征夷大将軍に任ずる形で拒否した。尊氏が八月に独断で下向すると尊氏の支持者が顕在化し、佐々木道誉以下多数の将士が従った。慌てた後醍醐は尊氏を征東将軍に任じ、乱が鎮圧されると「恩賞は京都にて綸旨で行う」と帰京を命じた。尊氏は従おうとしたが、京都の危険性(天皇への不信)と鎌倉の安全性を主張する直義に説得され、帰京命令を無視する。そればかりか尊氏は九月末に独断で謀叛人没収地の寄進・恩賞給与に踏み切り、一〇月半ばに「若宮小路の代々将軍家の旧跡」の新造御所に移った。直義が押し切る形で尊氏は幕府将軍たる自覚と独立を明示し、鎌倉府は念願の将軍を得たのである(制度上の将軍というより、将軍に相応しい血統・実績と自覚を有する人物)。尊氏が九月の恩賞給付の一環で富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯で、そこに将軍率いる独立的幕府の発足という自覚が見出せる。ただし一一月二日に始まる軍勢催促があくまで後醍醐ではなく足利氏追討の命を受けた新田義貞の討伐を標榜し、同月中旬まで尊氏が後醍醐との和睦を画策した事実は、如上の既成事実を後醍醐が容認すると信じられた可能性、即ちこれを機に義貞を滅ぼし、建武政権内における幕府樹立を強行し、後醍醐に追認させる道が模索された形跡と解される。
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「後醍醐は京都に送還された成良を征夷大将軍に任ずる形で拒否した」云々は歴史研究者の共通認識ですが、私は『大日本史料第六編之二』以来の誤解だろうと考えています。
四月初めの中間整理(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c
また、尊氏が「征夷大将軍・諸国惣追捕使」を要求した云々は『神皇正統記』に、後醍醐の帰京命令に尊氏が従おうとしたが直義の説得で止めた云々は『梅松論』に依拠しています。
この時期の大きな流れを描く史料のうち、その信頼性を、
『神皇正統記』>『梅松論』>『太平記』
とするのは歴史研究者一般の傾向であって、桃崎氏特有ではありません。
ただ、「尊氏が九月の恩賞給付の一環で富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯で、そこに将軍率いる独立的幕府の発足という自覚が見出せる」とされる点には桃崎氏の独自性がありそうです。
さて、私は九月二十七日に尊氏が複数の恩賞給付を行なった事実は、少なくとも尊氏の主観においては「独断」ではなく、あくまで後醍醐が認めた恩賞給付権限の行使であって、何ら越権行為ではないと考えますが、ただ、「富樫高家に加賀国守護職を与えた事実」は「東八ヶ国の管領」という『太平記』の表現に照らすと、やはり相当な違和感があります。
この点をどう考えるべきか、は私にとってはけっこう大きな問題です。
今まで『太平記』に描かれた尊氏東下場面での尊氏の二つの要求のうち、「東八ヶ国の管領」は実際に後醍醐の勅許があったものの、後に後醍醐は中院具光を通じてこの勅許を撤回した、と考えてきました。
ただ、「東八ヶ国の管領」は『太平記』に即して考えても、その実質は「直に軍勢の恩賞を取り行ふ」権限であり、「東八ヶ国の管領」という表現と正確に対応している訳ではありません。
また、九月二十七日に尊氏が恩賞として給付した土地は「東八ヶ国」より広い範囲に及んでいます。
亀田俊和氏「足利尊氏─室町幕府を樹立した南北朝時代の覇者」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc0f4edf1c7ac33e9a85447a3981beb8
この点、以前から気になっていたのですが、桃崎有一郎氏の「建武政権論」(『岩波講座日本歴史第7巻 中世2』、2014)を読み直してみたところ、「東八ヶ国の管領」問題に影響すると思われる記述がありました。
もともと私は桃崎氏の「建武政権論」をあまり高く評価しておらず、桃崎氏は佐藤進一説の駄目な部分をより駄目な方向に精緻化している人ではないかと思っていますが、当該部分には注目すべき指摘があるので、少し検討してみます。
「直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じ」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99da6cfdc6137a7819a7db87f66b3e69
「建武政権論」全体の構成は上記投稿を参照していただくとして、問題の箇所は次の通りです。(p66以下)
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3 中先代の乱と室町幕府の成立
建武二年(一三三五)七月、北条高時の遺児時行が信濃で挙兵すると(中先代の乱)、直義は鎌倉を逐われ足利氏守護分国三河へ退却した(鎌倉に幽閉中で北条氏残党と通じた形跡がある政敵護良は、時行との合流を警戒され殺害された)。この危機に際し、尊氏は自らの出陣と征夷大将軍・諸国惣追捕使(守護を統括する幕府将軍の職権)への任命を希望したが、後醍醐は京都に送還された成良を征夷大将軍に任ずる形で拒否した。尊氏が八月に独断で下向すると尊氏の支持者が顕在化し、佐々木道誉以下多数の将士が従った。慌てた後醍醐は尊氏を征東将軍に任じ、乱が鎮圧されると「恩賞は京都にて綸旨で行う」と帰京を命じた。尊氏は従おうとしたが、京都の危険性(天皇への不信)と鎌倉の安全性を主張する直義に説得され、帰京命令を無視する。そればかりか尊氏は九月末に独断で謀叛人没収地の寄進・恩賞給与に踏み切り、一〇月半ばに「若宮小路の代々将軍家の旧跡」の新造御所に移った。直義が押し切る形で尊氏は幕府将軍たる自覚と独立を明示し、鎌倉府は念願の将軍を得たのである(制度上の将軍というより、将軍に相応しい血統・実績と自覚を有する人物)。尊氏が九月の恩賞給付の一環で富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯で、そこに将軍率いる独立的幕府の発足という自覚が見出せる。ただし一一月二日に始まる軍勢催促があくまで後醍醐ではなく足利氏追討の命を受けた新田義貞の討伐を標榜し、同月中旬まで尊氏が後醍醐との和睦を画策した事実は、如上の既成事実を後醍醐が容認すると信じられた可能性、即ちこれを機に義貞を滅ぼし、建武政権内における幕府樹立を強行し、後醍醐に追認させる道が模索された形跡と解される。
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「後醍醐は京都に送還された成良を征夷大将軍に任ずる形で拒否した」云々は歴史研究者の共通認識ですが、私は『大日本史料第六編之二』以来の誤解だろうと考えています。
四月初めの中間整理(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c
また、尊氏が「征夷大将軍・諸国惣追捕使」を要求した云々は『神皇正統記』に、後醍醐の帰京命令に尊氏が従おうとしたが直義の説得で止めた云々は『梅松論』に依拠しています。
この時期の大きな流れを描く史料のうち、その信頼性を、
『神皇正統記』>『梅松論』>『太平記』
とするのは歴史研究者一般の傾向であって、桃崎氏特有ではありません。
ただ、「尊氏が九月の恩賞給付の一環で富樫高家に加賀国守護職を与えた事実は天皇固有の守護任命権に対する明白な侵犯で、そこに将軍率いる独立的幕府の発足という自覚が見出せる」とされる点には桃崎氏の独自性がありそうです。
さて、私は九月二十七日に尊氏が複数の恩賞給付を行なった事実は、少なくとも尊氏の主観においては「独断」ではなく、あくまで後醍醐が認めた恩賞給付権限の行使であって、何ら越権行為ではないと考えますが、ただ、「富樫高家に加賀国守護職を与えた事実」は「東八ヶ国の管領」という『太平記』の表現に照らすと、やはり相当な違和感があります。
この点をどう考えるべきか、は私にとってはけっこう大きな問題です。