学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「大石慎三郎先生の思い出」

2014-08-07 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月 7日(木)21時39分50秒

>筆綾丸さん
五郎兵衛新田といえば学習院大学の大石慎三郎氏(1923-2004)のお名前を連想する人も多いでしょうね。
検索してみたら、高埜利彦氏の「大石慎三郎先生の思い出」というエッセイの冒頭に五郎兵衛新田が登場していました。(PDF)

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 愛媛県生まれの大石先生を、私はずっと信州のお生まれであると思っていた。国史学科の学生であった私が、日本近世史の勉強を志すようになった頃、研究室に配架されていた大石先生の著書を手に取り、表紙をめくると、そこには信州佐久郡五郎兵衛新田村の農業用水の配水の順番を記した絵図のような人名図の写真が掲載されていた。17世紀の初頭に市川五郎兵衛という旧領主が出資しておよそ20㎞の用水路を開墾してできた村落の五郎兵衛新田にとって、農業用水とその配水の順番の持つ意味は特に重要であった。だからこそ大石先生も著書の巻頭にそのめずらしい配水順の図の写真を掲載していたのであろう。未熟な学生であった私には、その著作である『封建的土地所有の解体過程』(御茶の水書房、1958年刊)の論文の本体よりも巻頭の写真にばかり強い印象を残すことになった。


先に引用した市河三喜の「父を語る」、続きの部分も載せておきます。

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 われわれの先祖はこの分家で塩沢の出である─ この辺沢のつく地名が多い。寛斎の祖父は寛斎と同じく通称を小左衛門と称し、その墓は下仁田の清泉寺にあって先年親しく展墓の機会を得た。その子、即ち寛斎の父が蘭臺で細井廣澤に学んで書をよくした。墓は川越の妙養寺にある。蘭臺は人に求められてもなかなか書かなかったから、その筆蹟の伝わっているもの甚だ稀で、家にも僅かに一二点あるばかりである。寛斎も儒者ではあったが書も巧みであって、人によっては米庵の書よりも好きだという人もある。
 ながながと祖先を語ったが、寛斎と米庵の事は比較的世に知られているけれども、その前のことは全く世に埋もれているので、隠れたるをあらわす意味で、古い数珠をつまぐって、粒の大きいのを二つ三つ拾い上げ、父を語るプロローグとしたのである。
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市河三喜が下仁田町・南牧村を訪問したのは昭和二十年代のようですが、記述に若干の地理的混乱があるようで、前回引用した部分、「この祖先は市川五郎兵衛といって上州羽沢の更に奥にある砥沢の関守で、峠を越えて信州に出て・・・」に登場する羽沢(はざわ)と砥沢(とざわ)は順序が逆で、砥沢が手前、下仁田町側です。
砥沢にはその名の由来となった砥石の鉱山があり、もともと市川五郎兵衛は砥石鉱山の管理をしていて、そこで培った土木技術を新田開発のトンネル堀りなどに応用したようですね。
また、塩沢は砥沢のかなり東、下仁田町との境界付近から少し北に入ったところにあり、先日、久しぶりに行ってみましたが、市河家の屋敷跡は分かりませんでした。

「砥沢 砥石の採掘で栄えた山間の集落」(個人ブログ)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

蓼食う虫 2014/08/06(水) 21:01:41
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%AB%B8%E8%97%A9
五郎兵衛記念館の紹介文に「こうした功績が認められて五郎兵衛は、寛永19年(1642)に小諸藩から、150石の土地を褒美領として与えられています」とあり、かなり異例の処遇かと思われますが、松平家改易後、「150石の土地」は安泰だったのか、気になりました。

何の関係もない話で恐縮ですが、今週号の『週刊新潮』を立ち読みしていて、ふーん、と思いました。
以前、ここで話題になった東大教授安富歩は女装で勤務しているとかで、蓼食う虫も好き好きというか、ずいぶん寛容な職場環境なんですね。
「(僕は)身体的には男性で、性的対象は女性であるが、自己認識的には女性性が強いんだ」(記憶による)とあって、この程度の自己分析では女装の必然性は感じられないものの、これが女装のロジックのようです。愛嬌もさることながら度胸もある人ですが、ただ惜しむらくは、五十を過ぎて女装とは、女に目覚めるのが遅すぎる・・・。

http://www.bbc.com/news/science-environment-28658269
BBCも報じているのですね。 "witch-hunt"か・・・。
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「原発関連死」の原因をつくった人々

2014-08-07 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月 7日(木)21時16分52秒

>筆綾丸さん
>安富歩
これですか。


保立道久が島薗進・安冨歩らと一緒に行っていた「東京大学原発災害支援フォーラム」のサイトを久しぶりにみたら、昨年2月を最後に更新を止めているようですね。


原発事故に際して科学者として最も理性的に行動して社会の混乱を終息させるのに貢献した代表者を早野龍五氏とすれば、逆にデマばかり流して社会の混乱を増幅させた代表格が島薗進・安冨歩で、東大教授も本当にピンからキリまでいますね。

早野龍五氏

原発事故が起きた直後の時期は、学問的業績と原発事故への対応は一応別に考えるべきだろうと思っていましたが、「封建制」という概念を歴史学の世界から放逐しろ、などという保立道久の近年の主張を見ると、やはり変な社会的活動をする人は学問的にもやっぱり変だよな、というのが最近の結論です。

「原発関連死」の原因をつくった人々

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

蓼食う虫 2014/08/06(水) 21:01:41
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%AB%B8%E8%97%A9
五郎兵衛記念館の紹介文に「こうした功績が認められて五郎兵衛は、寛永19年(1642)に小諸藩から、150石の土地を褒美領として与えられています」とあり、かなり異例の処遇かと思われますが、松平家改易後、「150石の土地」は安泰だったのか、気になりました。

何の関係もない話で恐縮ですが、今週号の『週刊新潮』を立ち読みしていて、ふーん、と思いました。
以前、ここで話題になった東大教授安富歩は女装で勤務しているとかで、蓼食う虫も好き好きというか、ずいぶん寛容な職場環境なんですね。
「(僕は)身体的には男性で、性的対象は女性であるが、自己認識的には女性性が強いんだ」(記憶による)とあって、この程度の自己分析では女装の必然性は感じられないものの、これが女装のロジックのようです。愛嬌もさることながら度胸もある人ですが、ただ惜しむらくは、五十を過ぎて女装とは、女に目覚めるのが遅すぎる・・・。

http://www.bbc.com/news/science-environment-28658269
BBCも報じているのですね。 "witch-hunt"か・・・。
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市河or市川

2014-08-06 | 南原繁『国家と宗教』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月 6日(水)09時42分3秒

>筆綾丸さん
>市川鶴鳴
上野高崎の人なんですね。
市河寛斎との縁戚関係は知りませんが、少なくとも「川」「河」の違いはあまり重要ではないと思います。
市河寛斎は西上野の「南牧衆」の出自で、本家に信州の五郎兵衛新田を開いた市川五郎兵衛がいることもあって市川一族の研究はそれなりに進んでいますが、史料上は「市川」も「市河」も出てきて、昔からあまり厳密に表記している訳ではないようですね。
最近、恩田登氏の「戦国期西上野地域領主の史的考察─南牧衆中の市川氏について─」(『武田氏研究』第47号、2013年)という論文を読みましたが、16世紀の史料でも「市川」と「市河」が混在しているようです。
ちなみに市河三喜は先祖について次のように書いていますね。(『旅・人・言葉』ダヴィッド社、昭和32年、p246以下)

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父を語る

 先祖をほめたり誇ったりすることは、自分自身に取り柄のないことを示すもので、「清和源氏の流れ云々」と言っても、世間はエライとも何とも思わない。イモづるの先きのようにアクがあって、味のいい部分は地面の下にあると思うだけである。
 清和源氏といえば、市川の流れもその支流か末流になり、曽祖父寛斎が富山藩の教授として有司に提出した履歴のうちに、「私本家は甲州武田一族にて応永年中より隣国上州甘楽郡南牧山中に潜居罷在候」という文句がある。武田氏は清和源氏である。清和天皇の時代はイギリスではアルフレッド大帝のころにあたるが、その第六皇子貞純親王の子の基経が姓源を賜わってから摂津守○○、河内守○○、伊豫守○○を経て新羅三郎義光に至り、甲斐守に任ぜられた。その二男義清が甲斐国市川荘(今の市川大門)に住して武田冠者と言い、それから長い系図を経て信玄勝頼になるわけである。一方義光十二代市川四郎満義は甲斐信濃の源氏と共に新田義貞に属して諸処に戦功をたて、遂に越前の金ヶ崎で討死した。その子五郎満久は新田義興に従って、武蔵矢口の渡しで殉死した、新田十騎士の一人である。『前賢故実』にはその画まで出ていて、「市川五郎衣ヲ脱ギ刀ヲフクム、泳イデ岸ニ登リ十八人ヲ殺傷ス」というから、武勇すぐれたつわものであったに違いない。これが先祖である。「郷民祠ヲ建テ十騎大明神トアガムルモノ是ナリ」とあるから、神社は今でもあるだろう、つい行ってもみない。
 先年山伏町の宅に突然一人の来客があった。名刺を見れば「市川一(旧姓武田)」とあって本郷あたりで時計直しをしている人らしい。「承ればあなたの御先祖は武田信玄と御縁があるそうだが手前は信玄の直系の子孫で何分お心易く」というようなことを言って、信玄がどうしたの、勝頼からどう分れたのととうとうと系図を述べたてて帰っていった。ゴリラが猿の親交を求めに来たようなわけだが、共通の先祖が信玄でなくて秀吉だったら面白かったにと思った。
 前述の五郎満久が矢口の渡しで死んだ時その子僅かに三歳、家僕と連れて上州甘楽郡南牧の山中にかくれ開墾に従事し、子孫栄えて一村をなした。今日の羽沢である。高崎から電車で下仁田へ行き、バスに乗って川に沿うて上る途にある。この辺市川の姓多く、すれ違うトラックにも「市川運送店」とあり、「市川医院」などの看板も目につく。このころから代々、四郎(兵衛)・五郎(兵衛)と交互に名のるようになったらしい。今日も市川四郎だか五郎だかが信州岩村田附近の五郎兵衛新田にいるが、この祖先は市川五郎兵衛といって上州羽沢の更に奥にある砥沢の関守で、峠を越えて信州に出て、土地山川の形成を観察し、トンネルを作って水利の便をよくして新田を開拓した。数村皆その徳を仰ぎこれを「五郎兵衛新田」と称し、没後その埋葬の地に神社を建てた。当代の四郎か五郎かはそこの神主である。これが徳川家康時代のことで市河の本家の祖先になる。
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「イモづるの先きのようにアクがあって、味のいい部分は地面の下にある」や「ゴリラが猿の親交を求めに来たような」など、実にシニカルで面白いですね。

十騎大明神
五郎兵衛記念館

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

「対外諜報戦略企画チーム」 2014/08/04(月) 21:27:46
小太郎さん
http://www.spiegel.de/international/world/israel-intelligence-eavesdropped-on-phone-calls-by-john-kerry-a-984246.html
イスラエルの諜報機関がケリー国務長官の電話を盗聴していた、とドイツのシュピーゲルが素破抜くとは、現在の混沌とした世界情勢の象徴のようではありますね。

「In addition to the Israelis, at least one other intelligence service also listened in as Kerry mediated last year・・・」の「少なくとももう一つの諜報機関」とは、どこの国なのか、興味を惹かれますが、ロシア、中国、イランのどれかでしょうか。
日本の諜報機関ならば(あるとしての話ですが)、盗聴されることはあっても、(国内はともかく国外を)盗聴することは、武士道の精神に反するから、ありえないのでしょうね。
冒頭「SPIEGEL has learned from reliable sources that・・・」の「信頼できる筋」とは、ドイツの諜報機関のことでしょうか。 NSAにはさんざん煮え湯を飲まされているから。

「政府は1日、海外への情報発信を強化する方法を検討する「対外広報戦略企画チーム」(チームリーダー・世耕弘成官房副長官)の初会合を開いた。」という記事を読むと、世界の情報戦から取り残された田舎の益体もない井戸端会議のような感じがしてきますね。いやいや、これは目くらましの会合であって、実は(歌舞伎のように)・・・というのであれば、凄いんだけれどもな。

『葛花』再発見 2014/08/05(火) 12:51:10
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/07/102276.html
田中康二氏『本居宣長』をパラパラ捲ると、次のような記述があります。
---------------
宣長は生涯において、多くの論争を繰り広げたけれども、特に五十歳代は歴史に残る三つの論争を経験した。(中略)
まず一つ目は、安永九年(一七八〇)十一月二十二日著わされた『葛花』論争である。(中略)
この書物は『末賀乃比礼(まがのひれ)』を対象にして書かれたもので、「或る人」とは市川鶴鳴(一七四〇~一七九五)のことである。鶴鳴は荻生徂徠系の儒学者で、宣長の門弟田中道麿(一七二四~一七八四)の友人であった。道麿が鶴鳴に『直霊』を見せたところ、鶴鳴は聖人の道を尊重しない宣長の態度に業を煮やして批判書を執筆したという。(137頁~)
---------------
http://kotobank.jp/word/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E9%B6%B4%E9%B3%B4
市川鶴鳴は市河寛斎と縁戚関係にあるのかと思いましたが、川(河)の字が違いました。なお、葛花は毒酒に酔い痴れた人を覚醒させる働きがあるそうで、儒学に憑りつかれた鶴鳴への、医師を生業としながらも国学に憑りつかれた宣長からの、馬鹿な奴め、という揶揄なんだそうです(140頁)。

釈超空の「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」という歌は評価が高いにもかかわらず、句読点も変態的で、どこが佳いのか、私には全く謎の歌ですが、もしかすると、この「葛の花」は宣長の「葛花」を踏まえていて、前人未踏の業績を残した大学者本居宣長へのオマージュなのかもしれない、と思われました(この勘は案外当たっているような気がする)。どうということもない歌ですが、折口信夫には感慨深いものだった、この山道は敷島の道に通ずるものなのに、踏んづけて邪魔をした一人に、市川鶴鳴という腐れ儒者などもいた・・・。
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「対外広報戦略企画チーム」

2014-08-02 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月 2日(土)09時40分45秒

ちょうど1年前、日経でこんな記事が出ていますね。

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政府、対外広報強化へチーム初会合
2013/8/1 20:10

 政府は1日、海外への情報発信を強化する方法を検討する「対外広報戦略企画チーム」(チームリーダー・世耕弘成官房副長官)の初会合を開いた。政権の経済政策「アベノミクス」や和食など日本の文化を日本語と英語で伝えるパンフレットをつくり、海外の日本企業に情報発信してもらうことなどを議論した。領土や歴史認識を巡る政府の見解も盛り込む考え。海外での広報活動を強める中国や韓国に対抗する。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0103K_R00C13A8PP8000/

その後、なぜか「対外広報戦略企画チーム」に関する続報がなく、検索してみたら今年の3月の時点で、全然活動しておらんではないか、と怒っている人のブログもありました。

「団塊の世代のつぶやき」
http://dankaida.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-0dac.html

毎日の村尾哲記者の記事にも世耕弘成氏の名前が出でいますから、おそらく「対外広報戦略企画チーム」の活動の一環なのでしょうが、それにしても動きが遅い感じは否めないですね。
書籍英訳については、河合隼雄氏が文化庁長官だった時期に「現代日本文学翻訳・普及事業」が始まったものの民主党の「事業仕分け」で廃止されてしまった、という経緯もありますね。

文化庁「現代日本文学翻訳・普及事業」の問題点
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/706f67d71d002e6817b67620e7842336

私はそもそも書籍という媒体にこだわっている時点で時代遅れのような印象を受けているのですが、世耕弘成氏の周辺にいる人々にはそのような感覚はないのでしょうか。
前にも書きましたけど、費用対効果を考えたら、日本史に関するウィキペディアの英文記事を充実させるのが一番良いように思いますね。
村尾記者の記事にある8000万円という数字は悪い冗談だとしか思えませんが、その程度の費用であっても、英語も出来る若手歴史研究者を例えば年収500万円で16人雇って、一年間ひたすらウィキペディアに投稿してもらったら、けっこう充実した情報提供ができるように思います。

国際日本文化研究センター Wikipedia部
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0186112c5800896aca2553691aabfebc
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史上初処刑

2014-08-01 | 歴史学研究会と歴史科学協議会
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月 1日(金)22時00分34秒

>筆綾丸さん
>二人がムスリム
杜世忠の一行五人の中にウイグル人が二人いるそうで、この二人のことですかね。
全員が龍ノ口で斬首されてしまっていますから、ムスリムとの素晴らしい出会いとは言いがたいようですね。

杜世忠

書籍英訳に関する記事を執筆した毎日新聞の村尾哲記者は鹿児島支局で4年半過ごした後、今年の四月に政治部に配属されて首相番になったそうです。
他社の同種記事がないのは、今のところあくまで村尾記者の独自取材に留まっているからのようです。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ムスリムの史上初来日 2014/07/31(木) 22:48:06
小太郎さん
http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/greetings.html
有識者7人の内に図書館学の人がいて、なんとなくピントがずれているような気がしましたが、国立国会図書館長大滝則忠氏をさしているのでしょうね。それにしても、約8000万円というのは笑えます。

http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0725-c/
内田樹氏と中田考氏の『一神教と国家』を読み始めたのですが、中田氏は一風変わったイスラーム学者ですね。
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内田 ちなみに、日本にイスラームが入ってきたのは? 明治時代?
中田 はい。オスマン帝国から明治天皇に対して正式な使者がやってきましたので、その時が始まりと言えば始まりです。それ以前にも個人のレベルで江戸時代にムスリムが一人二人やってきたという記録はあります。しかし、社会に影響を及ぼすほどではありませんでした。
内田 あとは、鎌倉時代の元寇の時にムスリムが来たと聞いたことがあります。
中田 フビライの使節がやってきまして、そのうちの二人がムスリムだったそうです。しかし、鎌倉幕府は外交の常識がなくて、つかまえて斬首してしまいました。
内田 初来日のムスリムは首を斬られたんですか・・・。それは申し訳ない話です。(34頁)
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フビライの使節の内、二人がムスリムだったとは、知りませんでした。

追記
http://www.asahi.com/articles/DA3S11277054.html
http://www.books-yagi.co.jp/pub/cgi-bin/bookfind.cgi?cmd=d&mc=m&kn0=20&ks0=90-74822-22-3&pr=&kw=18
ユルン・ラマース氏はポルトガル文献のスペシャリストとのことですが、こういう優秀な人が日本の歴史研究に参入しているのは、心強いですね。
『The Japanese warlord Oda Nobunaga reconsidered』(武将 織田信長―在外史料による再考察)は、読んでみたいですね。とくに最終章「Chapter 10 Climax and Anticlimax:1581-1582」などは惹かれます。warlord を辞書でみると、田舎の武将という意味と独裁者(暴君)という意味があって面白いですね。(蛇足ながら、戦国時代の研究者で、この本を参考文献に挙げている人はいるのかな?)
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