学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『血族』の世界

2015-01-09 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 9日(金)22時54分43秒

>筆綾丸さん
>東西に於ける紺屋の差別の有無
この話自体は興味深い内容ですね。
渋沢栄一だって家業は藍玉の製造・販売ですから、東国では紺屋への差別など本当に想像しにくいですからね。

渋沢栄一記念財団

さて、そもそも『僕の叔父さん 網野善彦』がどこまで信頼できるのか、という問題について少し検討しておきます。
意地の悪い見方をすれば、この本は中沢進一が<我こそ「網野史観」の正統な後継者なり>と宣伝するために作った本だから、そこに引用されている網野氏の発言も中沢が自分の都合の良いように創作・改変したものだ、という疑いが生じる余地はあります。
ただ、同書の「あとがき」には、

------
網野真知子さんは、私には叔母にあたる人であるが、この人が私の記憶違いや不正確な記述を指摘してくださったおかげで、この本は事実に関しても信用度の高いものになることができた。(p185)
------

とあり、特に相生山「生駒庵」の場面は網野真知子氏本人と息子・娘も登場するのですから、ま、相当に信頼できるものと扱ってよいように思います。
次に確認しておきたいのはこれが何時の話なのかですが、網野氏が名古屋大学文学部助教授として名古屋に単身赴任したのが1967年で翌年に家族が同居、そして1960年生まれの「徹哉君」(東京大学大学院総合文化研究科教授、ラテンアメリカ史)と1962年生まれの「房子ちゃん」(専修大学文学部准教授、文化人類学・民俗学)がともに小学生ということですから、1970年前後と考えてよさそうですね。
そして私の疑問は、中沢氏の集めた「生駒庵」の情報だけを見ても、「ご主人夫婦の過去」が「若い頃は大須観音のあたりで浪曲師をしていた」などというものでないのは明らかではないか、というものです。
私は、この「ご主人夫婦」は山口瞳の『血族』に登場する人たちと同じ立場の人ではなかろうか、つまり遊郭の関係者ではないだろうか、と思っています。
多少の説明は後でしますが、結論自体は自明であって、問題はむしろ、なぜ網野善彦氏と中沢進一氏がそれに気づかないのか、ということの方ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

彦阿彌 2015/01/09(金) 19:15:46
小太郎さん
『僕の叔父さん 網野善彦』には、東西に於ける紺屋の差別の有無に言及した後で、網野氏が網野町について語ったものとして、次のような記述がありますね。時宗まで動員するとは・・・。
---------
「中沢という家も、たぶん網野という家も、山梨に住みついてきたおかげで、差別を体験しなかったというだけなんだよ。網野の家は丹後の出身だと、ぼくはにらんでいる。日本海に面した小さな漁師町から、甲州にやってきたのが網野の一族だったんだよ、きっと。中世にはあのあたりは武田家の所領だった時代があるからね。アミというからには時宗と関係していたかもしれない。あきらかに常民ではないと思うよ。(後略)
---------

http://homepage1.zashiki.com/HAKUSEN/kuzukahi1/kuzukahi1.htm
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。
 この山道を行きし人あり
釈超空の歌について、中沢・網野両氏が深読みを披露していますが(168頁)、折口の『自歌自註』は、
---------
壱岐は島でありながら、伝説の上では神代の一国である。それだけに海としても個性があり、山としても自ら山として整うた景色が見られた。蜑の村に対して、これは(島山)陸地・耕地・丘陵の側を眺めたものが集まってゐる。山道を歩いてゐると、勿論人には行き逢わない。併し、さういう道に、短い藤の紫の、新しい感覚、ついさっき、此山道を通って行った人があるのだ、とさういふ考えが心に来た。もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行った人を推理してゐる訳ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するやうな表現をとる場合も多いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱ふべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌ったので、今も自信を失ってゐないし、同情者も相当にあるやうだが、この色あたらしの判然たる切れ目が、今言った論理的な感覚を起し易いのである。
---------
とのことなので、両氏の深読みを聞いたら、能登の海の彼方の幽世(かくりよ)に棲むマレビトはオオクニヌシとともに吃驚仰天しているかもしれないですね。それはともかく、折口の論理的かつ非論理的な文章は、例の如く何が言いたいのか、よくわかりません。人でもなく猿や鹿でもなく、物理に反するが、あんまり綺麗なので本当に道に踏まれたんだ・・・と? あるいは、葛の花を踏みしいたのは遊行中の一遍か。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相生山「生駒庵」の謎(その3)

2015-01-08 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 8日(木)23時31分36秒

更に続きます。(p27以下)
これで一応完結ですが、解説は後ほど。

--------
 私たちの反応がよかったのに気をよくしたのか、ご主人はつぎつぎと自慢の収蔵品を取り出してきた。それはみごとな逸品ばかりだったが、中でも圧巻だったのは、薄布を被せた浮世絵がご開陳された瞬間で、そこには後光が射してくるほどに荘厳な、×××××があらわれたのである。×××××とそれを×××××××××、××は××××××××××××××、××××××××××××××××××××、××××××××××。さすがの網野さんも、ここまでくると得意の「ほおー」さえ出なかった。
 二時間ほどもそのお店にいただろうか、ぐったりした私たちはようやく「生駒庵」をあとにした。潅木の林を通り抜けて、団地の部屋に戻るあいだ、誰もが無口だった。気まずいものを見てしまったというよりも、そこで見せられた品々の迫力に、誰もが圧倒され、打ちのめされていたのだ。それはほとんど宗教的な感動といってもよかった。団地の一角にこんなとてつもない「悪の空間」がひそんでいようとは。そこでは、はっきりと悪は自然と結びついていた。
 部屋にたどり着くまでに、さっきまでの打ちのめされた状態からようやく立ち直った悪党の研究家は、今さっき自分たちが体験してきた世界の意味を、はっきり理解しようとつとめている様子だった。そこには、中世語の「悪」の本来的な意味が、まざまざと活動していたからである。霞網をつかっての「鳥刺し」、若い頃は大須観音のあたりで浪曲師をしていたというご主人夫婦の過去、けっして社会の表街道を歩こうとはしない強い意志、忍びの者のような動物的にしなやかな身ごなしとたたずまい、そしてむせかえるように濃厚なエロティシズム。すべてが「自然」であった。農業が手を加え穏やかなものに改造してきた「自然」とは異質な、なまなましく、荒々しく、美しい、別の種類の「人間的自然」が、そこには息づいていた。
「あれが人間の『自然』なんだよ。ああいう『自然』が没落していったあとに、今あるような世界がつくられてきたんだ。農業によってつくられてきた『日本』の向こう側に、ああいう『自然』によって生きてきた別の世界が、広がっているんだ」
「それが団地のすぐそばに生き残っていようとは思わなかったね」
 みんなが名古屋を見直したね、とうなずき合った。そのとき網野さんの心の中で、「非農業的自然」に対する鋭い感受性が、生き生きと活動しているのを、私ははっきりと見届けた。私はその夜、九州から持参したおみやげの芋焼酎をたらふく飲んで、大きな声でパパゲーノの歌を歌った。相生山の丘陵地に隠れ住む、もう一人の「鳥刺し」の人生を、みんなでほめたたえながら。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相生山「生駒庵」の謎(その2)

2015-01-08 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 8日(木)23時26分30秒

続きです。(p25以下)

---------
 入り口に立つと、小づくりな体つきをしたきれいなおばあさんが出てきて、きちんと手をそろえて挨拶したあと、私たちを奥の座敷へと案内した。叔母は「父ちゃん、この店高いんじゃない」と心配そうに小声でささやいていたが、私への手前もあってか網野さんは聞こえないふりをしていた。まだ小学生だった二人のいとこもいっしょに、座敷に座り込んでみると、私たちはみんな自分たちがいかに異様な世界にまぎれ込んでしまったかを、それぞれの体験と理解に合わせて知ったのだった。
 鴨居のところには大きな団扇が取りつけてあって、それが電動装置によってバッタンバッタンと上下して、客に風を送る仕組みになっていた。団扇には天狗の顔が描き込んであるのだが、その天狗の鼻が妙にいやらしい形と色をしているのである。目を違い棚のほうに移すと、そこにはお多福や舞子の人形がいくつも並んでいた。どれも一見するとふつうの人形のように見えて、何か仕掛けがあるようないかがわしさをたたえている。その横には、民俗学者でもある父親の書斎に置いてあるのとよく似た、××や×××をかたどった石や土の人形が鎮座しているし、壁にかけられてある浮世絵の上には、ご丁寧に薄い布が被せてあって、なにが描かれているのか見えないようになっていた。
 無邪気にニコニコしているまだほんとうに幼かったいとこの房子ちゃんを除いて、その場に居合わせた全員が「しまった!」と感じていた。まさか団地の脇に取り残された潅木林の中に、こんな粋な施設があろうとは、誰も想像していなかったからである。そのうちに「生駒庵」の小柄な体つきのご主人が粋な和服姿であらわれ、「ようこそいらっしゃいました」と、畳に手をついて挨拶するのだった。
「つぐみ、すずめ、はと、きじ、野鳥ならなんでも焼いてさしあげます」
「ほお、どうやって手に入れた野鳥なのですか」と網野さんが身の乗り出してたずねた。
「わたくしが霞網でつかまえてきたものでございます。めったなことでは口に入らなくなった野鳥もございます。ごゆっくりなさっていってくださいませ」
 しばらくして、大きな九谷焼の皿に盛られた野鳥の焼き鳥が運ばれてきた。つぐみ、すずめ、はと、それに名をあかしてくれない野鳥。焼き鳥はどれもおいしかった。食事がひととおり進んだところで、ご主人は私たちにビールをすすめたあと、立ち上がってお多福の人形を取り出してきた。
「ごらんくださいませ」とだけ言って、ご主人は人形を仰向けにしてみせた。すると人形の中から×××××××××××××があらわれた。舞子の人形の×××には、×××××××××××××××××××××××××しているところが、描かれていた。網野さんは大きな目を剥いて「ほおー」とうなり、叔母は絶句し、いとこの徹哉君は目を見張り、私は息を呑んだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相生山「生駒庵」の謎(その1)

2015-01-08 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 8日(木)23時21分42秒

網野町のことは中沢新一氏の単なる知識不足で、まあ、どうでも良いような話ですが、中沢氏が『網野善彦を継ぐ。』(講談社、2004年6月)の次に出された『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社、2004年11月)には(私見では)本当に深刻な勘違いがありますね。
しかも、中沢新一氏のみならず、網野善彦氏とその一家を巻き込んだ壮絶な勘違いで、結果的に網野善彦氏の学問にも大きな影響を残したように思えます。
そこで長文になってしまいますが、関係部分を少し丁寧に引用してみます。(p20以下)
なお、引用文中、いささか当掲示板の品位にかかわる表現があるので、その部分は伏字とします。
興味を持たれた方は、どうぞ『僕の叔父さん 網野善彦』を購入して自ら確認していただきたいと思います。

-------
 大学生になると、私と網野さんのつきあいはいっそう深まっていった。都立北園高校の先生をしながら書き上げた『中世荘園の様相』(一九六六年)を出版したあと、網野さんは名古屋大学に職を得ることになった。最初は単身赴任だったが、一年ほどして家族みんなで名古屋に住むようになった。昭和区(現天白区)相生山の広漠とした丘陵地帯に建てられた新しい団地アパートが、今度の住まいである。
 私は大学生になってから、沖縄や奄美や、鹿児島の南方に点在する離島に、足繁く旅をするようになった。たいていは夜行列車と船を利用しての旅だったから、九州からの帰り道にはかならず名古屋で途中下車して、いそいそと相生山の団地へ向っていった。
(4ページ中略)
 その頃の名古屋の郊外の丘陵地に続々とつくられていた住宅地は、どこも潅木の生い茂る原野の只中に立っているような、じつに殺風景な風情をしていた。風が舞い上がると、乾燥した白っぽい砂埃が、目に飛び込んできた。いたるところで土地の掘り崩しや地ならしがおこなわれていた。癖の強い美濃の世界が切り崩されて、かわってその上に平均に地ならしされた福祉社会がつくられようとしていた。網野さんの一家と私は、その日曜日の午後、団地の周辺に広がる潅木の林を抜けながら、激しい勢いで変貌をとげつつあるこの郊外の丘陵地帯の散策を行った。
 歌を歌ったり冗談を言い合ったりしながら、潅木の林の中を歩いていると、突然目の前に古い小さな日本家屋が出現した。民家のようでもあるけれど、どことなく水商売風の雰囲気も漂っている。見ると入り口には「生駒庵」という看板が掛けてあり、その脇に「焼き鳥、野鳥もあります」と染め抜いた旗が、風になびいている。こんなところに焼き鳥屋があるのも不思議だったが、網野さんは何かピンときたらしく、お腹もすいたし、どうだい、焼き鳥を食べてみようよ、とずんずんその庵に入っていってしまうのだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽咋市の思い出

2015-01-08 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 8日(木)23時18分33秒

>筆綾丸さん
>中沢・赤坂両氏
ちょっと思い込みの激しいところは共通していますね。

>能登一ノ宮気多大社
私も一度だけ参詣したことがあります。
神社本庁離脱を図り、文科省と裁判で争ったので一部で有名な神社でしたが、ウィキペディアを見たら、結局、気多大社側が勝訴したようですね。

ご紹介の羽咋市のページには「(折口が)歌人としても得意な才能を発揮しました」とありますが、これは「特異」ですかね。
私にとって羽咋市で一番印象に残ったのは気多大社でも折口父子でもなく、「日本で唯一車で走れる砂浜 千里浜(ちりはま)なぎさドライブウェイ」でした。
普通車で砂浜を走る爽快さは今でも忘れ難いですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

土田杏村 2015/01/08(木) 22:09:24
小太郎さん
中沢・赤坂両氏は網野氏に関心があるのに、網野氏の関心の対象であった網野町の所在地に無頓着というのは、不思議なことですね。

石川公彌子氏の『〈弱さ〉と〈抵抗〉の近代国学』を所々読んでみたのですが、どうも、あまり面白くありません。
氏は、大学時代、ある事件に巻き込まれて精神的に病み、休学して廃人のような日々を過ごした(「あとがき」246頁)という経験から、近代国学の<弱さ>の表象ともいうべき折口信夫のテキストを詠み込んだそうです。

http://www.city.hakui.ishikawa.jp/sypher/www/info/detail.jsp?id=2256
「折口の墓がある能登一ノ宮気多大社はオオクニヌシを祀っており、地形的にも出雲大社と類似性がある」(註 第三章74、242頁)とありますが、これだと、折口の墓が大社の境内にあるように読めてしまいます。むかし訪ねたときの記憶では、折口の墓は大社のすぐ近くにありましたが、境内ではなかったですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%B0%B7%E5%BE%A1%E6%9D%96
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2013/06/102222.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%B0%E6%9D%8F%E6%9D%91
冨士谷御杖の「言霊倒語論」を象徴主義とする土田杏村の説が紹介されていますが(96頁)、清水真木氏の『忘れられた哲学者』を読んでみようかと思います。帯文の「現象学と華厳思想に定位する「象徴主義」の哲学」に惹かれます。

以下の、篤胤神道へのキリスト教の影響(「註 序章8」224頁)は、面白いですね。
--------------
篤胤の未定稿『本教外篇』は利瑪竇(Matteo Ricci、一五五二~一六一〇年)の『天主実義』『畸人十編』や艾儒略(Giulio Aleni)『三山論学紀』などのイエズス会宣教師たちの天主教書からの翻案であり、篤胤の死生観にはキリスト教の影響がみられる(村岡典嗣「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」[一九二〇年、『日本思想史研究』、岡書院、一九三〇年所収])
--------------
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

網野町は京都府内

2015-01-07 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 7日(水)23時17分3秒

>筆綾丸さん
正解です。
「後先祖」は私が打ち間違えただけで、原文は「御先祖」です。
紛らわしくて失礼しました。

中沢新一氏が福井県について熱く語り、赤坂憲雄氏もそれに乗せられてしまっていますが、旧網野町は京都府内の町ですね。
2010年の夏、千円高速の夢の時代に私も新潟県から北陸自動車道経由で網野町を訪問したことがありますが、京都府宮津市の天橋立を見学してから丹後半島の北端、経ヶ岬を廻ったのが日没時、その後、西に向って網野町に入った時点では真っ暗になってしまっていて景色は見えず、蛙の声が騒がしかったことしか覚えていません。

「ようこそ あみの町へ」(京丹後市観光協会網野町支部)

網野善彦氏が亡くなったのは2004年2月27日ですが、京都府竹野郡網野町は同年4月1日に周辺の町と合併して京丹後市となったそうですね。
そして同年6月25日に『網野善彦を継ぐ。』が講談社から発行された訳ですが、講談社の編集・校正の人を含め、誰一人この単純な誤りに気づかなかったということは、中沢・赤坂両人が直後に『東と西の語る日本の歴史』を論じていることを踏まえると、いささか皮肉な味わいがありますね。
なお、太良庄はもちろん福井県内ですが、網野町とは直線距離で70kmほど離れています。
網野氏が太良庄を「昔からのフィールド」としたのは東寺領荘園として史料に恵まれていたからであって、「自分の精神的なルーツだという意識」とは特に関係ないと思いますが、こちらは個人の気持ちの問題ですから、全くの間違いと言い切ることはできないのかもしれません。

>『網野善彦対談集「日本」をめぐって』
これは未読でした。
早速読んでみたいと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

網野駅(宮津線) 2015/01/07(水) 20:32:32
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E9%87%8E%E7%94%BA
「福井の網野町」は「丹後(京都)の網野町」ですか。(「その後先祖」は「その御先祖」?)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B3%A2%E8%89%AF%E5%88%A9
http://www.city.itami.lg.jp/shokai/gaiyorekishibunka/rekishi/1392285884285.html
『網野善彦対談集「日本」をめぐって』に、松波勘十郎という諸藩の財政改革コンサルタントに関連して次のようにありますが、私もびっくりしました。
------------
それに面白いのは、俳人だとばかり思っていた鬼貫が、上島惣兵衛という名前で大和郡山藩の請け負いを松波勘十郎と争って、結局松波が勝ったということがあるのです。鬼貫もコンサルタントの顔を持っていたんですね。それを知ったときは仰天しました。(26頁~)
------------
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

網野家のルーツに関するクイズ

2015-01-07 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 7日(水)16時11分5秒

【問題】
 次の文章は中沢新一・赤坂憲雄の対談集『網野善彦を継ぐ。』(講談社、2004年6月)からの引用である。(p94以下)
 この文章には明らかな誤りが一箇所あるが、それは何か。

-------
中沢 山梨の友だちが、網野さんが亡くなった後、その人生について書いてある新聞記事などを読んで、「この人はまったく山梨の人だったんだなと思う」って言うのです。日本とか、天皇に対する処し方であるとか、あるいはアカデミズムを相手にしたときのふるまい方を見ていると、ああこれはまぎれもない山梨の人だね、と言うんですね。ある意味で言うと、それは深沢七郎なんかにも通じていくような、野性的なふとどきさというものがあったということでしょう。
 網野さんの御実家は、網野銀行をやっていた銀行家でした。
赤坂 今はじめて聞きました。
中沢 その後先祖はどこからやってきたかと言うと、おそらく福井なんですね。
赤坂 ああ、福井。
中沢 福井の網野町がもとじゃないか、と自分でも言っているし、山梨の井上村のあたりに網野姓があるのです。網野さんが学生時代から福井にひじょうに強く惹かれていて、そして福井から眺めた大陸、朝鮮半島に惹かれていく理由もよくわかります。網野さんのなかには、朝鮮半島から日本海を渡って、北陸(福井)に漂着してくる人々のことが念頭にあったと思います。海民や山の民となって歴史を刻んでいった人々に対する強烈なシンパシーも知識とかを超えてあったと思います。太良荘(小浜市)は網野さんの昔からのフィールドでした。そこが、自分の精神的なルーツだという意識が強かったと感じます。だから、甲州のある種の縄文的残存というのかな、天皇的なるものの底の浅さということと、半島に広がっていく海民的なものとが、網野さんのなかで合体しているような感じを強烈に受けるんですね。(後略)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりに網野善右衛門氏について

2015-01-07 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 7日(水)15時34分32秒

ウィリアム・ジョンストン氏の「封建漁民から列島の人々へ 網野善彦の歴史叙述の旅路」は細かい間違いを指摘したらキリがありませんが、外国人の研究者ですから仕方ないですね。
一箇所、ごく単純な誤解だけ指摘しておくと、「彼は山梨県に生まれたが、一二歳で東京の小学校へ転校し」(p237)は変ですね。
監修者の高野宏康氏自身が作成した年譜に照らしても明らかな誤りなのに、何故か訳注に訂正がありません。
網野氏は誕生の翌年(1929、昭和4)、「父が東京で事業を始めることになり」(p280)東京に転居しますが、より正確には父の網野善右衛門氏は叔父で東京電燈社長だった若尾璋八に支援を要請された訳ですね。
網野善彦氏の実兄で、著名な弁護士・弁理士の網野誠氏の「運・根・胆」(『青少年に贈る言葉 わが人生論 山梨編(下)』(文京図書出版、平成3年、p16以下)によれば、

---------
私の生まれ育った家は錦生村(現・東八代郡御坂町)で地方銀行と造り酒屋をやっていたが、昭和四年、私が錦生小学校五年のとき、父善右衛門は当時東京電燈の社長であった叔父の若尾璋八に支援を要請されたということで、子供の教育旁ら一家を挙げて東京に移り住んだ。父は昭和五年以降の若尾財閥の没落のため、叔父からの話は実らなかったようであるが、病を得るまでは郷里の銀行とともに、東京では石油会社をも経営していた。
---------

という事情だったそうです。
若尾財閥の没落がなければ、善右衛門氏もあるいは東京電燈(東京電力の前身)の取締役くらいになっていたのかもしれません。

「当家は地方屈指の旧家にして」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5aa83953c58b5c6ede6ecf0d53d835bc
「温厚の紳士網野善右衛門」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/86f3f0233d058f8089101327f72ebab2

網野家の本宅は高輪の二本榎という高級住宅地にあり、鎌倉大町には別荘があって、善右衛門が鎌倉で病気療養中には旧知のブラック・ジャーナリストがご機嫌伺いに来てくれたそうですね。

「網野夫人の手紙」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5cc067eee8f30c4ce44e07e1f046ced0

山梨県の地主といっても、時代の流れについて行けなかった三井甲之などとは異なり、石油への着目に伺われるように実業家として先見の明はありながらも、中央のエスタブリッシュメントに進出しようとした段階で、若尾財閥の没落とご本人の病気で躓いてしまった、ということみたいですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィリアム・ジョンストン氏

2015-01-07 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 7日(水)15時18分29秒

>筆綾丸さん
石川公彌子氏の『〈弱さ〉と〈抵抗〉の近代国学』は松岡正剛氏も高く評価されていますね。
ま、松岡氏のいつものクセで、途中から書評とはいえない方向に展開していますが。


石川氏は非常に優秀な方なのに、ご本人のツイッターを見たら、就職にはずいぶん苦労されているようです。

『現代思想』、執筆者には肩書きとして思想家・作家・画家等、あるいは近世比較文化・民俗学・人類学といった具合に簡単に専門分野が付記されているだけなのに、ウィリアム・ジョンストン氏に限ってかなり詳しい履歴と研究内容の紹介が載っていますね。
まあ、立派な大学(ハーバード)を出て、それなりに有名な大学(ウェズリアン)の教授をされている方ですが、著書が"The Modern Epicemic : A History of Tuberculosis in Japan(現代の伝染病─日本における結核の歴史)"と "Geisha, Harlot, Strangler, Star : A Woman, Sex, and Morality in Modern Japan(芸者、売春婦、絞殺魔、花形─日本近代の女性、性、道徳)"といったものだそうですから、キワモノといったら失礼ですが、ずいぶんマイナーな研究をしている人ですね。

Wesleyan University  College of East Asian Studies

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

在昔の在五中将の在判 2015/01/06(火) 11:58:06
小太郎さん
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784062584494
石川公彌子氏には、『<弱さ>と<抵抗>の近代国学―戦時下の柳田國男、保田與重郎、折口信夫』という著書があるのですね。読んでみようかと思います。

網野善彦の英訳ですら一冊しかないとすると、欧米の知識人は、日本の歴史はともかくとして、日本の歴史家なんかには何の関心もない、ということですね。サイデンステッカー訳『 Sound of the Mountain 』(第22回全米図書賞翻訳部門受賞)というのがあるので、『 Poems of the five mountains 』はノーベル文学賞作家の遺作なんだろう、と欧米人は考えるかもしれませんね。

『現代思想』には、中沢新一氏と細川涼一氏が平泉澄の皇国史観に言及していますが、これが一般的な理解なんでしょうね。
「平泉澄というと、皇国史観で有名です」(60頁)
「『異形の王権』には、皇国史観に対する批判はあるが、その主唱者となった平泉澄の名が直接見出せるわけではない」(146頁)

--------------
網野 在所という言葉、これは気になってる言葉でしてね。「都市」のところで菅浦の「所の置文」のことにふれましたが、この所というのと関係があると思うんです。勝俣鎮夫さんが「塵芥集」の中に出てくる「在所」という言葉に注目して、これを屋敷的なものと言われたわけですが、門があり垣でめぐらされた四壁が木竹で囲まれている。
つまり「所」というのは、一つの集団、あるいはその居住する場と考えてよい。いまでも郷里に帰ることを名古屋あたりでは「在所」に帰ると言いますけれども、これにも同じような意味があるんでしょうね。(『中世の風景(下)』150頁)
--------------
・・・賄い料という意味は、「在庄」が接待を含意するようになってから派生した名詞なのだろう。さらに推測を重ねれば、そもそも「在庄」が接待を意味するようになったのは、荘園制下における検注使(田畑の面積等を調査するため、領主が派遣した使者)の在地下向時のそれ(「坂迎」等)に由来するのかもしれない。(『日本史の森をゆく』「明智光秀の接待」(金子拓)33頁)
--------------

「在所」や「在庄」もややこしい言葉ですが、在昔の在五中将の在判、行在所と駐在所、在地と在家、所化と所依、所為と所記(シニフィエ)・・・と、なんとも雑多な世界で、普通の欧米人であればウンザリしてしまいますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Poems of the five mountains

2015-01-04 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 4日(日)21時41分36秒

>筆綾丸さん
今年も宜しくお願いいたします。

>五山文学
網野氏が"Poems of the five mountains"を読み込んでいたという話は意外でした。
あるいは村井章介氏あたりの研究に刺激されてのことなのかもしれませんが、中沢氏の書き方だと中沢氏がまだ若い頃の話のようでもあり、とすると村井氏は全然関係なくなりますね。

>栗原貞子
原爆詩人だそうですね。
私も知りませんでした。
ミシガン大学出版部のシリーズには特に統一的な方針はなく、日本に興味を持つ人が各々の関心に基づいて書いたものを集めただけみたいですね。
それにしても網野氏ですら英訳は一冊ですから、他の歴史学者は推して知るべし、ということになりますね。

栗原貞子

「主要著作10冊を読む」で『「日本」とは何か』について書かれている三ツ松誠氏は尾藤正英氏の網野氏に対する厳しい評価を引用されていますが、尾藤氏と網野氏の関係は複雑そうですね。
私も一応、「戦争体験と思想史研究」(『日本歴史』790・791号)は読んでいるのですが、再読した上で、尾藤氏の他の著作にも手を広げたいと思います。

石川公彌子氏の「『弱者』からの『日本』論」は山梨県における福島原発事故の悪質な風評被害について言及されていて、私の関心とも重なります。
この論文の後半はリンク先の論文を改稿したものだそうですね。

穢れ思想とつくられた母親像から見えた放射能問題-「現代化」問われる日本社会

石川公彌子氏の名前で検索してみたら、『現代思想』でも「無縁・マツコ・オタク」という妄想を書いている安冨歩が「島薗先生、この愚かな女を先生はご存知ですか?」などというツイートをしていますね。


安冨歩に批判されるということは石川氏が実際には非常に優秀な人であるということと同義ですが、「穢れ」の問題とする点については賛成できないので、これは後で少し検討したいと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

謹賀新年 2015/01/04(日) 17:56:33
今年もよろしくお願いいたします。

『現代思想』網野善彦特集号の「網野さんともっとアジアや宗教の話をしたかった」(中沢新一×五木寛之)のうち、五木氏の話に興味を惹かれました。
------------
(貨幣があまり流通していない時代において)遊女を買う、買春の時に渡す物はなんだったか、誰が調べてもわからない。まさか米下げていったり、布地一反持っていったりするわけじゃないだろうし、どうしたのかな。(60頁)
------------
こんな基本的なことさえ、まだ解明できていないのですね。また、中沢氏の次のような話も興味深く思いました。
------------
・・・鎌倉五山文学をものすごく読みこんでいました。いつも重い鞄の中に鎌倉五山の本を入れて読んでて、それがいったい網野史学のどういうところに繋がってるのか、いまだによくわかりません。(61頁~)
------------

読みたい本が年々少なくなってきて、今年はどうしたものか、と思案中です。

小太郎さん
栗原貞子という人は知りませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Michigan Monograph Series in Japanese Studies

2015-01-03 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 3日(土)15時53分26秒

は2013年までに(たぶん)発行済みの75冊のうち、71冊が国会図書館に入っているようですが、それを見ると、

津島佑子 Laughing wolf
古井 由吉 White-haired melody
獅子文六 School of freedom
大岡昇平 A Wife in Musashino
遠藤周作 Song of sadness
森鴎外  The wild goose
栗原貞子 Black eggs

といった近現代小説・詩の翻訳がかなりの割合を占めていますね。
学問的な著作は和泉式部・鴨長明などの古典文学や宗教学、映画論、美術史などを日本人ではない学者が論じたものが多く、中には

Poems of the five mountains : an introduction to the literature of the Zen monasteries
A Zen life in nature : Musō Soseki in his gardens
Revealed identity : the noh plays of Komparu Zenchiku

といったものもありますね。
歴史学関係では、

Women and public life in early Meiji Japan : the development of the feminist movement
The bluestockings of Japan : new woman essays and fiction from Seitō, 1911-16

といったものがありますが、日本人学者の翻訳ではなさそうで、結局、日本の歴史学者の翻訳は網野善彦氏のものが唯一みたいですね。

https://ndlopac.ndl.go.jp/F/RLHX6HJCABME34G462UF917QE483JB6DRVCA38KKYI2IYX9QV5-36498?func=short-jump&jump=1
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Rethinking Japanese History

2015-01-03 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 3日(土)11時23分6秒

去年からの宿題が若干あるのですが、とりあえず『現代思想』網野善彦特集号で気になったことを少しだけ書いておきます。
ウイリアム・ジョンストン氏の「封建漁民から列島の人々へ 網野善彦の歴史叙述の旅路」には、

-------
(前略)彼の多作さと日本での名声にもかかわらず、これまで英語に翻訳されたのは数えるほどの論文と一冊の著書のみである。ある日本近世史研究の第一人者が述べたように、誰もが網野のもっとも需要な著作のひとつである『無縁・公界・楽』について述べるが、実際にそれを読んだ者は少ない。同じことは彼の他の著作についてもいえる。
-------

とありますが(p233)、私が以前調べたときは英文に翻訳された著書は一冊もなかったので、これは何かなと思って検索したら、2012年に出た"Rethinking Japanese History (Michigan Monograph Series in Japanese Studies, Number 74)"ですね。
タイトルからは一瞬、『中世再考』かなと思ってしまいましたが、カバーに南北を逆転した日本地図が出ているので、講談社版日本の歴史シリーズの「00巻」、『「日本」とは何か』の翻訳みたいですね。

Rethinking Japanese History
http://www.amazon.com/Rethinking-Japanese-History-Michigan-Monograph/dp/B007VR8RKK

網野氏に英文著作が乏しい理由はいくつか考えられますが、肝心のご本人に「日本」を超えて活動する意思が全くなかったことも大きいでしょうね。
網野氏の近くには、例えば東大国史学科の後輩で何回か対談相手にもなった山口昌男氏のような人もいましたから、網野氏が国内で名声を確立した後、自己の研究成果を背景にして海外の歴史学者と交流しようと思えば十分可能だったと思いますが、網野氏はそうした方向には全く興味がなかったみたいですね。
網野氏は大半の日本史研究者のような「スペシャリスト」ではなく、「インテレクチュアル」と分類してよさそうな存在ですが、というか、網野氏を「インテレクチュアル」に分類しなかったら他に「インテレクチュアル」に分類できる日本史研究者はいなくなってしまいますが、その網野氏ですら内弁慶の知識人で終わってしまったのは、ちょっともったいないような感じがします。

ところで、ウイリアム・ジョンストン氏の文章に出てくる「ある日本近世史研究の第一人者」とは誰なんですかね。
近世史に全然詳しくない私には尾藤正英氏の名前くらいしか思い浮かびません。
「網野善彦腫瘍著作10冊を読む」で『「日本」とは何か』を担当されている三ツ松誠氏は網野氏と尾藤氏の関係に触れていますが、もう少し分量が多いとありがたいですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の漠然とした目標

2015-01-01 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 1日(木)22時51分33秒

新年あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。

一昨年の11月頃から久しぶりに日本史の勉強に復帰し、中世国家とは何だろうか、みたいなことを出発点に様々な本を読み、あちこち寄り道しながら少しずつ進んで来ましたが、昨年の夏、南原繁の『国家と宗教』に出会って、国家と宗教との関係を考えることが自分なりの長期的なテーマになりそうな予感がしました。
また、南原繁の周辺を追って行くうちに、もともと興味のあった知識人の類型論をより具体化する必要を感じ、大規模な危機的状況における知識人の行動について、戦前、特に昭和初期の経済恐慌から敗戦までの期間における知識人の行動パターンと2011年3月の原発事故以降の知識人の行動パターンを比較することによって、何か新しい知見を得られるのではないか、との見通しを立てました。
『言論抑圧』以降、原理日本社などに妙に入れ込んでいたので、何をやっているのか疑問に思った方も多いでしょうが、私としては戦前の知識人の行動パターンを見極めるために必要な作業との位置づけでした。
比較の対象である原発事故以降の知識人の行動パターンは、現在まだ進行中の事態に関わることですが、中期的な目標として少しずつ研究してみたいと思っています。
対象を知識人一般とすると範囲が広すぎて自分の能力を超えるので、とりあえずは従来から興味深く観察していた島薗進・保立道久等の「東京大学原発災害支援フォーラム(TGF)」関係者と歴史学研究会周辺を対象とするつもりです。
更に、知識人の類型論に関連するもうひとつの課題として、中里成章氏の言われるところの「スペシャリスト」と「インテレクチュアル」の問題を考えてみたいと思っています。
歴史学者の場合、「スペシャリスト」の育成はそれなりに順調に進んでいますが、日本には果たして「インテレクチュアル」と分類できる歴史学者がどれだけいるのか。
私がイメージする「インテレクチュアル」歴史学者とは、具体的にはウォーラーステインのような存在ですが、こうした「インテレクチュアル」歴史学者は、ある種の天才として突然変異的に誕生するのをボーッと待つしかないのか、それとも「インテレクチュアル」歴史学者を生み出すために国家・社会が行うべき基盤整備事業はあるのか、あるとすればどのようなものなのか。
ま、今年はこんなことを少しずつ考えてみようと思っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする