投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 9日(金)22時54分43秒
>筆綾丸さん
>東西に於ける紺屋の差別の有無
この話自体は興味深い内容ですね。
渋沢栄一だって家業は藍玉の製造・販売ですから、東国では紺屋への差別など本当に想像しにくいですからね。
渋沢栄一記念財団
さて、そもそも『僕の叔父さん 網野善彦』がどこまで信頼できるのか、という問題について少し検討しておきます。
意地の悪い見方をすれば、この本は中沢進一が<我こそ「網野史観」の正統な後継者なり>と宣伝するために作った本だから、そこに引用されている網野氏の発言も中沢が自分の都合の良いように創作・改変したものだ、という疑いが生じる余地はあります。
ただ、同書の「あとがき」には、
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網野真知子さんは、私には叔母にあたる人であるが、この人が私の記憶違いや不正確な記述を指摘してくださったおかげで、この本は事実に関しても信用度の高いものになることができた。(p185)
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とあり、特に相生山「生駒庵」の場面は網野真知子氏本人と息子・娘も登場するのですから、ま、相当に信頼できるものと扱ってよいように思います。
次に確認しておきたいのはこれが何時の話なのかですが、網野氏が名古屋大学文学部助教授として名古屋に単身赴任したのが1967年で翌年に家族が同居、そして1960年生まれの「徹哉君」(東京大学大学院総合文化研究科教授、ラテンアメリカ史)と1962年生まれの「房子ちゃん」(専修大学文学部准教授、文化人類学・民俗学)がともに小学生ということですから、1970年前後と考えてよさそうですね。
そして私の疑問は、中沢氏の集めた「生駒庵」の情報だけを見ても、「ご主人夫婦の過去」が「若い頃は大須観音のあたりで浪曲師をしていた」などというものでないのは明らかではないか、というものです。
私は、この「ご主人夫婦」は山口瞳の『血族』に登場する人たちと同じ立場の人ではなかろうか、つまり遊郭の関係者ではないだろうか、と思っています。
多少の説明は後でしますが、結論自体は自明であって、問題はむしろ、なぜ網野善彦氏と中沢進一氏がそれに気づかないのか、ということの方ですね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
彦阿彌 2015/01/09(金) 19:15:46
小太郎さん
『僕の叔父さん 網野善彦』には、東西に於ける紺屋の差別の有無に言及した後で、網野氏が網野町について語ったものとして、次のような記述がありますね。時宗まで動員するとは・・・。
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「中沢という家も、たぶん網野という家も、山梨に住みついてきたおかげで、差別を体験しなかったというだけなんだよ。網野の家は丹後の出身だと、ぼくはにらんでいる。日本海に面した小さな漁師町から、甲州にやってきたのが網野の一族だったんだよ、きっと。中世にはあのあたりは武田家の所領だった時代があるからね。アミというからには時宗と関係していたかもしれない。あきらかに常民ではないと思うよ。(後略)
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http://homepage1.zashiki.com/HAKUSEN/kuzukahi1/kuzukahi1.htm
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。
この山道を行きし人あり
釈超空の歌について、中沢・網野両氏が深読みを披露していますが(168頁)、折口の『自歌自註』は、
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壱岐は島でありながら、伝説の上では神代の一国である。それだけに海としても個性があり、山としても自ら山として整うた景色が見られた。蜑の村に対して、これは(島山)陸地・耕地・丘陵の側を眺めたものが集まってゐる。山道を歩いてゐると、勿論人には行き逢わない。併し、さういう道に、短い藤の紫の、新しい感覚、ついさっき、此山道を通って行った人があるのだ、とさういふ考えが心に来た。もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行った人を推理してゐる訳ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するやうな表現をとる場合も多いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱ふべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌ったので、今も自信を失ってゐないし、同情者も相当にあるやうだが、この色あたらしの判然たる切れ目が、今言った論理的な感覚を起し易いのである。
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とのことなので、両氏の深読みを聞いたら、能登の海の彼方の幽世(かくりよ)に棲むマレビトはオオクニヌシとともに吃驚仰天しているかもしれないですね。それはともかく、折口の論理的かつ非論理的な文章は、例の如く何が言いたいのか、よくわかりません。人でもなく猿や鹿でもなく、物理に反するが、あんまり綺麗なので本当に道に踏まれたんだ・・・と? あるいは、葛の花を踏みしいたのは遊行中の一遍か。
小太郎さん
『僕の叔父さん 網野善彦』には、東西に於ける紺屋の差別の有無に言及した後で、網野氏が網野町について語ったものとして、次のような記述がありますね。時宗まで動員するとは・・・。
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「中沢という家も、たぶん網野という家も、山梨に住みついてきたおかげで、差別を体験しなかったというだけなんだよ。網野の家は丹後の出身だと、ぼくはにらんでいる。日本海に面した小さな漁師町から、甲州にやってきたのが網野の一族だったんだよ、きっと。中世にはあのあたりは武田家の所領だった時代があるからね。アミというからには時宗と関係していたかもしれない。あきらかに常民ではないと思うよ。(後略)
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http://homepage1.zashiki.com/HAKUSEN/kuzukahi1/kuzukahi1.htm
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。
この山道を行きし人あり
釈超空の歌について、中沢・網野両氏が深読みを披露していますが(168頁)、折口の『自歌自註』は、
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壱岐は島でありながら、伝説の上では神代の一国である。それだけに海としても個性があり、山としても自ら山として整うた景色が見られた。蜑の村に対して、これは(島山)陸地・耕地・丘陵の側を眺めたものが集まってゐる。山道を歩いてゐると、勿論人には行き逢わない。併し、さういう道に、短い藤の紫の、新しい感覚、ついさっき、此山道を通って行った人があるのだ、とさういふ考えが心に来た。もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行った人を推理してゐる訳ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するやうな表現をとる場合も多いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱ふべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌ったので、今も自信を失ってゐないし、同情者も相当にあるやうだが、この色あたらしの判然たる切れ目が、今言った論理的な感覚を起し易いのである。
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とのことなので、両氏の深読みを聞いたら、能登の海の彼方の幽世(かくりよ)に棲むマレビトはオオクニヌシとともに吃驚仰天しているかもしれないですね。それはともかく、折口の論理的かつ非論理的な文章は、例の如く何が言いたいのか、よくわかりません。人でもなく猿や鹿でもなく、物理に反するが、あんまり綺麗なので本当に道に踏まれたんだ・・・と? あるいは、葛の花を踏みしいたのは遊行中の一遍か。