学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

速水融氏とエマニュエル・トッド

2016-03-14 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月14日(月)11時19分20秒

1929年生まれの速水融氏はイデオロギーの匂いが全く感じられない点で、この世代の歴史学者の中では稀有な存在ですね。
速水氏は確か『網野善彦著作集』の月報で日本常民文化研究所時代の網野氏の思い出を書かれていたはずですが、網野氏のような超有能オルグの直ぐ近くにいながら思想的影響は特に受けず、かといってコミュニストを毛嫌いする訳でもなくて、安良城盛昭氏のようなクセのある人ともずいぶん仲が良かったそうですね。
『歴史のなかの江戸時代』(藤原書店、2011)の磯田道史氏との対談では、

-------
安良城盛昭君は沖縄出身で、東大の社会科学研究所で非常に活躍した人で、僕の論敵だったんですね。ただ面白いことに、「君は勇気がある」と彼からは言われました(笑)。つまり、みんなマルクス主義になっているのに、僕一人、これを否定してやっていたので。それで「意気地のない味方よりは、勇気のある敵の方がおれにとっては頼もしいんだ。だからおまえの論文は文句なく載せる」というわけですよ。社会経済史から分かれて『土地制度史学』という雑誌ができて、安良城君がその中心だった。その『土地制度史学』第二号に僕の論文が載っている。他はみんなマルクス主義一色ですから、僕のだけ明らかに異色なんですよ(笑)。
-------

と言われています。(p389)

安良城盛昭氏と「関東史観」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/56ef1bba76a4094a7786b5c2ef1afc82
「失職した植民地大学教員の受け皿」(by 酒井哲哉氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a527d9b6299d6b57a615244ac1fb6564

こういう人柄は学者ばかりの一族に生まれた育ちの良さによるのですかね。
また、当時の慶応の学風なのかもしれません。

「慶應義塾を知る・楽しむ─研究最前線」
http://www.keio.ac.jp/ja/contents/research/2010/6.html

ただ、エマニュエル・トッドの『新ヨーロッパ大全』を読んだ後で、同書を高く評価する速水氏自身の業績とトッドの業績を比較すると、速水氏がイデオロギーに極端に無関心な点には若干の物足りなさも覚えます。
何だか人口調査の職人さんみたいな感じで、もう少し思想的に深める方向に行ってもよかったのでは、と思うのは贅沢なないものねだりでしょうか。
上記対談によると磯田道史氏は速水氏に師事するために慶應に入ったのだそうで、エマニュエル・トッドの業績も早い段階で知っていたはずですね。
しかし、最近の磯田氏の一般向けの著書を見ると、妙に老成した若き説教親父みたいな感じで、速水氏の後継者とは呼べないでしょうし、ましてエマニュエル・トッドの学風の欠片も感じられません。
日本でエマニュエル・トッドの学問全体を正面から受けとめ、近代日本社会の分析に取り組んだ人はいないのでしょうか。

>筆綾丸さん
>Broccolo Romanesco
フラクタルですね。

>韓国棋院がよくこの対戦を了承したな
三敗後に辛くも一勝ですね。
リンク先の「中央日報」の記事には、

-------
一日3万個の棋譜を自ら学習し、1200個余りのCPU(中央処理装置)を装着して中央の「厚み」まで計算しながら最適な手を見つけ出すアルファ碁は、人間が届かない「囲碁の神」のようになりつつあった。
http://japanese.joins.com/article/163/213163.html?servcode=400§code=450&cloc=jp

とありますが、「囲碁の神」の死を嘆くのではなく、新しい人工知能の「囲碁の神」の誕生を言祝ぐ(?)という発想はニーチェもびっくりですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Broccolo Romanesco 2016/03/12(土) 17:05:20
ザゲィムプレィアさん
識字率の時代変化を説明できる関数など存在しないだろうな、とは思いましたが、やはりないですよね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%82%B3
全く関係ない話ですが、数年前、この野菜をパリのマルシェではじめて見たとき、その幾何学的な美しさに一目惚れして(パリジェンヌなどより格段に綺麗です)、早速、購入して食べたことがあります。日本でも、この頃、見かけるようになりました。味は普通のブロッコリーと大差ないのですが。
この野菜が何時頃から存在するのか、不明ですが、パスカルやデカルトが知っていたら、研究テーマのひとつにしただろうな、と思われます。ギリシャのメタモルフォーゼ神話になぞらえていえば、幾何(数)に魅せられたユークリッドかピタゴラスの変身後の姿といえるかもしれませんね。

小太郎さん
「一七二一年から定期的に、全国を地方別に人口調査したという例はヨーロッパのどこにもない」とのことですが、吉宗の発想は驚異的ですね。・・・と書いて、今頃、気がついたのですが、統計局を和歌山に、という案は、吉宗の全国人口調査を踏まえて紀州徳川家を顕彰するという目的もあるのですね。

-----------------
 早くも十七世紀にスウェーデンのルター派教会は、国家に後押しされつつ、識字化運動を開始するが、それは全国的に目覚ましい成功を収めることになる。文明の中心から隔たった寒冷の地にあって、その住民の大部分が農民であるこの国で、住民の圧倒的多数がわずか数世代の間に文字を読むすべを身につけてしまったのである。一六八〇年から一六九〇年までの間に生まれた世代の識字率は、どうやらすでに八〇%に達していると見られる。すでに一八世紀半ばには、スウェーデンにおいて大衆識字化の過程は完了しているのである。(『ヨーロッパ大全?』177頁)
-----------------
はじめて知りましたが、ノーベル賞の設立にはダイナマイトだけではなく国民的な知的水準の高さという歴史的な背景があったのですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A_(%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88
また、スウェーデン女王クリスティーナがいかに聡明な女性であったにせよ、なぜ、デカルトは寒冷のストックホルムまでのこのこ出掛けたのか、ずっと疑問でしたが、パリより知的水準が高かったことも理由のひとつなんでしょうね。もっとも、当地で風邪をひき、デカルトは死にますが。
「デカルトは、クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献した」とウィキにありますが、トッドの分析を踏まえると、この女王がルター派からカトリックに改宗して亡くなるというのは、なかなか面白いですね。

追記
http://japanese.joins.com/article/108/213108.html?ref=mobile
この記事は興味深いですね。
韓国棋院がよくこの対戦を了承したな、とは思います。もしかすると、最初に打診してきたのは日本棋院だったのか。しかし、負ければ理事達に責任問題が発生しかねず、体よく断ったのかもしれないですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉宗の人口調査

2016-03-12 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月12日(土)10時07分32秒

『新ヨーロッパ大全』はフランスの分析にちょっと恣意的なところがあるような感じがして中弛み状態だったのですが、Ⅱに入って最初に出て来るドイツの分析は本当に鋭いですね。
エマニュエル・トッドはユダヤの知性の中でも本当に最高水準の人だと思います。

>筆綾丸さん
>浄土真宗に理由があるとは、俄かには信じがたいですね。
そうですね。
仮に「浄土真宗は殺生を一切禁じる。堕胎、間引きをやらない」が正しいとしても、それで向上するのは出生率だけですからね。
生存を支えるだけの生産力の向上があったと見るのが素直だと思いますが、それは統計上は出てこないのですかね。

>徳川吉宗の全国人口調査という発想には、西洋の影響があるのかどうか
これはないようですね。
『歴史人口学で見た日本』(文春新書、2001)に、

--------
 「宗門改帳」を使った研究の問題点については前述した通りである。しかし、日本にはイングランドにもフランスにもないマクロの人口史料がある。それは、享保六(一七二一)年に八代将軍吉宗が始めた全国の国別人口調査である。一七二一年から定期的に、全国を地方別に人口調査したという例はヨーロッパのどこにもない。二千八百万人といわれるフランス革命期のフランスの人口にしても、みな推計で行っているのであって、当時調査された記録によるものではない。しかし日本では、享保六年に、吉宗が全国の大名や代官に対して、「支配下の人口を男女別・国別に報告せよ。ただし調査の方法はいままでそれぞれの地域でやってきた方法にしたがってよい」という法令を出した。それが幕府に届けられ、幕府のもとで国別に計算されて、だいたい二千六百万人という数字が出ている。
--------

とあります。(p56)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ロジスティック関数? 2016/03/10(木) 14:29:00
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
速水氏の言われる「享保年間に始まる幕府の全国人口調査でもいちばん人口が増えるのが西日本と北陸」とは、ウィキにある「旧国別調査人口の変遷」や「地域別推定人口の変遷」に基づいているのでしょうが、仰る通り、浄土真宗に理由があるとは、俄かには信じがたいですね。

『日本人のリテラシー』に関しては、ドナルド・トランプの影響か、言い過ぎたようです。ルビンジャー氏は、江戸期の日本全国の識字率を求めることなど端から諦めていて、第1~5章までは個別の事例を示したにすぎず、リテラシーという語の用法に関しては、第1~5章とエピローグの間に埋めがたい断絶がある、と読めばいいだけなのかもしれません。

上に引いたウィキに、「江戸時代前半の人口成長パターンが150年間で3倍になるロジスティック関数によると仮定」という記述がありますが、識字率についても、ある種の「ロジスティック関数」を仮定できないか、という誘惑に駆られます。「陸軍省統計年報」に関数を当てはめて時間を遡る・・・。
なお、徳川吉宗の全国人口調査という発想には、西洋の影響があるのかどうか、気になるところです。

追記
http://mainichi.jp/articles/20160310/ddm/012/040/071000c
AIの囲碁も、あっという間にここまできたのですね。この韓国の棋士は井山氏よりも強いと言われている人で、残り4戦もアルファ碁の勝ちかもしれないですね。
------------
チェス・将棋・囲碁の天才たちのひらめきの中に顕現していた神々のうち、チェスの神は既に死に、将棋の神は臨終を迎え、最後まで残った囲碁の神もどうやら黄昏を迎えつつあるようですね。
------------
と小太郎さんが的確に要約されていましたが、囲碁の神の黄昏の期間は余りに短かくて釣瓶落としのようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ北陸の人口が増えたのか。

2016-03-10 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月10日(木)08時28分20秒

3月7日の投稿で書いた海苔店と「五味」姓の話、妙におかしいのは「五味」姓と海苔の結びつきに何の必然性もないことで、これがせめて「海津」とかだったら磯の香りに惹かれて、くらいの理由がつきそうですが、「五味」には皆無です。
結局、最初の横内村の「五味」さんがたまたま海苔店に丁稚奉公に入り、後はそれに続いただけなんでしょうね。
類似の例として、東京の銭湯経営者の大半が越後出身という話を聞いたことがありますが、越後と銭湯にも特に必然性はなさそうです。
ただ、速水融氏の対談集である『歴史の中の江戸時代』(藤原書店、2011)の中で、時代小説作家・宇江佐真理氏が「おふろ家さんの三助というのは越後出身の人が意外に辛抱強いからと、そういう人が多かったとか」という発言をされていて(p287)、そうかなと思わないでもないのですが、私としては「最初の偶然プラス地縁」説を取りたいですね。
ま、それはともかく、宇江佐氏の発言を受けて、速水氏は次のように述べます。

------
速水 越後の人というのは方々へ、江戸へも来ますし、それから峠を越えて郡山とかあの辺へ奉公しますね。ですから、郡山あたりの人に聞くと、自分の先祖は越後だという人が多い。ちょうどいま、別の研究で明治十四年から後、ほぼ五、六年ごとに日本の歴史の断面図、要するに歴史地図をつくって、本にまとめているところなんですが、何を入れるかというと、一つは仏教の宗派、何宗の寺院がいちばん多いかがあります。そうしますと越後は断然、浄土真宗なんですよ。この時代、享保年間に始まる幕府の全国人口調査でもいちばん人口が増えるのが西日本と北陸なんです。西日本が増えるのはまあ何となくわかる。なぜ北陸が増えるのかというと、結局、北陸に広がっている浄土真宗は殺生を一切禁じる。つまり堕胎、間引きをやらないわけですね。そうすると人口が膨れ上がるもんですから、むしろ峠を越えて会津の方へやって来るとか、江戸へ出てくるとか、京、大阪の方へ行くとかということになるのが背景なんですね。その奉公に出るのも、むちゃくちゃに行くのでなく、やっぱり一つのルートみたいなのがあって、伝手(つて)とか、紹介とか、それで動いている。
--------

江戸時代に北陸の人口増加率が高い理由を速水氏は浄土真宗に求める訳ですが、これは正しいのか。
もう少し詳しく知りたいのですが、この「歴史地図」をまとめた本が何なのかが分かりません。
ご存知の方はご教示願いたく。
なお、宇江佐氏との対談は東北電力の広報誌『白い国の詩』569号(2004年1月)が初出とのことなので、対談が行われたのは前年でしょうから、対象は2003年以降に出版された本になりそうです。

『日本中世の仏教と東アジア』(塙書房、2008)の著者、横内裕人氏は松本市出身だそうですが、横内村は現在は茅野市に含まれ、松本にも比較的近い場所ですね。
横内姓は横内村と関係がありそうですね。

『日本中世の仏教と東アジア』
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7ba2ad02586b788a09f1affbee54bb4

>筆綾丸さん
>「学術書」と言い得るようなレベルの本ではない
そうですか。
『新ヨーロッパ大全Ⅰ・Ⅱ』を読み終えてからと思っていて『日本人のリテラシー』は未読なのですが、筆綾丸さんがそのように評価されるのであれば、いきなり購入はせずに図書館で捜してみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

米国人のリテラシー 2000年 2016/03/09(水) 14:34:24
小太郎さん
明治政府と協調的であった西本願寺の運営は安定しているようですが、他方、東本願寺の現在の為体にはひどいものがありますね。

ルビンジャーの『日本人のリテラシー』をパラパラ捲ってみましたが、忌憚なく言えば、「学術書」と言い得るようなレベルの本ではないですね。

原題は「Popular Literacy in Early Modern Japan」で、訳書の「1600-1900年」はないものです。
第一章 兵農分離・庄屋層ー江戸初期
第二章 署名・符牒・印鑑ー江戸初期
第三章 農書・家訓・地方文人ー一八世紀
第四章 民衆の学び・手習所・農村知識人ー十九世紀
第五章 日本訪問記・入札ー十九世紀
の各章は、要するに、ある階層にはリテラシーを有する者がいた、というだけのことで、日本全国の識字率を推定できる根拠は何も示されていません。
最後の「エピローグ 壮丁教育調査資料ー明治期」において、1890年前後の「陸軍省統計年報」により、辛うじて全国レベルの識字率を知ることができるにすぎません。
著者は言及してませんが、この識字率に100年毎の任意の減衰率を乗じてやれば、1800年の日本の識字率、1700年の日本の識字率、1600年の日本の識字率、それぞれに対する大凡の数値を得ることができるかもしれません。
もちろん、こんな計算式には何の根拠もありません。1890年の識字率の低い地域は時代を遡及しても依然として低いだろう、逆に、1890年の識字率の高い地域は時代を遡及してもやはり高いだろう、というほどの連続性はあるかもしれない、というにすぎません。
陸軍省の資料に依拠しているせいか、著者は識字率ではなく非識字率という指標でグラフや図を示しています。ただ、一ヶ所、「図16 日本の識字率ー1899年と1904年の比較」とあり(275頁)、オヤと思い折れ線グラフをよく見ると、これは「日本の非識字率」のことであって、要するに間違いです。原書の間違いなのか、訳書の間違いなのか、定かではありませんが。
速水氏との対談で、磯田氏がルビンジャーの本を引いて述べているのは、あくまで明治期であって、江戸期ではないですね。江戸期の日本の識字率など算出できないだろう、そんな方法論はおそらく存在しない、と私には思われます。

ちなみに、この本のプロローグの冒頭は「数年前、ビル・ゲイツによく似た人物が描かれた風刺マンガを見かけたことがある」(18頁)、エピローグの冒頭は「ノーマン・メイラーはケネディー暗殺事件について、統計的な資料に基づく長大な本を書いているが、その最後に「果たして暗殺したのはオズワルドなのだろうか」と問うている」(252頁)となっていて、「学術書」らしからぬ文にはちょっと笑えるものがあります。

また「謝辞」で、「妻の教子は、辞書を引いては難しい文字や漢字を読むのを助けてくれた」と著者は書いていますが、なんだ、日本語も満足に読めないアメリカ人が日本人のリテラシーを論じているのか、そういうのを倒錯と言うんだ、と考えて通読は止めました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

群馬は「念仏不毛の地」

2016-03-09 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 9日(水)10時01分51秒

前回投稿で、長州の「庶民が文字によって教え込まれた抽象概念で行動するように」なった原因の相当部分は浄土真宗に帰してもよい、てなことを書いてしまいましたが、これはちょっと言いすぎ、というか根拠に乏しい発言でしたね。
長州の民衆の識字率について、きちんと実態を検討しなければこんなことは言えませんので、後で参考になりそうな論文を探してみたいと思います。

>筆綾丸さん
>恐るべき知識水準
長州藩の教育は優秀な官僚を作るのには適していたシステムだったようですね。
磯田氏は、その長所を認めつつも、

--------
 もともと長州は、秀才はいても、自由な発想をする天才が頭を出しにくい。原因の一つには、道徳や倫理をふりまわすところがあります。文科系の倫理主義、教条主義、政治スローガンや感情に流される面があります。当初、長州藩士はテクニカルな面に弱いものがありました。これは最後の局面になって、大村益次郎が出て、補いました。大村を得るまでは、長州藩は、なかなか、うまくいかなかったのです。
 大村という技術者と、木戸・高杉という判断力をもった人が出てきて、ようやく、長州藩は軌道にのったといっていい。その前の、素朴な攘夷をやっていたころは、倫理と大義名分をふりまわしました。
-------

と批判し(p129)、その対極にあるものとして、「格式ばったところがなく、アバウトな戦国風が残っていた」薩摩の極めて実践的な「郷中教育」を高く評価していますね。(p133以下)
この「郷中教育」と薩摩藩が断行した完全な廃仏毀釈は密接な関連があると思いますが、その点は後ほど検討するつもりです。

>当時の群馬県が念仏不毛の地
群馬県は今でも「念仏不毛の地」ですが、浄土真宗みたいなネチネチ・ジメジメしたお説教好きの宗派は「かかあ天下と空っ風」の上州の風土には合わないですね。
わはは・・・。
とうとう言ってしまいました。
私の浄土真宗嫌いはあまり理論的なものではなく、もって生まれた上州気質によるところが大きいのですが、薩摩にも若干似た雰囲気を感じてしまいます。

>西本願寺の明如法主
葦津珍彦の『国家神道とは何だったのか』(神社新報社、1987)によれば、

--------
長州が独走して薩摩、会津の幕軍と闘った禁門の変にさいして、他藩は、すべて長州を見棄てたが、西本願寺だけは、長州敗残兵を守った。新撰組の土方歳三が苛烈な追及をしたが、明如上人は、敗残の将兵を九死一生の危機から救った。この時に、仏恩によって万死に一生を得たと云はれる長州の志士は少なくないが、その中で後に明治政府の閣僚大臣となったのは、松陰門下生の品川弥二郎、山田顕義等が有名である。
--------

とのことですから(p28)、明如法主にしてみれば、自分が明治政府をつくってやった、くらいの気分だったかもしれないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

明治政府と西本願寺 2016/03/08(火) 19:03:33
小太郎さん
http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimages/7407.htm
長州藩のGDP算出とは、恐るべき知識水準ですね。統計局を和歌山県に、という意味不明の試案が巷間囁かれていますが、いっそ、山口県に移転したらどうか、という気がしてきますね。

http://www.gunma-hanamoyu.com/place.html
大河ドラマ「花燃ゆ」は見ませんでしたが、県庁の近くにある正覺山清光寺の由来を見ると、長州と西本願寺との強い関係がよくわかりますね。
---------------
楫取素彦、寿子夫妻の発願により創設された本願寺説教所を発祥とします。寿子夫人は当時の群馬県が念仏不毛の地であることを憂い、この地に念仏の教えを拡めんことを願い、西本願寺の明如法主に請うて本願寺説教所として創設し教化活動を行いました。その後、大正9年に正覺山清光寺として正式に寺号を公称しました。
---------------
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%B0%8A
西本願寺の明如法主とは西本願寺21世法主大谷光尊で、長州閥を介してでしょうか、明治政府との親和性があったようですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Metayage
『新ヨーロッパ大全?』に分益小作制(métayage、mezzadria)の話が出てきますが(105頁)、エジプトには紀元前の契約書があるのですね。ウィキの写真ですが、ヒエログリフではないし、一体、何語なのか。méta(仏)とmezza(伊)に収穫物の半分という意が残っているようですが、江戸期の日本であれば、実態には異説が多々あるものの、四公六民といったところですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長州藩のリテラシーの高さ

2016-03-08 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 8日(火)10時02分18秒

>筆綾丸さん
磯田道史氏の『歴史の読み解き方─江戸期日本の危機管理に学ぶ』(朝日新書、2013)に長州藩の民衆のリテラシーが極めて高いことが分かりやすく説明されていますね。
長州藩は武士の知的水準も極めて高く、磯田氏は後世の学者に長州藩のGDP算出を可能にさせたほど緻密な産業調査である「防長風土注進案」を紹介したあと、次のように続けます。(p111以下)

-------
 このようなことがどうして長州で可能だったかというと、やはり、さきほど述べたような長州人の学問好き、防長地域の「識字文化」を考えざるをえません。
 このような調査は薩摩では難しかったと思います。薩摩と長州の違いを考えてみると、天保のころの長州は、藩官僚の手腕の高さも、もちろんでしたが、農民・町民もリテラシーの高い人々でした。とくに、下関周辺の瀬戸内海沿岸は高度な農村文化の花開いた豊かな地域でした。
【中略】
薩摩・長州と、ならび称されますが、その抱えていた藩の民衆の状態にはたいへん差がありました。字が読めない薩摩の民衆、学問好きで理屈っぽい長州の民衆、ずいぶん、違いました。
-------

そして、少し後にやはり奇兵隊にも触れています。(p115以下)

-------
 いまの山口の人は、戦前の、いや江戸時代、中世の、山口県域の人々がそれほど教育熱心であったという自覚はないと思います。しかし、山口は日本のなかでも、教育水準の高いところとして知られていました。庶民の識字率が高いということが、長州の一つの特徴でした。
 これは、奇兵隊をつくったり、その軍事力で高杉晋作や伊藤博文たちが決起したりして萩の藩政府を倒した、ボトムアップの長州藩の歴史の流れと無関係ではありません。なぜかというと、このような下から上への動きは日本ではほとんどありませんでした。しかし、長州ではその下から上への動きが起きています。奇兵隊など諸隊は、足軽や陪臣や農民が参加した部隊でした。諸隊に参加しない者も、長州では「防長士民」、あるいは「皇国の民」というある種の国家意識を持っていました。文字概念が浸透しない段階では、庶民には村や主人は理解できても、抽象的なものである国家は理解できません。庶民は、毛利の殿様という「君主」は一度もみたことがないはずですし、「防長」も抽象的な国家概念にすぎません。しかし、長州の地は、文字文化の古いところです。長州の庶民は、長州藩が幕府の大軍に包囲され、征伐をうけることになると、防長=国家をまさに実体があるものとして理解しました。命をかけて、防長=国家のために戦う者が出てきます。これは、庶民が文字によって教え込まれた抽象概念で行動するようになっていないと起きないことです。日本では、長州戦争のなかで、長州に、はじめての小さな国民国家が生まれたのでしょう。
-------

磯田氏は浄土真宗には触れていませんが、後に西本願寺の指導者の一人となる大洲鉄然(1834-1902)は奇兵隊に参加し、第二次長州征伐に際しては僧侶を集めた部隊を組織していますし、島地黙雷(1838-1911)も文字通り武装していました。
また、「諸隊」に参加した農民の大半は真宗門徒、西本願寺派ですね。
真宗門徒は抽象的思考に慣れていますから、「庶民が文字によって教え込まれた抽象概念で行動するように」なった原因の相当部分は浄土真宗に帰してもよいように思います。

浄土真宗と明治新政府の関係(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e6415f33e483f952aad89a959f1d5c2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/958812a3b31f500ab285c94b1aba8ce2

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

endomorphose 2016/03/07(月) 15:53:07
小太郎さん
海苔といえば日比谷の「日比」を思い出しますが、「彦」の字には通字というよりも仄かな磯の香が漂っているような感じですね。
磯田氏は『武士の家計簿』だけでなく広範な研究をされているようですが、ご指摘の個所、たしかに面白いですね。リチャード・ルビンジャーの本、探してみます。
長州が西本願寺の強い地域であることは、知りませんでした。

『新ヨーロッパ大全?』を「第一章」まで読み始めました。
一般相対性理論ではありませんが、ヨーッロパを時空概念として読み解くために、ネーション・ステートを掘り下げ、合計483個の人類学的基底に細断して分析するという方法に驚かされました。
原題の「L'INVENTION DE L'EUROPA」には、いままで誰もなしえなかったヨーロッパの分析方法をinventer(発明)したが、これはいわばコロンブスの卵であって、誰がinventer(発見)してもよかったのだ、というようなトッドの学問的自信が込められているような気もしますね。

-------------
 ここで家族制度という個別的ケースを通して、時の中での変貌、空間の安定性という論理図式が観察されたわけだが、この論理図式は、諸現象を同時に空間と時間の双方の中で把握しようと努める歴史学上の問題設定の特徴をなすものである。この論理図式の例は、他にいくつも本書中に、他の型の変数、つまり宗教的・イデオロギー的変数をまとって登場するであろう。この複合的だが典型的な論理図式には何らかの名称が付けられて然るべきである。ある変数なり構造なりが時間の中で変化しながら、その空間内での分布に影響を及ぼさない、そのような変化を<内変化> endomorphose と呼ぶことにしよう。<内変化>という概念は、諸構造が時のなかで変化して行くということと、それらの構造が不動の安定した人類学的地域の中に刻み込まれているということとを両立させるのである。
 内変化=時の中での変化+空間的安定性。(84頁~)
-------------
トッドのいう endomorphose は、時間に対しては変数のように振る舞い、空間に対しては定数のように振る舞うのだから、内変化という訳語はなんだか変で、内的形態素とか内的不変量とか、そんなふうに訳した方がいいのではないか、それでは一層わからないというのであれば、いっそ、エンドモルフォーズとしてしまうのはどうか、などと考えました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海苔店と「五味」姓

2016-03-07 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 7日(月)11時03分18秒

速水融氏の『歴史人口学で見た日本』(文春新書、2001)を読んでみたのですが、これは非常に親切な歴史人口学の入門書であるとともに速水氏の学問的自伝にもなっていますね。
「第四章 虫眼鏡で見た近世─ミクロ史料からのアプローチ」には諏訪藩の「宗門改帳」を使って家族形態の変化と人口変動を解明した速水氏の初期の業績で、実質的に日本の歴史人口学の出発点となった研究の思い出が語られていますが、そこにちょっと変った指摘があります。(p75)

-------
 もちろん諏訪地方でも人口の出入りがなかったわけではない。とくに諏訪から江戸へ出稼ぎに行く人たちが何人もいる。先ほどの横内村からも江戸へ出稼ぎに出たが、出稼ぎ先がだいたい決まっていて、大部分は日本橋にある海苔店へ行った。「山本山」という海苔店があるが、そういったところである。出稼ぎ者の大部分はそこで奉公して帰ってくるが、なかには手代になり、番頭になり、暖簾分けしてもらって江戸で海苔の小売店を始めた者もいた。面白いことに、東京で海苔店を捜すと「五味」という姓をもつ家がかなり多い。これは横内村の人に五味姓が多いというところからきている。
-------

ホントかな、と思って「五味&海苔」で検索してみたら確かにけっこうヒットしますが、最初に出てきた「五味商店」の「社長のあいさつ」を見ると、

--------
 当社は、先代の五味定彦が、当地大森にて起業し、私、五味勝彦が2代目として、お客様には大変お世話になりながら、これまでの会社を基盤とし、前進していこうとしております。

http://gomishoten.com/co/co.html

とのことで、有名な歴史学者に似たお名前の人がいたような感じもします。
この五味商店さんは昭和31年創業とのことで歴史は浅いようですが、社長のご先祖は横内村まで遡る可能性が高そうですね。

>筆綾丸さん
>根拠
とりあえず磯田氏の発言に出てくるリチャード・ルビンジャー著『日本人のリテラシー─1600-1900』(川村肇訳、柏書房、2008)を見てみるつもりです。

>そんな〔薩摩〕藩がなぜ明治維新の原動力になりえたのか
磯田氏は速水氏が国際日本文化研究センターで行ったプロジェクト(「ユーラシア社会の人口・家族構造比較史研究」)に参加しているときに薩摩に出張して大量の史料を見たそうで、対談でも薩摩への言及が多いですね。
速水氏の「薩摩の場合は、家臣が農村に住んでいた」という指摘を受けて、磯田氏は次のように述べます。(p398)

-------
そうなんです。そこが「中世」的なんですね。明治期の調査でも、約一〇万人ほどの郷士がいる。これは凄まじい規模の動員兵力です。幕府にとって軍事的に圧倒するのが容易でない藩というのは、三百近い藩の中でもやはり薩摩だけだったろうと思います。【中略】薩摩藩の表高は七十数万石ですが、郷士だけで一〇万人もいるとなると、城下士なども含めれば、十数万人が自分の土地を守るために全土でハリネズミのようになって迎え撃つ事態になる。しかもあの位置ですから、戦うための補給線は非常に長くなる。関が原で勝利した家康にしても、薩摩だけは、地政学的にも外交的にも取り潰すことがかなり難しい唯一の藩だったのではないか。薩摩の方もそこをよく分かっているからこそ、最後まで江戸時代的な藩にはならない道をとったのでしょう。
-------

ここで言う「江戸時代的な藩」とは兵農分離で武士が在地性を失っている藩のことですが、薩摩の軍事力の強さが「中世」を残したことにあるというのはちょっと面白い指摘ですね。
もちろん、幕末の薩摩が軍事面では極めて急進的な開明派であったことも明白で、開明的な特質と「中世」的特質をうまく組み合わせたところが薩摩の強さなのかもしれません。
磯田氏が薩摩について何かまとめたものがあれば、是非読んでみたいですね。

>長州の識字率も薩摩と同水準か
民衆レベルでは、おそらく長州の方が相当上だと思います。
奇兵隊のような発想は民衆の知的水準がある程度高い地域でないと生まれないでしょうし、また、長州は「真宗王国」、特に西本願寺の強い地域であることも影響していると思います。
一般に日本の識字率向上は宗教とは関係なく進んでいて、これはヨーロッパ、特にプロテスタント地域とは対照的ですが、ここでも例外が真宗地域ですね。
富山出身の安丸良夫氏の思い出にもちらっと出てくるように、真宗には強固な「講」組織があり、これが教育機関としても機能しているので、この点だけでも浄土真宗を一掃した薩摩との違いが生じているはずです。

ゾンビ浄土真宗とマルクス主義の「習合」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33c77b57ad5d51d0ef3bdbfbe9c1e67d

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Statisticsと寸多知寸知久と統計 2016/03/06(日) 14:31:39
小太郎さん
江戸時代の識字率はどのような史料に基づいてどのように推定しているのか、根拠が知りたいところですが、速水・磯田両氏の対談では、感覚的な印象の域を出ていない、という感じがしますね。
薩摩の識字率の低さには驚きますが、そんな藩がなぜ明治維新の原動力になりえたのか、歴史上の奇妙な逆説というべきでしょうか。いや、下級武士とはいえ、武士階級の識字率は別だから、薩摩全体の識字率はパラメーターに入れなくともよい、と考えるべきか(長州の識字率も薩摩と同水準か)。
薩摩と長州はあくまで導火線にすぎず、識字率の高い三都(京都・大阪・江戸)で大爆発(革命)が起きた、と考えればいいのか。

トッドのいうパリ/ボルドー軸(A10号線)ではありませんが、東海道五十三次沿線の識字率なんていうものがわかれば面白いな、という気もします。東海道中膝栗毛の弥次喜多はふざけているようだけれども、実は維新の志士の先駆けだ、というような・・・。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E4%BA%A8%E4%BA%8C
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001178681
杉仁氏の『近世の在村文化と書物出版』は眺めたことがありますが、杉亨二の曾孫とは私も知りませんでした。Statistics の訳語をめぐって、鴎外と論争になった人ですね。
------------------
統計と訳せば、スタチスチックには「統へ計る」という合計の意味しかないことになると匿名の手紙は書いているけれども、それならば、ケミストリーを化学と訳して妖怪変化の学と考えたり、フィジックスを理学と訳せばへぼ理屈の学問と考えたりする人がいるからと言ってこれらの訳字を排斥することは、バカげていると論じる。(福井幸男氏)
------------------ 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代の識字率

2016-03-06 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 6日(日)09時43分49秒

速水融編『歴史のなかの江戸時代』(藤原書店、2011)には「終章 江戸時代と現代」として速水氏と『武士の家計簿』の著者・磯田道史氏の対談が載っていますが、そこで次のようなやりとりがあります。(p403以下)

------
江戸時代の識字率

磯田 ただ、一つ江戸時代に関する誤謬だと思うのは、江戸時代の識字率を過大に評価しすぎていることです。最近、リチャード・ルビンジャーさんの『日本人のリテラシー─1600-1900』(川村肇訳、柏書房、二〇〇八年)や明治期のさまざまな調査を見ても、イングランドや北欧社会よりも、日本の識字率は高かったなどといった議論にはとても賛成できません。地域差が大きかったことを忘れてはいけない。
速水 そうですね、地域差はものすごく大きい。
磯田 大都市とそれ以外ではかなり異なっている。男女差も大きい。明治期の調査を元にすれば、例えば京都、大阪、江戸の男性に限って言えば、識字率は七割程度まで推定しうる。京都の男性なら、八─九割を想定してもおかしくない。あるいは農村でも、近畿の滋賀の村なら、男性で七─八割、女性で四─五割といった識字率でもおかしくない。それに対し、薩摩などでは全く状況は異なります。鹿児島県の明治十五頃の調査では、女性だと識字率は一割程度。江戸時代まで遡れば、おそらく一割に達していない。男性でも、薩摩なら五割を超えるかどうか、という程度ではないか。そうしたことをトータルに合算すれば、国民全体の識字率はせいぜい四割程度ではないか。
速水 四割でもひょっとすると過大評価かもしれない。
 『いさなとり』という幸田露伴の初期の作品がありますが、「いさな」というのは魚のことです。この小説に、娘が学校で字を習って、母親に新聞を読んで聞かせる、という場面が出てくる。これは、貧しい家の話ではなく、むしろ豊かな大きな家の話なんです。江戸時代の全体としての識字率を過大評価してはいけません。
 とはいえ、江戸時代に書籍の出版が非常に盛んだったことは確かです。一定の読者層は確実に存在していた。杉仁さんが『近世の在村文化と書物出版』(吉川弘文館、二〇〇九年)で詳しく描いていますが、村の庄屋や上層農民などの読者層のネットワークが地方にまで広がっていた。全国民的な識字率とは区別する必要がありますが、こうした文化のネットワークは存在していました。
-------

「せいぜい四割程度」「四割でもひょっとすると過大評価かもしれない」の時期がいつ頃なのか、必ずしも明確ではありませんが、男女合わせて四割前後なら、エマニュエル・トッドの言う「二十歳から二十五歳の男性の識字率五〇%というハードル」 は軽く超えていそうですね。
杉仁氏の『近世の在村文化と書物出版』には上野(群馬県)の事例が出てくるので、私も一応読んでいたのですが、次の磯田氏の発言に出てくる杉亨二の曾孫云々は知りませんでした。

-------
磯田 「日本の近代統計学の父」と言える、杉亨二の曾孫さんですね。この前も、国会図書館の中でばったりお会いしました。
 一定の読者層の形成は見られても、識字率は、男女差、個人差、地域差が非常に大きいということですね。カルロ・チポラが作成した一八五〇年頃のヨーロッパ諸国の識字率一覧表がありますが(佐田玄治訳『読み書きの社会史─文盲から文明へ』御茶ノ水書房、一九八三年)、これによると成人識字率はそれぞれ、スウェーデンは約九〇%、プロイセンとスコットランドは約八〇%、イングランドは六五─七〇%、フランスは五五─六〇%、ベルギーは五〇─五五%、イタリアは二〇─二五%、スペインは約二五%、帝政ロシアは五─一〇%です。敢えて言えば、おそらく同時代の日本は、このイタリアとベルギーの間、約三〇─四〇%程度ではないかという気がします。
-------

以上のやり取りを見ると、全体として江戸時代のいつの時点で「二十歳から二十五歳の男性の識字率五〇%というハードル」 を超えたのかを確定するのはけっこう難しそうですが、ただ、その時点を推定することが可能な地方もそれなりにありそうですね。
また、神仏分離・廃仏毀釈を調べていて、この出来事も地方差が大きそうだなという印象は受けていたのですが、寺院を全廃した薩摩は識字率の点でも相当特殊な感じですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「宗教の死、イデオロギーの誕生」

2016-03-05 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 5日(土)11時23分42秒

『新ヨーロッパ大全』(原題は L'Invention de l'Europe)の構成は、

序説 時間と空間
Ⅰ 人類学的基底─家族制度と農地制度
Ⅱ 宗教と近代性
Ⅲ 宗教の死、イデオロギーの誕生
Ⅳ イデオロギーの解体

となっていて、やっと第Ⅲ部 に入ったところなのですが、その冒頭は次のようになっています。(p249)

-------
 宗教の死によってイデオロギーの誕生が可能になる。人間は、消え失せた神の国のイメージの代わりに、直ちに新しい理想社会のイメージに飛びつく。一七八九年以降、ヨーロッパは相次いで押し寄せるイデオロギーの波に洗われることになる。フランス大革命、自由主義、社会民主主義、共産主義、ファシズム、民族社会主義……これらのイデオロギーの波は、時間と空間の中で脱キリスト教化の各段階に結びついている。社会的形而上学が宗教的形而上学に取って代り、地上の理想の幻影が天上の彼岸の幻影に取って代る。近代政治も伝統宗教と同様、人類学的決定因を逃れることはできない。かつては家族的諸価値が、各地で大いなる宗教的形而上学の構造を決定していた。永遠の来世における人間と神の関係が、自由主義的なものになるか権威主義的なものになるか、人間同士の関係が、平等主義的なものになるか不平等主義的なものになるかが、それで決まっていた。その同じ基本的な素材を、大いなる政治的形而上学─すなわちイデオロギーが手にとって、今度はこの地上に理想の都を建設しようとする。市民の国家─これが永遠者の代わりである─に対する関係は、自由主義的なものか権威主義的なものとなるだろう。市民同士の関係は、平等主義的なものか不平等主義的なものとなるだろう。
-------

こうした美しい表現ではないにしろ、前半部は政治学などでもよく言われていたことですが、エマニュエル・トッドの独創はそれを彼の言う「人類学的基底」に結びつけたところですね。
従って、「近代政治も伝統宗教と同様、人類学的決定因を逃れることはできない」以下については強い反発も当然に生じているはずです。
ただ、今のところ私はトッドの分析に強い共感を感じていて、それはやはりトッドが語るナチズム誕生のメカニズムが相当に説得的であることによるのですが、その点は後で触れたいと思います。
上記引用部分の少し後で、トッドは、

-------
家族的決定因の存在を知らずに、宗教の死とイデオロギーの誕生、そして宗教とイデオロギーの間に存在する構造の類似性に気付く観察者はだれでも、諸価値が宗教的な次元から政治的次元へと直接移動したという印象を持つだろう。そして、宗教的要素が政治的要素の形を決める、権威主義的な神が強い国家を産出し、自由主義的な神が議会主義を促進するのであると、考えてしまうだろう。しかしそこに観察された移動は実は錯覚であって、それは家族制度という根本的決定因子の恒常性のなせるわざに他ならない。とはいえ、ある任意の場所における政治的理想社会が、神の都が地上に降り来ったものという様相を呈するのは事実である。
-------

と述べていますが、私も一応は「宗教の死とイデオロギーの誕生、そして宗教とイデオロギーの間に存在する構造の類似性に気付く観察者」の一人であって、「諸価値が宗教的な次元から政治的次元へと直接移動したという印象」を持っていたのですが、『新ヨーロッパ大全』を読み終えるころには、それが「錯覚」であったかどうかが明確になりそうです。

>筆綾丸さん
チェス・将棋・囲碁の天才たちのひらめきの中に顕現していた神々のうち、チェスの神は既に死に、将棋の神は臨終を迎え、最後まで残った囲碁の神もどうやら黄昏を迎えつつあるようですね。

>速水融氏や鬼頭宏氏
ありがとうございます。
少し検索してみたところ、速水氏の『歴史人口学研究─新しい近世日本像』(藤原書店、2009)などは期待できそうですので、さっそく調べてみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

悲しき熱帯 2016/03/04(金) 14:36:31
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%94%B0%E7%BF%94%E5%A4%AA
将棋では、若手のホープである千田翔太君などは、対人間の棋譜にはあまり関心がなく、対コンピュータソフトの棋譜の研究に没頭しているようです。人間よりコンピュータの方がすでに圧倒的に強いから、という実に合理的な思考の持ち主ですが、もしかすると、非合理的な思考というべきか。
どんなに強い人間でも、コンピュータに勝てないんじゃつまらないや、ということで、将棋はやがて滅びるかもしれないですね。

http://japanese.engadget.com/2016/03/01/alphago-deepzengo/
ドワンゴの川上量生会長が囲碁にも本腰を入れ始めたようですが、囲碁も同じ運命かもしれません。七冠王になるのではないか、と天才の呼び声の高い井山裕太氏もコンピュータソフトには歯が立たない、そんな時代もすぐ来るのでしょうね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9F%E6%B0%B4%E8%9E%8D
よくわからないのですが、速水融氏や鬼頭宏氏の研究に、江戸期の人口動態のほか、識字率への言及があるかどうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%98%E5%AD%97%E7%8E%87%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%9B%BD%E9%A0%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88
ウィキの世界地図をみると、識字率の低い国々はアフリカ大陸に集中し、なんだか『悲しき熱帯』のようで、涙が出てきますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「二十歳から二十五歳の男性の識字率五〇%というハードル」

2016-03-04 | グローバル神道の夢物語

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 4日(金)10時48分17秒

エマニュエル・トッド『新ヨーロッパ大全Ⅰ』(藤原書店、1992)に次のような指摘があります。(p184以下)

-------
絶対的時間、文字の時間
 一般民衆の口承文化から文字文化への移行というものは、基本的歴史現象である。識字化は、たしかに社会の近代化の過程の唯一の決定因であるとまでは言えないだろうが、政治的近代性と経済的近代性との必要条件であることは言うまでもない。それゆえ必然的に識字化の歴史はヨーロッパの歴史の基本的成分の一つを成すのである。ところがヨーロッパの識字化過程を全体として検討してみるなら、それが実に長い期間にわたっている点と、地方と民族によって大きな時間的隔たりがあることに、驚かずにはいられない。プロテスタント宗教改革によってテイクオフが促進された時期と、西ヨーロッパ諸国の中で最も遅れた国が識字化された時期との間には、五百年近くの歳月が流れているのである。現在のポルトガルは、どうやら十八世紀のスウェーデンの識字化水準をまだ越えていない。
 手に入れられるあらゆるデータ─スウェーデンの試験記録簿に見られる昔の調査、あるいはまた、これより近年の、一九〇〇年から一九八〇年のヨーロッパ各国の国勢調査から引き出される指摘─を同時に用いることによって、この極めて長期にわたる歴史を地図化することができる。というのも、特定の地方が一定の識字率に達した年代は、おおむね推算することができるのである。最も有意的な指標は、二十歳から二十五歳の男子の識字率が五〇%を越えた時点である。これは当該地方社会が文字文化が多数派になる時代に入ったことを示すものである。スウェーデンの場合、このハードルを越えた年代は、西暦一七〇〇年以前に位置する。北フランスの場合は、一七〇〇年から一七九〇年の間である。南フランス、北イタリア、アイルランドは、一七九〇年から一八五〇年の間、南イタリア、南スペインは一九〇〇年から一九四〇年の間、中部ならびに南部ポルトガルは一九四〇年から一九七〇年の間である。
【中略】
 二十歳から二十五歳の男性の識字率五〇%というハードルと、そのハードルを越えた年代、この二つは本書の中で今後、重要な変数として扱われることになるだろう。というのも、人々が印刷された文書を読むことができるということは、イデオロギー上の近代性の必要条件なのである。読みの能力というものによって、明確な主張を持った政治文書が大衆の中に滲透すること、それぞれの地方の住民が自分たちに見合ったイデオロギーを選択することが可能になるのである。
-------

識字化では意外なことにスウェーデンがものすごく早かったとのことで、「文明の中心から隔たった寒冷の地にあって、その住民の大部分が農民であるこの国で、住民の圧倒的多数がわずか数世代の間に文字を読むすべを身につけてしまったのである。一六八〇年から一六九〇年までの間に生まれた世代の識字率は、どうやらすでに八〇%に達していると見られる。すでに十八世紀半ばには、スウェーデンにおいて大衆識字化の過程は完了している」(p177)のだそうです。
そのメカニズムも非常に興味深いのですが、私にとって当面の関心は、日本はどうだったのか、ということです。
日本において「二十歳から二十五歳の男性の識字率五〇%というハードル」が越えられたのはいつだったのか。
この種の研究はおそらく日本でもなされているのでしょうが、いったい何を見たらよいのか。
適当な文献をご存知の方がいらっしゃれば、ご教示願いたく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「真宗貴族」との階級闘争

2016-03-03 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 3日(木)10時16分32秒

当初の漠然とした予定では寺院を全廃した薩摩藩を丁寧にやろうと思っていて、富山藩はそのためのつなぎ程度のつもりだったのですが、なんだかずいぶん長く富山藩に付き合うことになってしまいました。
結果だけみれば薩摩藩の方が遥かに厳しい事態だった訳ですが、薩摩藩は浄土真宗との関係が出てこないので、単純といえば単純ですね。
他方、「真宗王国」の富山藩は調べれば調べるほど色んな点でバランスの悪い藩だなと思わざるをえません。
安丸良夫氏の思い出にも出てくるように、富山の仏壇というのは本当に絢爛豪華で、現在でも五百万円くらいは当たり前、一千万円を超えるような仏壇を持つ家庭もけっこうあるそうですね。
しかも、十年おきくらいに分解して奇麗に磨きたてるのだそうで、それにも半端ではない金額がかかります。
背後には高級車ディーラー網にも匹敵する巨大仏壇産業が存在している訳ですね。
そしてもちろん寺院の異常なまでの巨大さ、豪華さも「真宗王国」ならではです。
今は一般家庭も立派になっているからそれほど目立ちませんが、明治維新のころには寺院の立派さが極端に目立ったでしょうね。
「真宗王国」の「真宗貴族」は寺町の豪壮な「邸宅」に住み、富山藩士は加賀藩の監視の下、窮乏する藩財政のあおりを受けて給与は減る一方だった訳ですから住宅事情も貧弱で、林太仲らの心境を思いやると、合寺令はビンボー武士階級の富裕な「真宗貴族」に対する「階級闘争」のような感じもしてきます。
私が安丸良夫氏を「ゾンビ真宗門徒」と考えるのは、別に安丸氏が真宗側の史料に安易に依拠している、などと非難したいからではありませんが、それにしてもマルクス主義の歴史家である以上はもう少し「階級闘争」的視点があってもよいような感じがします。

エマニュエル・トッドの『新ヨーロッパ大全Ⅰ・Ⅱ』をきちんと読み込んでおきたいので、次回投稿は少し間隔が空くかもしれません。

>筆綾丸さん
>都成竜馬君
私は将棋も囲碁も不案内なのですが、将棋は既にAIに追い越されつつあり、囲碁も相当危ないと聞きますので、そうした事情は職業として将棋・囲碁を選ぶ人にどんな影響を与えているものなのでしょうか。
この先、完全にAIに負けるような時代になったら、勝ち負けではなく美の世界、勝ち方の美しさを競うような世界に入るのかな、とも妄想してしまいます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

26歳ー老いらくの棋士 2016/03/01(火) 12:02:42
小太郎さん
いえいえ、気にしないでください。

小津安二郎の旅はまだ続いていて、「一人息子」(1936)から最後の「秋刀魚の味」(1962)まで約20本、ほぼ見終えました。「彼岸花」(1958)における母娘(浪花千栄子と山本富士子)の京言葉は、関東の味気ない標準語で育った人間にとっては、羨ましいような響きがありますね。

http://www.asahi.com/articles/DA3S12227961.html
関係のない話で恐縮ですが、都成竜馬君がやっとプロになれたようです。NHKの小学生名人戦で優勝したときの将棋にはしびれたものですが、彼ほどの才能を以てしても苦節15年とは、なんとも恐ろしい世界です。すでに26歳だから、あまり上の方には行けないかもしれません。

http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp535.html
「世紀の観測!重力波?~アインシュタイン最後の宿題~」(2月21日)を見て、100年前の一般相対性理論の公式の凄さに、あらためて驚きました(と言って、公式は全く理解できないのですが)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『仏々(ぶつぶつ)の明治維新』

2016-03-01 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 1日(火)11時56分50秒

安丸良夫氏の『神々の明治維新』がよく売れたのは、そのネーミングのセンスの良さにもよりますね。
『神々の明治維新』はリヒャルト・ワーグナーの『神々の黄昏』とかアナトール・フランスの『神々は渇く』などを連想させる非常に格調の高いタイトルで、これが「被害者」側の視点に立って『仏々(ぶつぶつ)の明治維新』だったりしたら語感も悪く、全く売れなかったでしょうね。
ま、それはともかく、最近の研究者が『神々の明治維新』をどのように評価しているかの一例として、引野享輔氏(福山大学人間文化学部准教授)の「近世後期の地域社会における『神仏分離』騒動」の「はじめに」を引用してみます。
澤博勝・高埜利彦編『近世の宗教と社会3 民衆の<知>と宗教』(吉川弘文館、2008)所収の論文です。

-------
 圭室文雄『神仏分離』、安丸良夫『神々の明治維新』の両著は、いまだにその価値を失わない神仏分離研究の金字塔といってよい。両著以前において、神仏分離・廃仏毀釈という出来事は、社会混乱期に行われた暴挙・大珍事に他ならず、その影響力も一過性的なものにすぎないと評価されてきた。しかし、両著の成果によって、そこに込められた明治新政府の周到な政策意図が明らかになり、神仏分離研究に対する重要性の認識は飛躍的に高まったわけである。
 もっとも、圭室・安丸の主要な関心は、神仏分離が近代社会に及ぼした影響であったため、その評価が神道国教化という最終局面に向け、予定調和的に収斂されていく傾向は否めない。たとえば、近世前期にまで遡り、諸藩の寺社整理を取り上げても、それはあくまで神仏分離政策の「前史」として把握される。また、儒者・国学者らによるさまざまな排仏論も、神仏分離・神道国教化の「思想的根拠」として、ひとまとめに評価されてしまう。そして、地域民衆レベルでの神仏分離の意義も、国家強制に対する抵抗か受容かという二者択一的な視点でのみ論じられることになる。
 こうした神仏分離研究の現状に対して、新たな画期となったのが、田中秀和『幕末維新期における宗教と地域社会』である。同著のなかで、神仏分離は近世後期の地域社会における問題と捉え直され、藩国家や神職の立場からその意義が論じられた。圭室・安丸の視点からすれば、一八〇度の転換といってもよいこのような分析視座の移行により、神仏分離ははじめて近世・近代を見通す研究素材となったのである。
 もっとも、同著の考察により、藩国家が神仏分離を実行へと移す道筋はかなり明確になったものの、地域民衆レベルでの関与・対応はいまだ展望的にしか触れられていない。そこで本章では、近世社会の問題として神仏分離をみる田中の視点を継承しつつ、民衆層まで裾野を広げた考察を行ってみたい。具体的な素材としては、福山藩領山手村という一村落の鎮守管理体制に焦点を絞り、近世後期に起こった「神仏分離」騒動を取り上げる。近世的な宗教世界はなぜ神仏分離を生み出したのか。そして、それが近代社会にいかなる影響をもたらしたのか。こうした疑問に対し、近世一村落の指しもつれ事件から、解決の糸口を探ることが本稿の課題である。
-------

『幕末維新期における宗教と地域社会』(青文堂、1997)は田中秀和氏(1960-96)の遺稿集で、優秀な研究者だったんでしょうけど、ずいぶん若くして亡くなられた方ですね。

「日本史思想史研究会(京都)のブログ」
【書評】井上智勝「田中秀和著『幕末維新期における宗教と地域社会』」
http://nihonshisoshi.blog64.fc2.com/blog-entry-171.html

そして近世史の研究者である引野氏は、圭室・安丸著の「神道国教化という最終局面に向け、予定調和的に収斂されていく傾向」の単純さが我慢ならず、神仏分離を「近世後期の地域社会における問題」と捉え直した田中秀和氏に触発されて「藩国家」より更に深く、地域民衆レベルの解明を目指されているわけですね。
引野氏の論文についての感想は後ほど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゲンテイ」にこだわる長崎家

2016-03-01 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 1日(火)10時50分49秒

>筆綾丸さん
>『薔薇の名前』はよくわからん話
一番の謎は『薔薇の名前』というタイトルですね。
去年、装飾写本に対する興味から久しぶりに河島英昭氏訳の東京創元社版上下二巻(1990)を手に取り、写字生に関する描写をパラパラと眺めているうちに、何故この小説のタイトルが『薔薇の名前』なのだろうと疑問が生じ、結局そのまま全部読み直してみたのですが、理由は分かりませんでした。
そして最後の訳者解説に、諸説あるけどよく分からないんだよね、とあって、ああそうなのか、で終わってしまったのですが、改めてウィキペディアあたりの説明を読んでも完全に納得できるものはないですね。

>長崎「言定」
長崎家には代々の通称を「ゲンテイ」とする妙な伝統があって、「二代玄貞、四代玄庭、五代愿禎、そのあと六代言定、七代元貞」と続いたそうですが(p5)、「言」を用いたのは「言定」だけですから、確かに「言霊」方向に進む定めだったのかもしれないですね。
林家は三代続いて「太仲」ですが、「たちゅう」という奇妙な響きにはどことなく儒教的な雰囲気を感じないでもありません。
ずいぶん昔に、「塔頭(たっちゅう)の 高き塀をば 乗り越えて 入れば泥棒 だっちゅうの」と詠んだことが想い出されます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Merkel-Raute 2016/02/28(日) 19:08:08
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%96%9C%E6%96%B9%E5%BD%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%96%87%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
『世界最強の女帝 メルケルの謎』にメルケルの斜方形の話が出てきますが、エーコに敬意を表して『薔薇の名前』の映画をDVDで観ていると、バスカヴィルのウィリアム(ショーン・コネリー)が修道院長との初対面の場面で、この斜方形の仕草をしているのに気づきました。ウィリアムは頭脳明晰な修道士という設定なので、メルメルに通ずるものがあります。「対称性へのある種の愛 (eine gewisse Liebe zur Symmetrie)」というのは物理学者らしい自己分析で、菱形の半分は旧東ドイツ、もう半分は旧西ドイツ、などと愚かなことを云わないところもいいですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%B3%E6%8D%95%E5%9B%9A
舞台は1327年の北イタリアですが、なぜアヴィニョン捕囚の時期(1309 - 1377)なのか、とか色々考えると、『薔薇の名前』はよくわからん話だ、と思いました。日本では、後醍醐天皇の治世ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%95
映画のエンドクレジットに、歴史の考証として、アナール学派の巨匠ジャック・ル・ゴフの名があり、びっくりしました。

長崎「言定」が「言霊」学者になったのは、「言霊」の影響としか考えられないものがありますね。

平等主義のトップランナーにはなれなかったけれども、仰る通り、「識字率の向上により、幕末にはほぼ脱宗教化が済んでいた」のでしょうね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする