学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「黙れ兵隊!」(その2)

2016-10-09 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 9日(日)11時44分55秒

>筆綾丸さん
>『シン・ゴジラ』
元防衛大臣・石破茂氏の感想がけっこう面白いですね。

「ゴジラを攻撃した戦車はどこから来たか」

軍事オタクの水島朝穂教授の感想も読んでみたいものです。

>キラーカーンさん
>>武官の最高責任者が東條英機ならば、文官の最高責任者は岸信介

今年3月22日に出版された『「憲法改正」の真実』は、小林節氏が「国民怒りの声」から参議院選挙に出馬するために作成された選挙ツールでしょうから、最初から学問的価値などは重視しておらず、あまり分析しても仕方ないのかもしれないですね。

>親任官(国務大臣:大将格)と奏任官(大佐)では格が違いますので、岸が「上から目線」であってもさもありなんです

そうはいっても、自宅に軍服で来た東條側近の憲兵司令官に「黙れ兵隊!」と言える人はなかなかいないでしょうね。
参考までに『岸信介回顧録─保守合同と安保改定』(廣済堂、1983)から、もう少し詳しく引用しておきます。(p31以下)

------
 六月にサイパンが陥落すると元老、重臣たちの中に東条首相に対する批判が急激に強まった。東条首相は内閣改造によって重臣の何人かを入閣させて内閣を強化しようとし、そのために私に辞表の提出を求めた。しかし私は拒否した。この話を聞きつけた四方(しかた)という東京憲兵隊長が、商相官舎にいた私を訪ねてきて、軍刀を立てて、
「あなたは東条総理が辞表を出せと言われたのを断ったというが、誠にけしからん。大臣は総理が右を向けと言われれば右を向き、左を向けと言われれば左を向けばいいのだ」
 といきまいた。私は、
「黙れ兵隊! 何を言うか。お前のような輩がいるからこのごろ東条さんの人気が悪くなるのだ。右を向けと言われて大臣が右を向くのは陛下のご命令があったときだけだ。それを東条さん本人が言うのならともかく、お前のような訳の分からない兵隊が言うとは何事だ。たわけたことを言うな。下がれ!」
 と一喝した。四方隊長は軍刀をガチャガチャさせながら、
「覚えていろ!」
 と、捨てぜりふを残して帰っていった。
-----

これで終わりかと思ったら続きがあって、

-----
 その夜、淀橋の私邸で夕食を取っていたとき、陸軍の青年将校が五、六人訪ねてきいて会いたいと言ってきた。家族の者や秘書たちは心配して、
「どうせろくな話ではないでしょう。万一のことでもあれば大変だから、へいを乗り越えて隣に逃げたらどうですか」
 とすすめたが、私は、
「いや、会ってみよう。応接間に通せ」
 と言って出かけていった。青年将校たちは、
「今日の閣議で東条閣下に反対された閣僚がいたと聞きましたが、それはどなたでしょうか」
 と言うので、
「それはわしだ」
 と答えると、
「多分そうではないかと見当をつけて参りました。私たちは陸軍ではありますが、岸閣下のご意見に賛成です。今後もご健闘を期待しています」
 と言って帰っていった。
-----

同年輩の憲兵隊長よりも、むしろこちらの青年将校の集団の方が不気味ですが、この人たちはいったい何をしに来たのですかね。
激励に来たというのも変な話ですから、陸軍の東条とは異なる立場の人の指示を受けて正確な情報収集のために来たのか、あるいは、無理強いはするなとの条件付きで東条なり四方なりの命令でやんわりと脅しに来たけれども、効果がなさそうなのであきらめて帰って行った、ということなのでしょうか。
ま、その点についての考察は特になく、

-----
 その後、星野内閣書記官長が訪ねてきた。書記官長は東条首相の意を受けて来たのである。その当時の内閣制度は閣僚の一人一人が陛下に対し輔弼の責任を負っており、閣議で全員が一致しなければ、内閣不統一の責任をとり総辞職する以外に方法がなかった。現在のように総理の一存で閣僚の首をすげかえることは不可能だった。書記官長は、閣内の意見不一致でなく、私が辞表を出せば内閣の総辞職は避けられるので、そうして欲しいという要望を伝えに来たのである。私はどうしても応じなかった。
-----

ということで幕を閉じます。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記三つの投稿へのレスです。

ふたつの inviolable et sacré 2016/10/07(金) 19:26:17(筆綾丸さん)
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5
仰る通り、トッドはいいですね。
ブリコラージュ(日曜大工)好きのフランスには随所にブリコの店があって、同国のインテリたちをを苛々させるのが得意なトッドですが、「ブリコラージュ屋」というのは非常にフランス的ですね。

樋口陽一氏は齢八十過ぎの、元気なお爺さんですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%AC%AC%E4%B8%80%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
井上ひさしは「高校同期の親しい友人」(238頁)で、「菅原文太は高校の一学年上の友人」(190頁)とありますが、仙台一高は多才な人材を輩出する高校なんですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A416%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)
明治憲法第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」は、フランスの1791年憲法の国王の地位を規定した条文「アンビオラーブル・エ・サクレ(不可侵にして神聖)」に由来するもので、法的には、王は民事・刑事の裁判に服さないというだけの意味なんですね。(59頁)
とすると、ルイ16世の処刑(1793年)は法的にどうなのか、と思いましたが、前年(1792年)に王権は停止されているから、別に憲法には違反しない、ということになりますか。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Droit_de_propri%C3%A9t%C3%A9_en_France
1789年の人権宣言には、所有権は不可侵にして神聖(La propriété étant un droit inviolable et sacré)とありますが、国王の inviolable et sacré と所有権の inviolable et sacré の相違は、どのように考えればいいのか、よくわかりません。

平将門と坂東深海盆 2016/10/07(金) 20:24:06(筆綾丸さん)
http://bourne.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%A9
『ジェイソン・ボーン』と『シン・ゴジラ』を堪能してきました。
『シン・ゴジラ』は、科学的には荒唐無稽な話ですが、法律的には色々な問題を提起していているように思われ、興味深く感じました。それはともかく、防衛省(自衛隊)の全面的協力がなければできない映画でしょうが、よく協力してくれたものだ、と感心しました。

http://www.yurindo.co.jp/yurin/sinsho/4338
http://www.mirc.jha.or.jp/products/BTJ/BTJsample/exp/IV-3.html
藤岡換太郎氏の『相模湾 深海の八景』で、坂東深海盆(海溝三重点)というのを初めて知ったのですが、「関東の昔の名前である坂東地域の堆積物がすべてここまで運ばれて溜まる」ので、こう呼ばれるのだそうです。
海洋投棄された放射性物質による異常進化であるならば、坂東深海盆こそゴジラ誕生の最適地ではあるまいか。坂東深海盆を出て相模舟状海盆(相模トラフ)を這って進むと仮定すれば、一回目と二回目の上陸に対して、合理的な説明ができそうな気がしました。また、坂東・投棄・異常という言葉の連想から、もしかすると、ゴジラは平将門の化身であって、さらには、二回目の上陸地点が鎌倉なのは、理由は不明ながら、八幡神のお導きなのかもしれない、などと妄想しました。
海溝三重点というのは、地球では、坂東深海盆にしかないとのことです。

追記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%AD
トッドの「場所の記憶」とは意味が違いますが、ゴジラをめぐるゲニウス・ロキというようなことが考えられるのかもしれません。

言わずもがなのことになりますが、ゴジラが東京駅まで来ているというのに、天皇は一体どうされているのか、一切言及しないのは、この映画のいちばん不自然な点ですね。ウィキによれば、発端は「2016年11月3日8時30分ごろ」とありますから、文化勲章の親授式がまもなく始まろうという時間帯になる訳で、なんとも微妙な暗示ではありますが。
些末なことながら、首相官邸執務室に片岡球子の富士の絵が掲げられていましたが、どういう意味なのか。また、執務室には天照皇大神宮のお札もありましたが、これは総監督・庵野秀明氏のささやかなジョークなのでしょうね。

駄レス 2016/10/09(日) 02:25:10(キラーカーンさん)
>>立法府において行政側の人間が勝手に議事を仕切る権利はない
大統領制なら妥当するのですが、立法府と行政府が融合している議院内閣制の場合は
必ずしもそうではありません

一般的には「閣議=与党幹部会」なので、閣議で与党を縛ることは可能ですし、
それが「あるべき」形態なのでしょう
英国では下院院内総務(あえて言えば、自民党幹事長兼国対委員長に相当する役職)は
閣僚の一員なので、内閣としても党員としても(下院)は閣議(行政)の統制を受けます。
旧民主党の「影の内閣」でも政調会長は閣僚の一員でもありました。

わが国のように、議院内閣制かつ同一の政党(与党)でありながら、
内閣と与党とが完全分離されているというのが異例だと思います
(首相の答弁でも「立法府で議論の上」という答弁がありますが、
 「与党党首」として党役員を指導しないのかという問いは「政党ガバナンス上」成立します)
これも、戦前の「超然内閣」や「中間内閣」という歴史的経験の「遺産」なのでしょう

>>武官の最高責任者が東條英機ならば、文官の最高責任者は岸信介
首相は「文官職」なので、文官の最高責任者も「総理たる東條」なのですが、
文官の閣僚という意味でも、賀屋興宣蔵相もおり、いくら「二キ三スケ」の一人でも
岸が「文官の最高責任者」とはならないでしょう

しかも岸は「国務大臣兼軍需次官」という「閣議出席資格のある次官」という摩訶不思議な立場でした
(商工省が軍需省に改組された際、大臣を東條が兼任したため、商工大臣の岸が次官に「降格」となったため)

似たような例としては
宇垣陸相が病気休養の際、次官が「班列国務大臣」(次官兼任ではない)として「入閣」した例
(この際は、次官からの転任)
児玉源太郎が内務大臣から参謀次長に「降格転任」の際、本官の台湾総督はそのままにして
「親任官」の地位は維持させたこと(台湾総督兼内相→台湾総督兼参謀次長)
があります

>>ふたつの inviolable et sacré

近代民法では「所有権絶対の原則」というものがあり、所有権に基づく「物の使用、収益、処分」は
完全に所有者の自由であり、所有権の行使自体は裁判の対象にならない(法律の制限を受けない)
という点で、共通性があると思います。

日本国憲法でも摂政在任中は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」なので、
天皇も当然に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされています

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E7%A7%81%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E5%89%87

>>「黙れ兵隊!」
親任官(国務大臣:大将格)と奏任官(大佐)では格が違いますので、岸が「上から目線」であってもさもありなんです
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マジックワードとしての「立憲主義」(その2)

2016-10-09 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 9日(日)10時50分18秒

>筆綾丸さん
>キラーカーンさん
「立憲」という言葉自体は明治時代から普通にありますが、「立憲主義」は昭和になってから、それもごく僅かの例外を除いて戦後の表現ですね。
そして石川健治氏によれば、「立憲主義」が「現在のように豊かな響きをもつマジックワード」として使用されるようになったのは、「七〇年代後半、樋口陽一の登場以降のことである。参照、樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』(勁草書房、一九七五年)、同『近代憲法の思想』(日本放送出版協会、一九八〇年)」とのことで、比較的新しい現象ですね。

マジックワードとしての「立憲主義」

今回、『「憲法改正」の真実』を眺めて驚いたのは、樋口氏が、

-----
 民主主義、デモクラシーとは、人民(デモス)の支配(クラチア)、つまり人民の支配です。突きつめれば、一切の法の制約なしに人民の意思を貫き通す、これが<民主>のロジックですね。
 一方、立憲主義とは「法の支配」、rule of lawです。この law は、国会のつくる法律を指すのではなく、国会すらも手を触れることのできない「法」という意味がこめられています。
-----

と書いていることです(p40)。
ごく一般的な理解によれば、「法の支配」は英米法的な原理ですね。
ところが、樋口氏は、例えば江川紹子氏によるインタビュー<「立憲主義」ってなあに?>(ヤフーニュース、2015年7月4日)では、

------
『立憲主義』はどこから出てきた考え方ですか。

「ドイツです。元々は、民主主義がスムーズに展開しなかったドイツで、議会主義化への対抗概念として出てきました。ドイツは普仏戦争に勝って、ようやく1871年に統一します。憲法が作られ、議会も作られる。歴史の流れでは、王権はだんだん弱くなり、議会が伸びてくるわけですが、ドイツの場合は、イギリスやフランスのように議会が中心になるというところまでは、ついに行かなかった。けれど、もはや君主の絶対的な支配ではない。どちらも、決定的に相手を圧倒できないでいる時に使われたのが『立憲主義』です。君主といえども勝手なことはできず、その権力は制限される。けれどもイギリスやフランスのように議会を圧倒的な優位にも立たせない。つまりは、権力の相互抑制です。この時期のイギリスやフランスは『民主』で、ドイツは『立憲主義』。明治の日本は、そのドイツにならったわけです。
ドイツはその後、ワイマール憲法で議会中心主義になり、そこからナチス政権が生まれて失敗した。それで、戦後のドイツは強力な憲法裁判所を作るわけです。やはり議会も手放しではよろしくない、ということで」


と答えていて、ドイツ法に疎い私にとってもかなり違和感のある議論です。
これって、一般に「外見的立憲主義」と揶揄されているものなのではないですかね。
そして、「法の支配」との関係はどうなってしまっているのか。
私自身は佐藤幸治の、

------
一七八九年のフランスの「人および市民の権利宣言」は、「権利の保障が確保されず、権力分立が定められていないすべての社会は、憲法をもつものではない(一六条)と宣明しているが、われわれはここに近代立憲主義の心髄の簡潔な要約をみることができる。
------

という理解に従って(『憲法〔新版〕』、青林書院、1990、p6)、何となく「立憲主義」をフランス法的なものと捉えており、樋口氏もそんな立場ではないかなと想像していたのですが、最近の樋口氏が「立憲主義」とは要するに「法の支配」だとかドイツで生まれた考え方なのだとか言われると、ずいぶん混乱してしまいます。
ま、このあたりも個人的には樋口氏の老化を感じる部分なのですが、これは単に私が樋口氏の学説の変遷を丁寧に追っていないだけなのかもしれません。
ただ、正直言って、私は樋口氏にそれほど知的関心を抱いていないので、これ以上追究するのはやめておきます。
フランスの歴史と思想への興味は尽きないのですが、別に樋口氏を介在させる必要など全然なくて、直接にフランスの歴史家・思想家にあたればよいだけの話なので。
それにしても「立憲主義」は本当にマジックワードですね。
様々な学者が様々な意味で「立憲主義」という表現を用い、中には樋口氏のように同一人物でも時と場所によって全く違う(ように見える)意味づけをする人もいて、「立憲主義」は虹色に輝く幻のようです。

立憲主義(ウィキペディア)

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

ビリケン 2016/10/05(水) 12:36:00(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0826-a/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%B3
田中耕太郎について言及できる知識がなくて、なんですが、『「憲法改正」の真実』に、以下のような箇所があります(37頁~)。
--------------
樋口
(前略)
 意外な感じがするかもしれませんが、比較をすると、現代よりも明治憲法の時代のほうが、立憲主義という言葉は人々のあいだに定着していたのですよ。
 戦前期にどれだけ「立憲」「非立憲」という言葉が一般の人たちにも浸透していたかという例として、ひとつ紹介したいのですが、先生はビリケンをご存知ですか。
小林 大阪の通天閣に「ビリケンさん」の像がありますねえ。顔は浮かびます。幸運を運ぶ神様でしたっけ。
樋口 そのビリケンのニックネームをもらってしまった首相がいますね。
小林 ビリケン首相! 帝国議会を無視した超然内閣として批判を浴びた寺内正毅首相ですね。
樋口 ビリケンの由来は「非立憲」。「非立憲」をもじったうえで「ビリケン寺内」という言葉が、はやったんですね。ビリケンに顔つき、というより頭つきが似ていたからというのもあったのですが、ここでの話のポイントは、一般の人々のあいだで流行語になるくらい「非立憲」ということばが定着していた、ということです。
 では、なぜそんなに「立憲」「非立憲」という言葉が、戦前の日本で一般的だったのか。
 天皇主権の明治憲法の時代には、立憲主義というものが、とても分かりやすく見えていたからなのですね。天皇が統治権を総攬していた、あるいは実質的には藩閥政府(のちに軍閥)が権力を握っていたという状況では、憲法によって縛られるべき権力が何なのかが明確でしたから。
(後略)
--------------
恥ずかしながら、単にビリケンに似ていたから、と思っていたのですが、確かに「非立憲」を含意していなければ風刺にならないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%B4%8E%E4%BA%AB
孫崎享氏は、失礼ながら、亡くなれば、たとえば、孫崎享享年七十七、とかなるのですね。

立憲非立憲 2016/10/06(木) 22:52:32(キラーカーンさん)
>>「ビリケン寺内」

当時、寺内は、自他共に認める「藩閥の権化」山縣の後継者でしたから、当然に「非立憲」側となります。
(桂は、その数年前に鬼籍に入っています。寺内も、首相退任後程なく、山縣に先立ちこの世を去ります
 つまり、山縣は桂、寺内と二人の後継者に先立たれました)

戦前の政党には「立憲○○党」というものが結構あります
立憲政友会、立憲改進党、立憲同志会、立憲民政党、立憲国民党・・・

注目すべきは、伊藤博文が自由党系と伊藤系官僚を糾合して設立した政党にも
「立憲」の二文字が入っていることです(立憲政友会)

立憲を「選出勢力(衆議院)」に基礎を置く政党内閣
非立憲を「非選出勢力(官僚・軍部・貴族院」に基礎を置く超然内閣

との二大政党制的政権交代構造(政治体制論としては、議院内閣制と大統領制との交代体制)
として描いたのが、坂野 潤治が「1900年体制」と名づけたものです
(1900年体制は事実上桂園時代と重なります)
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「黙れ兵隊!」(by 岸信介)

2016-10-06 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 6日(木)23時08分47秒

>筆綾丸さん
今日、樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』(集英社新書、2016年3月)を購入してパラパラ眺めてみましたが、あまり感心しませんでした。
樋口陽一氏は少し老化現象が進んでいるようですね。
例えば、

------
樋口 自民党の国会軽視は数限りなく続いているので、例を挙げればキリがないのだけれど、内閣総理大臣席から野党議員に対して「早く質問しろよ」(二〇一五年五月二八日)、「どうでもいいじゃん」(八月二一日)と野次を飛ばした事件があったではないですか。
小林 前者は民主党の辻元清美議員、後者は蓮舫議員の質疑のときの野次ですね。
 首相は陳謝にもなっていないような陳謝をして、世間的にも、野党のほうが馬鹿みたいにムキになって、と笑い話のような形ですまされてしまいましたが。
樋口 その首相の野次で思い出したのが、戦前の帝国議会で政府委員席から「黙れ」と言った陸軍省の役人の事件です。これは大問題になりました。帝国議会の権威をなんだと思っているのか。
【中略】
樋口 小さなことのようで、これは権力分立という大原則を破っているのです。立法府において行政側の人間が勝手に議事を仕切る権利はない。
 戦前のケースでは、陸軍省の副課長級の役人の発言でした。これが大問題になったのですが、今回は一国の首相の発言だったにもかかわらず、笑い話で終わっている。帝国議会の時代のほうが、緊張感をもって政治をしていた。
 それにくらべて、今は、議員もメディアも、みんな鈍感になっています。
------

などとありますが(p45以下)、これは佐藤賢了(1895-1975)のことなんでしょうね。
お手軽にウィキペディアから引用すると、佐藤の「黙れ事件」とは、

------
1938年(昭和13年)3月3日、“黙れ事件”を起こす。軍務課国内班長として衆議院の国家総動員法委員会において陸軍省の説明員として出席。国会審議で佐藤が法案を説明し、法案の精神、自身の信念などを長時間演説した事に対し、他の委員(佐藤の陸軍士官学校時代の教官でもあった立憲政友会の宮脇長吉[1]など)より「やめさせろ」「討論ではない」などの野次が飛んだが、これを「黙れ!」と一喝。政府側説明員に過ぎない人物の国会議員に対する発言として、板野友造らによって問題視されるも、佐藤が席を蹴って退場したため、委員会は紛糾し散会となった。その後杉山元陸相により本件に関する陳謝がなされたが、佐藤に対し特に処分は下らなかった。


というものですが、陸軍大臣の形式的な陳謝であっさり終わってしまっていて、全然「大問題」になっていません。
樋口氏は余りに大雑把に「戦前の帝国議会」と言っていますが、これは天皇機関説事件の3年後、国家総動員法制定の時期ですから、代議士が「帝国議会の権威をなんだと思っているのか」と空威張りしたところで、陸軍の高級将校連中から鼻で笑われて済んでしまった、というだけの話です。
樋口氏は事実関係の整理と分析を行う基礎的能力がかなり衰えているようですね。
また、

------
樋口 戦前のエスタブリッシュメントの子孫と言えば、安倍首相などは、まさにその典型ということになりますね。
小林 そうです。彼の母方の祖父、岸信介なんて、大日本帝国のもとで戦争したときの最高責任者のひとりです。武官の最高責任者が東條英機ならば、文官の最高責任者は岸信介じゃないですか。
------

というやりとりもありますが(p31)、岸信介の孫であることを理由に安倍首相に罵倒の限りを尽くすのは出自による差別を禁じた憲法14条の平等原則に照らし、憲法学者の態度として些か問題があるような感じがしますし、小林氏の「文官の最高責任者」という表現は意味不明で、興奮のあまり訳のわからないことを口走っているような感じがします。
ま、個人の趣味としては東條英機と並置するのも結構ですが、それだったら岸信介が東條内閣打倒を謀り、自宅に押しかけて恫喝を加えた東條側近の四方諒二・東京憲兵隊長に「黙れ兵隊!」と怒鳴りつけたエピソードなども添えてあげるのが公平な態度のように思われます。

岸信介(1896-1987)
四方諒二(1896-1977)

岸信介は「昭和の妖怪」みたいなブキミなイメージだけがやたらと広がっていますが、実際に回想録などを読むと、けっこう面白い人ですね。
意外なことに岸のユーモアのセンスは抜群で、岸担当の新聞記者だった古澤襄氏のエッセイには、岸の豪胆さとともに非常にユーモラスな一面が良く描かれていますね。

------
「黙れ兵隊」と一喝

 私にとって一九六〇年七月一四日は生涯忘れられない日となった。この日,岸信介首相は総理官邸の大広間に足を踏み入れた時に,暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った。政治部の岸番記者だった私はその真横に立っていて、暴漢がふるう短刀の白刃が二度、三度岸首相の大腿部に刺さるのを目の当たりにした。崩れ落ちるように倒れた岸首相を思わず跨いで官邸の電話に飛びつき、夢中で「岸が刺された。生死は不明」と一報を入れたが、このことが後々まで「君は人が死んだと思って私の頭を跨いだのだから・・・」と岸さんから言われるはめになった。頭を跨いだと言うのは岸さんの脚色で、倒れた岸さんの足を跨いだと言うのが本当のことだが、時の首相の身体を跨いだのは若気の至りだったと今では反省している。
【中略】
 戦前の岸さんの逸話として残っているのは、サイパン玉砕の破局を迎えても徹底抗戦を唱える東条首相と単身対決し、倒閣に持ち込んだことがあげられる。土壇場の最終閣議で同調してくれる筈だった重光外相と内田農相は約束を破って発言せず、最年少の岸商工相だけが東条首相に退陣を迫るはめになってしまった。閣議が終わって私邸に戻った岸さんを訪れたのは、東条首相の腹心だった四方東京憲兵隊長だった。軍刀をがちゃつかせて恫喝する四方に対して、「黙れ,兵隊」と一喝したが、その時は斬られることを覚悟したと言う。「でも四方は私の頭は跨がなかったよ」と言って私を指さしながら、楽しそうに笑った岸さんが印象的だった。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ビリケン 2016/10/05(水) 12:36:00(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0826-a/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%B3
田中耕太郎について言及できる知識がなくて、なんですが、『「憲法改正」の真実』に、以下のような箇所があります(37頁~)。
--------------
樋口
(前略)
 意外な感じがするかもしれませんが、比較をすると、現代よりも明治憲法の時代のほうが、立憲主義という言葉は人々のあいだに定着していたのですよ。
 戦前期にどれだけ「立憲」「非立憲」という言葉が一般の人たちにも浸透していたかという例として、ひとつ紹介したいのですが、先生はビリケンをご存知ですか。
小林 大阪の通天閣に「ビリケンさん」の像がありますねえ。顔は浮かびます。幸運を運ぶ神様でしたっけ。
樋口 そのビリケンのニックネームをもらってしまった首相がいますね。
小林 ビリケン首相! 帝国議会を無視した超然内閣として批判を浴びた寺内正毅首相ですね。
樋口 ビリケンの由来は「非立憲」。「非立憲」をもじったうえで「ビリケン寺内」という言葉が、はやったんですね。ビリケンに顔つき、というより頭つきが似ていたからというのもあったのですが、ここでの話のポイントは、一般の人々のあいだで流行語になるくらい「非立憲」ということばが定着していた、ということです。
 では、なぜそんなに「立憲」「非立憲」という言葉が、戦前の日本で一般的だったのか。
 天皇主権の明治憲法の時代には、立憲主義というものが、とても分かりやすく見えていたからなのですね。天皇が統治権を総攬していた、あるいは実質的には藩閥政府(のちに軍閥)が権力を握っていたという状況では、憲法によって縛られるべき権力が何なのかが明確でしたから。
(後略)
--------------
恥ずかしながら、単にビリケンに似ていたから、と思っていたのですが、確かに「非立憲」を含意していなければ風刺にならないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%B4%8E%E4%BA%AB
孫崎享氏は、失礼ながら、亡くなれば、たとえば、孫崎享享年七十七、とかなるのですね。
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「ブリコラージュ屋」

2016-10-06 | トッド『家族システムの起源』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 6日(木)21時19分6秒

>筆綾丸さん
『問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新国家論』(文春新書)、平易な口調で深い内容を語っていて、やはりトッドは良いですね。


分量的に一番多い「トッドの歴史の方法」は独白の形式になっているので少し妙な感じがしましたが、「編集後記」によると<芦ノ湖畔の山のホテル─トッド氏はこのホテルを「ジェームズ・ボンドの映画に出てくる山荘のようだ!」と気に入り、冬景色と富士山を楽しんだ─へ出かけ、堀茂樹氏と編集部が聞き手となり、二日間かけて収録したもの>(p251)だそうで、質問部分を省略して適宜整理しているのですね。
ま、それでもトッドの語り口は充分に生きていますから、こういうやり方もありかな、とは思います。
「ブリコラージュ屋」という表現は特に気に入りました。(p122)

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概念は深く掘り下げない

 私は、深遠な精神の持ち主ではなく、あくまで、雑多なものを組み合わせて仕事をするブリコラージュ屋です。深遠な精神の場合には、脳髄液を分泌するように、みずから概念を分泌し、自分が用いる概念を深く掘り下げて考えるのでしょう。私はそのタイプではありません(笑)。
 たとえば、デュルケームの『自殺論』であれば、まず「自殺」の定義がおこなわれ、次に「自殺」の分類がおこなわれます。
 独仏の観念論よりもイギリスの経験論を重視する家系の影響で、私は、概念をめぐる議論は結局のところ不毛な堂々めぐりにしかならないと考えています。ヴィトゲンシュタインも述べているように、究極的には「赤い色」は「赤い色」としか定義できません!トートロジー〔同義反復〕にしかならないのです。ですから私は、ごくありふれた、慣習的な言葉づかいをします。これはむしろ言葉に対する警戒心、言葉が一人歩きすることに対する警戒心が強いからです。
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能力の点ではトッドに遥かに劣りますが、私も自分を「ブリコラージュ屋」タイプだと思っていて、この種の軽口は励みになります。
「場所の記憶」は<ピエール・ノラ〔『記憶の場』仏版全七巻の編者〕の「記憶の場」という表現をひっくり返したもの>だそうですが(p122)、『不均衡という病』よりも一段と分かりやすい説明がなされていますね(p124以下)。

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家族由来の価値観は強固ではない

 価値観の伝達の問題に戻りますが、私も当初は、親が子供に教え込むことを通して価値が伝達されるという精神分析学的モデルに則っていました。子供の無意識の中にハンマーで叩き込まれるような「強い価値」によって価値の伝達が維持される、と考えていたのです。しかし、学校、街、近所、企業など、家族よりも広い環境で、漠然とした軽い模倣プロセスによって再生産される「弱い価値」の伝達の方が、実は重要だったのです。たとえば、学校や地域社会の影響に抗して家族内だけで子供を教育しようとしても、その試みは初めから失敗する運命にあるのです。
 ここでの逆説は、「弱い価値」の伝達によって強いシステムが維持される、というところにあります。「場所(テリトリー)の記憶」とは、この逆説にほかなりません。
 もし人々が「強い価値」を抱いているのなら、その人がどこに住もうともその価値観は維持されるはずですが、そうなってはいません。人々が抱いている価値観は実はそれほど強固ではないのです。人々の価値観がそれほど強固ではないからこそ、言い換えれば、人間が可塑的な存在だからこそ、場所ごとの価値観が永続化するのです。人が移住すれば、次第にその場所の新たな価値観を受け入れていくのです。
 「場所の記憶」は、われわれを解放してくれる概念です。この概念によれば、人間をある不変の本質に閉じ込めることなしに、地域文化や国民文化の永続性を捉えられます。また、この概念は、「家族システム」という概念と矛盾するどころか、むしろそれを補完します。
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トッドは「トンデモ」か?
「場所の記憶」
「いささかフロイト的、精神分析的な」価値観モデルからの変遷
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田中耕太郎は「司法権の独立」を侵したのか?

2016-10-05 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 5日(水)11時15分10秒

ネットで読める田中耕太郎批判の大半は孫崎享氏と同レベルの陰謀論か、あるいは共産党系の硬直したアメリカ観が反映したものですね。
とはいえ、例えば「社会科学者の随想」というブログには事実関係がそれなりに丁寧にまとめてあります。

朝日新聞連載「新聞と9条」の記事に観る「田中耕太郎最高裁長官の対米隷属」的な司法精神史(その4・完)

また、早稲田大学教授・水島朝穂氏のブログには、偏った立場からではあるものの、法律論がそれなりに展開されていますね。

砂川事件最高裁判決の「超高度の政治性」――どこが「主権回復」なのか 2013年4月15日
砂川事件最高裁判決の「仕掛け人」  2008年5月26日

水島氏のブログに紹介されているアメリカ側の公電、

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1959年8月3日発信
1959年8月5日午後12時16分受信
大使館 東京発
国務長官宛
書簡番号 G-73
情報提供 太平洋軍司令部 G-26 フェルト長官と政治顧問限定
在日米軍司令部 バーンズ将軍限定 G-22

共通の友人宅での会話のなかで、田中耕太郎最高裁判所長官は、在日米大使館首席公使に対し、砂川事件の判決が、おそらく12月に出るであろうと今は考えていると語った。弁護団は、裁判所の結審を遅らせるべくあらゆる法的術策を試みているが、長官は、争点を事実問題ではなく法的問題に限定する決心を固めていると語った。これに基づき、彼は、口頭弁論は、9月初旬に始まる週の1週につき2回、いずれも午前と午後に開廷すれば、およそ3週間で終えることができると信じている。問題は、その後に生じるかもしれない。というのも、彼の14人の同僚裁判官たちの多くが、各人の意見を長々と論じたがるからである。長官は、最高裁の合議が、判決の実質的な全員一致を生み出し、世論を「かき乱し」(unsettle)かねない少数意見を避ける仕方で進められるよう願っている、と付け加えた。

コメント:最近、大使館は、外務省と自民党の情報源から、日本政府が、新日米安全保障条約の国会承認案件の提出を12月開始の通常国会まで遅らせる決定をしたのには、砂川事件判決を最高裁が当初目論んでいたように(G-81)、晩夏ないし初秋までに出すことが不可能だということに影響されたものであるという複数の示唆を得た。これらの情報源は、砂川事件の位置は、新条約の国会提出を延期した決定的要因ではないが、砂川事件が係属中であることは、社会主義者〔当時の野党第一党、日本社会党のこと〕やそのほかの反対勢力に対し、そうでなければ避けられたような論点をあげつらう機会を与えかねないのは事実だと認めている。加えて、社会主義者たちは、地裁法廷の、米軍の日本駐留は憲法違反であるとの決定に強くコミットしている。もし、最高裁が、地裁判決を覆し、政府側に立った判決を出すならば、新条約支持の世論の空気は、決定的に支持され、社会主義者たちは、政治的柔道の型で言えば、自分たちの攻め技が祟って投げ飛ばされることになろう。

マッカーサー
ウィリアム K. レンハート 1959年7月31日
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を読む限り、私も田中耕太郎が裁判についてアメリカ側に一定の情報を流したのだろうな、裁判所法第75条第2項「評議は、裁判長が、これを開き、且つこれを整理する。その評議の経過並びに各裁判官の意見及びその多少の数については、この法律に特別の定がない限り、秘密を守らなければならない。」違反の問題はあるだろうな、とは思うのですが、だからといって「司法権の独立」が侵害されたという意見には賛成できません。
そもそも田中耕太郎は一般人の想像を絶する頑固者で、およそ誰かの命令で動くような人物ではありません。
「社会科学者の随想」氏が紹介する、

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問題の外交文書を入手した1人,元山梨学院大学教授(法哲学)の布川玲子はいう。「自由主義陣営のなかに日本をはっきり位置づけること,これは田中耕太郎にとっての正義だった。そのために司法府の長として全力を尽くす。伊達判決破棄は,田中が自分に課した使命だったのではないか」。
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との布川氏の見方は正しくて、田中は自分の正義感・信念に従って自分に課した使命を遂行しただけで、アメリカ側の命令・指導・誘導などはおよそ考えられないですね。
「社会科学者の随想」氏は、

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ジャーナリストの末浪靖司さんは,判決翌年に田中氏が米国務省高官に判事立候補を伝えて支持を得ていることから,「論功行賞」狙いだった可能性を指摘する。
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などと書いていますが、末浪靖司氏が抱いたのは孫崎享氏と同様の妄想です。
また、水島教授は<伊達判決をめぐり最高裁への「跳躍上告」が実は、米側のアイデアに基づくものだったのではないかという疑惑が、半世紀を経て明らかになった>などと書いていますが、さすがに日本の検察官はアメリカ側に教示してもらわなければ「跳躍上告」に気づかないほど無能ではないでしょうね。
「跳躍上告」に関わった野村佐太男・清原邦一・村上朝一・井本台吉・吉河光貞は治安維持法時代からの歴戦の勇士であり、当時の検察の中でも特に緻密な頭脳を持った法律のバケモノ達ですから、素晴らしい人柄であったかどうかは別として、法律家としての能力ではおそらく水島教授より上でしょうね。

砂川事件判決の核心に迫らない批評
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「田中君がわたしの膝の上でおむつを濡らした時分からの長いおつきあい」(by 山田三良)

2016-10-02 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月 2日(日)12時17分8秒

一昨日の投稿で「そのあたりの事情は孫崎氏が一部を孫引きする鈴木武雄編『田中耕太郎 人と業績』の横田喜三郎の寄稿を見れば明らかで」と書きましたが、同書を確認してみたら、横田の寄稿ではなく、座談会記録「田中耕太郎先生を偲ぶⅡ 人と生活」(参加者:鈴木竹雄・松田二郎・横田喜三郎・田中二郎・相良惟一・豊崎光衛)の中での横田の発言の方でした。(p622以下)
ただ、田中耕太郎が国際司法裁判所裁判官の候補となった事情、選挙戦の状況等は鶴岡千仭氏の寄稿に詳しいので、参考までにそちらを紹介しておきます(p434以下)

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ヘーグの田中先生

  一
 昭和三十四年の夏、わたくしが国連局長になって程ないときであった。田村町四丁目の日産館に間借り住いをしていた外務省の国連局長室に、山田三良先生が前ぶれなしでお見えになった。右手をつきそいの女性の肩におき、左手をステッキでささえて。もうずいぶんおみ脚が不自由だった。
 「来年は国際司法裁判所の選挙の年だが、政府はどんな方針でのぞむつもりなのか。」先生から口を切られた。
 かねがね政府は国際法委員会にも国際司法裁判所にも日本から適材をおくりこみたいと念っていること、国際法委員の方は三年前に日本が国連に加盟したときの総会で横田喜三郎先生が選出されたこと、しかし裁判官の方は、栗山茂大使(元ベルギー大使、元最高裁裁判官)をたてて戦ったけれども、そのときの相手方はヘーグの前裁判官で再選を狙う顧維鈞だったし、第一彼は安保理常任理事国である中国の出身で、裁判官の選挙では安保常任国出身の候補者は必ず当選させるという不文律にささえられていたこと、国連に加盟したばかりの日本と安保常任国の中国との取組みは新入幕力士と大関の相撲みたいにてんから位負けの恰好であったこと、それやこれやの原因でけっきょくは敗けてしまったこと、などをお話した上で、わたくしは、「今では日本の発言力もずっと向上しているので、適当な候補者を立てれば成功の見込みがありそうです。こんどこそは、ぜひとも日本人裁判官をヘーグにおくりこみたいと存じます」とお答えした。
 「政府がそういう考えであれば、わたしも安心しました。ところで誰を候補者に指名するつもりですか。」
 「まだどなたとも決っておりません。横田(喜三郎)先生は御家庭の事情があるとおっしゃって、ヘーグに行く気持ちは全然ないと言い切っていらっしゃいます。」「ほんのわたくし限りの思いつきですが、」とおことわりして申し上げた。「この際何とか田中耕太郎先生に御出馬いただけないでしょうか。最高裁長官の方は間もなく退官されるときが来ているので、任期いっぱい在任なさって、退官後ひきつづきヘーグにお出かけになれるわけです。好都合なタイムテーブルだと思います。」
 「それはいいところに目をつけてくれた。田中君なら国際法専門ではないけれど、立派な候補だ。一日も早く田中君を候補にするように政府の肚をかためたまえ。たしかにこの際田中君は最高の人選だ。田中君とは、田中君がわたしの膝の上でおむつを濡らした時分からの長いおつきあいだ。田中君にはわたしから候補指名を引き受けるように説得する。もっとも、それより前に政府が田中君に御苦労を頼むことに決心してもらわなければならない。君たち、事務当局の方ではもう田中君を推すことにしているのだから、わたしはこの足で岸君(当時の総理)を訪れることにしよう。」矢つぎ早やの勢いこんだお話である。古武士を思わせるあのお顔にいくぶん上気した紅潮のさすのをお見うけしたと思う。
 国際司法裁判所は条約局長の主管事項なので、さっそくその場に高橋通敏条約局長に御足労ねがって協議した。高橋局長にも異論のあろう筈がなく、われわれは田中候補指名の方向で選挙準備を進めることになった。
 山田先生には、外務省の仕事でたびたび御指導にあずかる機会にめぐまれた。がそれよりも、先生の娘婿の福井勇二郎君と小学校以来ずっと悪友の間柄であったことや、一高時代から江川英文先生とお親しくしていただいていた関係もあって、山田先生にはかなり頻繁にお目にかからせていただいたのだが、後にも先にもこの時ほど山田先生の気負い立った御様子を目にした例しはなかったと思う。俗っぽい言い方で恐縮だが、山田先生がどれだけ高く田中先生を買っておられたかを目のあたり拝見したような気がした。
 当の田中耕太郎先生からはなかなか色よい御返事がなかったが、とどのつまりは「引きうける」ことに踏みきっていただくことができた。
 「七十歳にもなってから、外国で新しい仕事にとりかかることだ。それも九年間、七十九歳の高齢に達するまでヘーグに踏みとどまる必要がある。君たちのせっかくの申し出とは知りながら、おいそれと引きうけられなかったのはわかってもらえるだろう。といって、山田先生からはわたしの出馬が日本として世界の国際法秩序の確立強化に貢献する所以であると大上段に攻めたてられるし、大磯のおじいさん(吉田茂元総理)からは、大事な仕事だから引きうけたらいいだろうといった風におさえつけられる。そんなこんなで渋々ながら覚悟をきめたわけです。最高裁をやめたら研究と著述の生活にかえりたいと思っていた。どっしりと腰の据わった民主主義や平和主義を日本に植えつけるために、世論におもねらず、老後の余力を尽くしたいとも念っていた。そうした念願を捨て去れねばならないのが心残りであった。」その頃のお気持を田中先生はそんな風に述懐しておられた。
【後略】
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山田三良(国際私法学者。東京帝大教授、京城帝大総長、日本学士院院長)は1869年生まれ、田中耕太郎より21歳上で、昭和34年(1959)の時点では90歳ですね。
ウィキペディアあたりで見るとひたすら華麗な経歴の持ち主ですが、実際に『回顧録』(山田三良先生米寿祝賀会、1957年)を読んでみると、若い頃は学歴面で理不尽な差別に苦しんだ人であり、普通の功なり名を遂げた学者の回想とは一味異なる興味深い記述が多いですね。
そして山田夫人は西洋砲術の江川太郎左衛門の子孫で、山田夫人の弟が江川英文(東大教授、国際私法、1898-1966)です。
江川家は日蓮宗の世界では大変な名家で、中山法華経寺にある聖教殿の建立には夫人の影響を受けて日蓮宗に帰依した山田三良がずいぶん貢献したそうです。

山田三良(1869-1965)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%B8%89%E8%89%AF
「法華経に支えられた人々 山田三良」
http://www.nichiren.or.jp/people/20090222-69/

さて、私は孫崎享氏の著書を読んだことがなかったので、『戦後史の正体 1945-2012』(創元社、2012)、『アメリカに潰された政治家たち』(小学館、2012)と、鳩山由紀夫・植草一秀氏との共著『「対米従属」という宿痾』(飛鳥新社、2013年)の三冊をパラパラと眺めてみましたが、あまり感心しませんでした。
こういう人が外務省国際情報局長という要職にいたとは信じられないのですが、総合的な知性の面では田中耕太郎とは差が大きいので、孫崎氏が田中耕太郎を評するのには元々無理がありそうですね。
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