学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「宗教改革は中世に属する」(by エルンスト・トレルチ)

2017-04-06 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月 6日(木)12時20分5秒

深井智朗氏『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』の一番基本的な構図は筆綾丸さんが言及された「古プロテスタンティズムと新プロテスタンティズムというトレルチの分類」なので、参照の便宜のために少し引用しておきます。(p106以下)

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二つのプロテスタンティズム

 初期の宗教改革運動も多様な宗派を生み出した。ただ、それらルターやカルヴィンなどの思想と洗礼主義の改革は、かなり異なった性格を持っている。その意味では二つのプロテスタンティズムがあると言ってよい。
 この点に注目したのが、一九世紀末から二〇世紀初頭のドイツで活躍した神学者エルンスト・トレルチ(一八六五~一九二三)や、社会学者マックス・ヴェーバーであった。彼らはこの洗礼主義をはじめとする、宗教改革者たちに批判され、排除され、迫害さえされた改革者に注目したのである。エルンスト・トレルチはそれを「新プロテスタンティズム」と呼んで、宗教改革の時代のプロテスタンティズムと区別した。こうした分類には、どちらにも当てはまらないような、いわば歴史現象の「字余り」の部分を軽視しているという批判がなされている。一九世紀末に比べて、今日における洗礼主義の歴史研究が飛躍的に発展していることを踏まえると当然のことである。それにもかかわらず、この区分は、宗教改革が生み出した二つのプロテスタンティズムの姿を概観するためには、今日なお有効でわかりやすい交通整理であろう。そこでトレルチの分類に基本的には従いながら、現代までのプロテスタンティズムの潮流を追うことにしよう。
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エルンスト・トレルチはマックス・ウェーバー(1864-1920)の一年後に生まれ、四年後に亡くなっていますから、全くの同時代人ですね。

Ernst Troeltsch

深井氏はトレルチの区分への批判を重々承知の上で、「宗教改革が生み出した二つのプロテスタンティズムの姿を概観するためには、今日なお有効でわかりやすい交通整理」として、この分類に従う訳ですね。
もう少し引用を続けます。

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 トレルチの有名な命題は、「宗教改革は中世に属する」というものである。ルター派もジュネーブのカルヴァンの改革もそれは基本的に中世に属し、「宗教改革」という言い方にもかかわらず、教会の制度に関しては社会史的に見ればカトリックとそれほど変わらないのだという。なぜならそこでは宗教は宮廷や一つの政治的領域の支配者のものであり、改革も政治主導で行われる点では中世と変わっていないからである。
 また宗教の決定権は個人にはなく、政治を司る王や政府に与えられている。トレルチはこれを「古プロテスタンティズム」と呼んだ。古プロテスタンティズムと言っても、すでに古くなり、消滅したプロテスタンティズムの意味ではない。一五五五年のアウクスブルクの宗教平和の決定によって、帝国の宗教の一つとしての法的地位をまがりなりにも認められたプロテスタンティズムは、領主が選択可能な帝国の宗教の一つとなり、体制化して保守勢力の一つとなった。領主と協力して領内の宗教を統一し、社会に秩序観や道徳を提供するシステムとなったのである。その点から見れば、ルター派はカトリックと同じシステムなのだ。そのようなプロテスタント、とくにルター派の形態を「古プロテスタンティズム」と考えたのだ。「古プロテスタンティズム」は、「新プロテスタンティズム」と並行して存在するプロテスタンティズムの類型の一つである。
 プロテスタンティズムは、宗教改革からスタートし、古い社会システムを破壊して信じる自由を主張したので、近代世界の成立に寄与したというイメージがつきまとう。しかし、古プロテスタンティズムは、近代世界の成立に何らかの寄与をしたと言われる洗礼主義のような勢力の敵であり抑圧者であった。
 近代世界の成立との関連で論じられ、近代のさまざまな自由思想、人権、抵抗権、良心の自由、デモクラシーの形成に寄与した、あるいはその担い手となったと言われているのは、カトリックやルター派、カルヴィニズムなど政治システムと結びついた教会にいじめ抜かれ、排除され、迫害を受けてきたさまざまな洗礼主義、そして神秘主義的スピリチュアリスムス、人文主義的な神学者であったとするのがトレルチの主張である。【後略】
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ここだけ読むと、ホントかな、という感じもするのですが、「第6章 保守主義としてのプロテスタンティズム」を読み進めるに従い、確かに「今日なお有効でわかりやすい交通整理」だなあと思えてきます。
なお、第6章の冒頭には「森鴎外が見た保守的プロテスタンティズム」として「かのように」が紹介されています。(p126以下)

>筆綾丸さん
一覧表を見て「チャリン」と「ヂャリン」の違いには気づいたのですが、ケアレスミスかと思っていました。
なるほど単数・複数の使い分けですか。
翻訳には何か出典があるのか、それとも独自研究なのかを知りたくて PONSEXCELSVS 氏のブログを眺めてみましたが、グルメ記事が大半のようで、プロフィールにも特別な記述はなく、どんな人か全然分からないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Luthers とは俺のことかと Luter 言い 2017/04/05(水) 16:47:44
小太郎さん
ご丁寧にありがとうございます。
27条の「nummus in cistam tinnierit」と28条の「nummo in cistam tinniente」のところですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Nummus
https://it.wikipedia.org/wiki/Nummo
ラテン語では、単数形は nummus で複数形は nummi、現代のイタリア語では、単数形は nummo で複数形は nummi ですから、28条の「nummo in cistam tinniente」は「nummi in cistam tinniente」の誤記かもしれないですね。
27条の単数形 nummus は animam(魂)に対応し、28条の複数形 nummi は questum et avariciam(強欲と貪欲)に対応し、したがって、前者は「チャリン」という単数っぽい擬音語に、後者は「ヂャリン」という複数っぽい擬音語に、細かく訳し分けられているようですね。

「宗教改革を説明する木版画」(69頁)では、ルターの表記は Luter で、現代では Luthers ですが、なぜ Luter が Luthers になったのか、どうでもいいようなことながら、興味を覚えました。

古プロテスタンティズムと新プロテスタンティズムというトレルチの分類は、わかりやすいですね。(107頁~)
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「ちゃりん」は27・28条?

2017-04-04 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月 4日(火)20時53分34秒

>筆綾丸さん
森田安一氏の『ルターの首引き猫─木版画で読む宗教改革』(山川出版社、1993)を見たら、第27条に「ちゃりん」があるような書き方をしていました。
そこでラテン語版を見ると、

27. Hominem praedicant, qui statim, ut iactus nummus in cistam tinnierit, evolare dicunt animam.

となっており、"tinnierit"あたりかなと見当をつけて検索してみたら、リンク先の個人ブログに羅英日対訳が載っていて、これを見ると第27・28条のようですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

贖宥 2017/04/03(月) 15:22:26
小太郎さん
昨日、小旅行から帰って、やっと第2章まで読み進めました。仰ると通り、面白い内容ですね。

https://de.wikipedia.org/wiki/95_Thesen
贖宥状を買うときの描写に、「お金が箱の中に投げ入れられて、そのお金がちゃりんと音をたてるや否や、・・・」(35頁)とありますが、「ちゃりん」に相当するドイツ語は何だろうと、「九五ヶ条の提題」をざっと眺めてみましたが、どこにあるのか、わかりませんでした。
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追記
95 Thesen には Ablass(贖宥)と Geld(金銭)という語がやたらと出て来るのですが、全部で 95ヶ条も要らず、10ヶ条もあれば用が足りたのではないか、という気がします。クラーナハの描くルターの肖像画は、たしかに、くどくてしつこそう感じではありますが。

https://en.wikipedia.org/wiki/Indulgence
ローマのラテラノ大聖堂の碑銘の解説に、
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Indulgentia plenaria perpetua quotidiana toties quoties pro vivis et defunctis (English trans: "Perpetual everyday plenary indulgence on every occasion for the living and the dead")
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とありますが、Indulgentia(贖宥)という言葉は、なるほど、こんな風に使われるのですね。

http://live.shogi.or.jp/denou/kifu/2/denou201704010101.html
第一局の棋譜は名人の完敗で、電王戦を今期でやめるのは賢い判断ですね。プライドをズタズタにされる前の尊厳死のようなもの。
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マイスタージンガーの「ちゃりん」

2017-04-04 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月 4日(火)10時52分40秒

>筆綾丸さん
>ちゃりん
モノは試しと思ってラテン語の「95箇条の提題」をグーグル翻訳にかけてみましたが、よく分かりませんでした。


「ちゃりん」はマイスタージンガーのハンス・ザックスの詩「ヴィッテンベルクの鶯」、そしてルター支持者の木版画の小冊子『ルターの首引き猫』にも出てくるそうですから、そちらもあたってみようかなと思います。

深井智朗氏は多数の著・訳書を出されていますが、とりあえず近くの図書館で入手できた以下の書籍をパラパラ眺めてみました。

『パウル・ティリヒ─「多く赦された者」の神学』(岩波書店、2016)
『ヴァイマールの聖なる政治的精神─ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』(岩波書店、2012)
エルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(春秋社、2015)
ラインホールド・ニーバー『アメリカ史のアイロニー』(大木英夫氏との共訳、聖学院大学出版会、2002)

深井氏が非常に優秀な人であることは改めて確認できたのですが、そうかといってエマニュエル・トッドを読み始めた頃のような知的興奮を感じることはできず、この先どうしたものかなと少し迷っています。
深井氏というよりドイツとの相性があまり良くないのかもしれません。
パウル・ティリヒは二重人格っぽくて、ちょっと気味の悪い人ですね。

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第一次大戦前のドイツに生まれ,ナチスから逃れてアメリカに渡った20世紀の代表的神学者にして,哲学にも大きな影響を与えたパウル・ティリヒ.「脱出」と「境界線」という言葉に象徴されるその生涯と思想を,未完成性や破綻の側面をも含めて読み解き,宗教的個人主義の時代のさきがけとして,ティリヒの神学・思想の現代的意義を問い直す.


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

贖宥 2017/04/03(月) 15:22:26
小太郎さん
昨日、小旅行から帰って、やっと第2章まで読み進めました。仰ると通り、面白い内容ですね。

https://de.wikipedia.org/wiki/95_Thesen
贖宥状を買うときの描写に、「お金が箱の中に投げ入れられて、そのお金がちゃりんと音をたてるや否や、・・・」(35頁)とありますが、「ちゃりん」に相当するドイツ語は何だろうと、「九五ヶ条の提題」をざっと眺めてみましたが、どこにあるのか、わかりませんでした。
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追記
95 Thesen には Ablass(贖宥)と Geld(金銭)という語がやたらと出て来るのですが、全部で 95ヶ条も要らず、10ヶ条もあれば用が足りたのではないか、という気がします。クラーナハの描くルターの肖像画は、たしかに、くどくてしつこそう感じではありますが。

https://en.wikipedia.org/wiki/Indulgence
ローマのラテラノ大聖堂の碑銘の解説に、
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Indulgentia plenaria perpetua quotidiana toties quoties pro vivis et defunctis (English trans: "Perpetual everyday plenary indulgence on every occasion for the living and the dead")
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とありますが、Indulgentia(贖宥)という言葉は、なるほど、こんな風に使われるのですね。

http://live.shogi.or.jp/denou/kifu/2/denou201704010101.html
第一局の棋譜は名人の完敗で、電王戦を今期でやめるのは賢い判断ですね。プライドをズタズタにされる前の尊厳死のようなもの。

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