以下の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。解答はすべて記入しなさい。
日本中世の政治史や封建制度史の展開について考えるとき、守護制度の果たした役割は大きく、その成立・展開・崩壊に関する問題を無視することはできないであろう。
守護の異動は中央の政治的・軍事的情勢と密接に関係しているから、各国守護の沿革史は、すなわち、政治史の一つの表現にほかならないのである。
いま、この守護制度の消長をとおして、日本中世の政治史の一面を見ることにしよう。
鎌倉時代の守護といえば、ふつう鎌倉幕府が諸国に置いた守護をさすが、源頼朝は[ 1 ]〈4 けた数字〉(文治元)年、勅許によって、地頭とともにこれを設置する権限を与えられた。
いわゆる文治の守護・地頭であるが、ここに頼朝の全国守護権=軍事警察権が得られたものと見、鎌倉幕府守護制度の起源を認めている。
しかし、これについては、異論もある。この守護制度が日常的・恒久的なものとして整備されるのは、おおよそ、建久年間(1190~99)といわれている。
守護の職務権限については、1232(貞永元)年に制定された貞永式目(御成敗式目)の第三条
で、
一、諸国の守護人奉行の事
右、右大将家の御時、定め置かるゝ所は、[ 2 ]・強盗・山賊・海賊等の事なり、…
と定められているように、いわゆる大犯三カ条を主体としていた。
総じていえば、それは、管国内の地頭・御家人の軍事指揮および治安維持の任務である。守護はまた、管国内の地頭・御家人に対して幕府の命令を伝達するとともに、(イ)国衙在庁を指揮したり、管内寺社や駅路に関する事柄も管轄したので、その地方行政に持つカは実に大きかったといえる。
守護はもちろん、自らの経済的基礎となる所領(守護領)を、多くの場合国衙の周辺地域に持っていた。
鎌倉幕府は、主として東国御家人に、この守護の職務を恩賞の一環として与えた。
鎌倉時代には、東国政権として出発した幕府は、その支配権を次第に全国に押し拡げてゆくが、その間において、国衙在庁機構の吸収を進めた守護がいかに大きな役割を果たしたかはいまさらいうまでもあるまい。
同時代末期に顕著となる北条氏家督の独裁制が、家督および一門による守護職の独占という方法を通して実現されたのも、同じ理由からである。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての時期を象徴する動乱・戦乱は、守護の役割と性格を大きく変えた。
そのことは、例えば、(ロ)1336 年足利尊氏が制定した幕府政治の基本方針の中に「守護職は上古の吏務(国司のこと)なり。国中の治否ただこの職による」と述べられた点にもうかがうことができる。
動乱の中で、国人と称された地方武士たちが力をつけてきたため、彼らを統轄すべき立場の守護に対し、その任免権をもつ室町幕府は新たな職権を付与することを余儀なくされた。
その新たな職権とは、他人知行の作毛を実力で刈り取ること(これを[ 3 ]〈4字〉という)を取り締まる権限や、幕府の判決を執行する(これを[ 4 ]〈4字〉という)権限などである。
また、(ハ)幕府は半済令を発して、守護が国内の荘園・公領(国衙領)の年貢の半分を軍費として使用することを許し、さらに、闕町地(敵人没収地など)を配下の武士に預け置くことを認めたので、守護による国内の荘園・公領の纂奪と、管内の武士たちの被官化が促進されていった。
こうして、室町時代の守護は管国を自らの領国と化し、その領域的・封建的支配を強めて行くのであるが、吏僚的性格の強かった鎌倉時代の守護とは大きな違いがある。
このような守護を、守護大名と称している。
室町幕府は開創の当初より足利一門を主体とした守護任用策を基本方針とした。
概して弱体といわれつつも、室町幕府が長期にわたって存続したのは、足利一門および外様守護大名の連合がまがりなりにも維持されたからである。
有力な守護大名たちは多く京都に館を構えて、在住し、(ニ)幕府政治に参画した。
このため領国の経営はほとんど守護代以下の家臣に任され、守護大名自身は次第に浮き上がった存在になっていった。
応仁・文明の乱の後、幕府の一層の衰弱化とはうらはらに、いわゆる戦国大名がぞくぞくと誕生してくるが、その出身を見れば、多くの場合、国人と称される在地に深く根をおろした領主層、(ホ)領国経営を任されてその実権を握っていた守護代であり、(ヘ)前代の守護大名家がそのまま戦国大名に転化したケースは数えるほどしかない。
守護大名の多くが幕府の衰亡と命運を共にしたのは、守護の職権の源泉が幕府であることと無関係ではない。
このことは守護大名の特質の一つである。
〔設問〕
(1)[1]~[4]にあてはまる適当な語句・数字などを考えて、記入しなさい。なお、解答にさいしては、[1]以外は正しく漢字を用い、字数については〈 〉内の指示にしたがいなさい。
(2)傍線部(イ)について、幕府が各国守護に命じて、国衙在庁を指揮して作成・注進させた、一国内の荘園・公領別の田地面積、領有関係を記録した文書を何というか。3字で答えなさい。
(3)傍線部(口)について、この室町幕府政治の基本方針を定めたものを、何というか。4 字で答えなさい。
(4)傍線部(ハ)について、数回にわたって出された半済令のうちで時期的に最も早いのは、1352(観応 3)年の半済令である。この年の半済令の対象地域は 3 カ国に限定された。その 3 カ国とは、近江、美濃、それにいま 1 つどこか。2 字で答えなさい。
(5)傍線部(ニ)について、将軍に最も近く仕え、将軍の補佐や代行をする役職名を何というか。
2 字で答えなさい。
(6)傍線部(ホ)について、越後守護の上杉氏にとってかわった同家の守護代は何氏か。2 字で、しかも、主家の氏を名のる以前の名称で答えなさい。
(7)傍線部(ヘ)について、この実例として、ふさわしくないものを、以下のうちから 1つ選び、記号で答えなさい。
a.島津氏 b.大友氏 c.武田氏 d.今川氏 e.毛利氏
[解答]
(1)1-1185 2-大番催促 3-刈田狼藉 4-使節遵行
(2)大田文 (3)建武式目 (4)尾張 (5)管領 (6)長尾 (7)e
[解説]
戦国大名は、守護大名の系譜をひく者としては、甲斐の武田氏や駿河の今川氏、近江の六角氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏など数えるほどでしかなかった。
守護の系譜を下したい。
大友 六角
後に中国地方に一大勢力を築くことになる毛利氏は、宗家を継いだ時には、国衆の一員でしがなかったが、次第に実力を蓄え、厳島の戦いで陶晴賢軍を全滅させて防長両国の覇権を確立するまでになった。