ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

戦国大名と分国支配

2014-09-30 | Weblog

次の文の(1)~(10)に入れるのに最も適当な語句を、漢字で記入しなさい。
なお(3)(4)(7)(9)は氏名を漢字で書きなさい。

応仁の乱の終結後、幕府の権威は完全に失墜し、争乱にあけくれていた各地の守護大名も、在地の有力者に次第にとって代わられるようになった。戦闘をなおつづけていた畠山義就・政長の両軍を、在地の国人・土豪層が団結して撤退させたことで知られる( 1 )に見られるように、新しい勢力が着実に台頭していたのである。

事実、その後登場する戦国大名は、守護大名の系譜をひく者としては、甲斐の武田氏や近江の六角氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏など数えるほどでしかなく、細川氏・畠山氏とともに三管領にも数えられた( 2 )にいたっては、本拠地の越前を守護代の朝倉氏に、遠江を今川氏に、尾張を織田氏に奪われて滅亡する始末であった。

戦国大名の多くは、守護代やそれに準ずるクラスか、近江の浅井氏や土佐の長宗我部氏のように、在地の一土豪でしがなかった者であり、後に中国地方に一大勢力を築くことになる( 3 )も、宗家を継いだ時には、そうした国衆の一員でしがなかったが、次第に実力を蓄え、厳島の戦いで陶晴賢軍を全滅させて防長両国の覇権を確立するまでになったのである。

もっとも、美濃の( 4 )や関東の北条早雲など、在地に旧来からの基盤をもたない新興勢力がのし上がったケースもあった。

これらの戦国大名は、その一族や在地の土豪などを組織して、強力な家臣団を作りあげ、親子関係を擬制した( 5 )制度をもとに常備軍を編成し、公家・寺社などの荘園であったものを家臣に恩給として与え、農民を直接把握することをめざした。

家臣などに与えられた領地は、統一的な基準をもつ貨幣量で表示され、その数量をもとに、段銭や軍役を確実に課徴する方式が採用された。

これを( 6 )制というが、それによって戦国大名は、軍事制度の基礎を確立するとともに、領主階級の統合と農民支配、都市の流通機構の掌握を一元的、統一的に行おうとしたのである。このため、それまでの荘園制の複雑な権利関係は解体する方向に向かった。

また、( 7 )十七箇条の「惣別分限あらん者、一乗谷へ引越し、郷村には、代官ばかり置かるべき事」という有名な規定は、時期的に早すぎる感が残るが、城下町を建設して、有力家臣を集住させ、兵農分離を押し進める政策を的確に表現したものであり、他の都市についても、寺内町などで認められていた特権を一部保障する( 8 )令を出して、都市の繁栄をはかった。

さらに戦国大名は、領国経営のために、戦国家法・分国法と呼ばれる成文法を編纂したが、それは、1553 年に( 9 )が制定した「今川仮名目録追加」第 20 条に、「只今はをしなべて、自分の力量を以て、国の法度を申付、静諦する事なれば、守護の手入間敷事、かつてあるべからずと記されているように、幕府から独立して実力で法を定立し、国の静諦をめざしたものであり、( 10 )の規定のように、家臣相互の紛争を自力救済によって解決することを禁じるなど、家臣団の統制を行い、領国支配の安定と富国強兵を意図したものであった。


[解答]
1 山城の国一揆  2 斯波氏  3 毛利元就  4 斉藤道三  5 寄親・寄子  6 貫高  7 朝倉敏景(朝倉孝景でも可)  8 楽市  9 今川義元  10 喧嘩両成敗

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする