● 明治時代(明治天皇)
Satsuma Rebellion; Saigo Takamori commits suicide.
嫌な名、最後の 所為(せい)なんだ。
1877年 西郷隆盛 西南戦争
1876年に廃刀令が出され、ついで秩禄の廃止が決まると熊本で敬神党の乱、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱が起こった。
そして翌1877年には反政府勢力の拠点とされた鹿児島で不平士族らが西郷隆盛を擁して挙兵(西南戦争)。
これらの乱は政府によって鎮圧され、以後の抵抗は言論による自由民権運動へと傾いていった。
〈不平士族の反乱〉 不平士族の反乱はその中心人物の名前とともに覚えておきたい。最も重要な西南戦争は上のゴロ合せで覚え、〈西〉の共通で駄目押し。別名を神風連の乱ともいう敬神党の乱は、名前が3文字なので、名字も3文字である「太田黒伴雄」。また萩の乱の首謀者は不平士族の中心人物中、唯一〈ハ〉がつく「前原一誠」である。
残った秋月の乱を起こしたのは宮崎車之助。
「月」と「崎」が韻を踏んでいる。
▼田原坂の戦い。左が官軍、右が西郷軍(明治10年3月)。
As soon as the government army learned that the Satsuma army were storming in full strength by a report from the reconnaissance party and urgent messages from the respective troops, it dispatched the reinforcements to the troops, while having theBrigadier MIYOSHI advance for Sakoma in person.
官軍は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好旅団長自ら迫間に進出した。
In exchange for that large death toll, the government army overwhelmed the Satsuma army in the battle of Tabaru Slope, and steadily took the first step toward the rescue of Kumamoto Garrison.
こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。