●平安時代(平城天皇)
Kūkai returns from T’ang and founds the Shingon sect of Buddhism.
晴(は)れろ大空 信仰後。
806年 大日如来 空海 真言宗 高野山 金剛峰寺
空海は唐にわたって恵果に密教を学び、806年に帰朝。
高野山に金剛峰寺を開き、大日如来を信仰する真言宗を確立した。
また、空海は庶民教育のために綜芸種智院をひらき、讃岐の満濃池を再興した。
〈2014明大・文(文、史学地理、心理社会)
問8 下線部(オ)唐に留学していた最澄と空海が帰国に関して述べた文として誤っているものを、次の(1)~(4)のうち一つ選べ。
(1) 最澄と空海は、延暦23(804)年の遣唐使にしたがって入唐した。
(2) 最澄と空海は同じ年に帰国した。
(3) 最澄は伝教大師、空海は弘法大師である。
(4) 最澄は近江出身、空海は讃岐出身である。」
(答:2※最澄は805年帰着、空海・橘逸勢は806年帰着)
2014明大・情報コミュ(情報コミュ(A))
問4 下線部(エ)8世紀の時期の文化の内容を説明するものとして、もっとも正しいものを、次の1~4のうちから1つ選べ。
1 三論・成実・法相・浄土・華厳・律の南都六宗と呼ばれる学派が形成された。
2 塑像の技法が発達し、興福寺阿修羅像が造られた。
3 大僧正に任じられた行基は東大寺大仏の造営に協力した。
4 入唐後、帰国した空海は『三教指帰』を著して密教の国教化を図った。
(答:3 ※1浄土→倶舎、2阿修羅像は乾漆像、4.出家宣言の書)
〈2013慶大・法
平安京への遷都をおこなった桓武天皇は、従来の仏教勢力を旧都にとどめ、代わって、唐へと留学した僧侶による新しい仏教を奨励した。唐から天台宗を伝えた最澄や真言宗を伝えた空海が中心的な存在となる。唐に渡るに先だって、最澄は、比叡山に入り山林での修行をおこない、また空海は、その著書[ 78 ]のなかで、「金仙一乗の法、義益最も幽深なり」と説いて出家を宣言した。
(答:三教指帰(さんごうしいき))
〈2013中大・経済
問3.下線部1の空海が、儒教・道教・仏教の三教のうち、仏教が優れていることを説いた出家宣言書を何というか。漢字で解答欄に記入しなさい。
(答:三教指帰)
2014立大・法・経済(経済政策)
密教に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.これを天台宗に導入した円珍の門流はのちに寺門派と呼ばれた
b.これを天台宗に導入した円仁の門流はのちに山門派と呼ばれた
c.これを日本に伝えた空海は、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三蹟と呼ばれた
d.これを日本に伝えた空海は、庶民に門戸を開いた綜芸種智院を創設した
(答:c ※ 三筆の誤り)
2013学習院大学・経済:
弘仁年間に在位していた(3)〔イ桓武天皇 ロ平城天皇 ハ嵯峻天皇 ニ淳和天皇 ホ仁明天皇〕は、最初の勅撰漢詩文集である(5)〔イ『懐風藻』 ロ『経国集』 ハ『性霊集』 ニ『文華秀麗集』 ホ『凌雲集』〕の編纂を命じて中国風の文芸を奨励した。
また自身も空海や(6)〔イ小野道風 ロ最澄 ハ橘逸勢 ニ藤原行成 ホ藤原佐埋〕とともに三筆に数えられ、唐様の書に練達していることで著名であった。こうした文化面での唐風全盛期の時代に。法制の上でも唐で行われているのと同様に。律・令・格・式のそれぞれをすべて備えるというスタイルを達成したのであった。
(答: 3ハ、5ホ、6ハ)
解説: 三筆
2012同志社・神商心理
平安時代に入って最初の遺唐使の一行には、唐の仏教や文化を学んでわが国に大きな影響をもたらした最澄や空海といった僧侶がいたことは有名である。これらの僧と共に入唐して、三筆の一人と称され、後に承和の変において伊豆に流罪となる人物はだれか。この人物名を漢字で記せ。
(答:橘逸勢)
2013早大・政経
山家学生式を定めたのは誰か。ア最澄 イ恵慈 ウ空也 エ日蓮 オ空海
(答:ア最澄)
〈2014明大・国際日本(国際日本)
12世紀頃、京末の都の話である。[ A ]を開祖とする天台宗の総本山がある[ B ]から続々と僧侶が下山し、仏法を民衆の間に広めた。これがいわゆる「鎌倉新仏教」の発端である。
1 空欄Aに入る人物名を下記の①~④の中から選びなさい。
1空海 2源信
3最澄 4空也
2 空欄Bに入る語句を下記の①~④の中から選びなさい。
1高野山 2比叡山
3身延山 4金剛山
(答:A3、B2)
2014明大・文(文、史学地理、心理社会)
最澄は唐の天台山に学んで天台宗を伝え、比叡山に延暦寺を建てた。(カ)著作として『顕戒論』がある。
問9 下線部(カ)に関連して述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.最澄は、南都仏教勢力の戒壇独占は認めていた。
2.最澄は、南都諸宗の学僧と教義上の論争は慎重に避けた。
3.最澄がめざしたのは、小乗戒壇の設立であった。
4.最澄の著作『顕戒論』は、南都諸宗批判に向けられた。
(答:4 ※1独占を非難、2論争を展開、3大乗戒壇の誤り)