長宗我部信親(長宗我部元親の子)ー織田信長から
偏諱授与の風習[編集]
偏諱(へんき)は避けるだけではなく、貴人から臣下への恩恵の付与として偏諱を与える例が、鎌倉時代から江戸時代にかけて非常に多く見られる。
鎌倉時代には、4代将軍藤原頼経から5代執権北条時頼、6代将軍宗尊親王から8代執権北条時宗(時頼の嫡男)への偏諱など、下の字につく場合もままあったが、時代が下るにつれて主君へのはばかりから偏諱は受ける側の上の字となる場合がほとんどとなった。
室町時代には重臣の嫡子などの元服に際して烏帽子親となった主君が、特別な恩恵として自身の偏諱を与えることが広く見られるようになった(一字拝領ともいう)。特に足利将軍の一字を拝領することはよく見られ、畠山満家や細川勝元などの守護大名から赤松満政のような近臣にも与えられた。従って、武家において偏諱を授けるということは直接的な主従関係の証となるものであり、主君が自分の家臣に仕えている陪臣に偏諱を授けることが出来なかった。
しかしこれも初期の頃のことに過ぎず、特に戦国時代以降では陪臣の立場でも(主君(将軍の臣下)を介する形で)将軍等から間接的にその偏諱を受ける現象が生じている(後述も参照)。実際に、有馬晴純(義純)が少弐氏との被官関係を残したまま、将軍足利義晴から偏諱を授与されたことが後日問題となった例がある(『大舘常興日記』天文8年7月8日・同9年2月8日両条)。一方で公家でも近衛家・九条家・二条家のように将軍から偏諱を受ける家も現れた。
戦国時代から安土時代には外交手段として一字を貰い受けることもあった(織田信長→長宗我部信親など)。桃山時代には、豊臣秀吉が積極的に大名の子息に「秀」の字を与えている。結城秀康、徳川秀忠(家康の次男、三男)、宇喜多秀家、毛利秀元、伊達秀宗などがそうである。
江戸時代になると主君から家臣への偏諱授与の風習は氾濫した。しかし将軍家の偏諱を受けられる家は、徳川御三家以外は福井藩(越前松平家福井藩主家)・加賀藩(前田氏)・福岡藩(黒田氏)・米沢藩(上杉氏)・仙台藩(伊達氏)など四品・国持大名などの特定の藩の当主歴代(の世嗣も含む)や二条家などに限られ、特に選ばれた人物のみに与えられる特権、格式の表れと見なされるようになった。このため各藩や一族の支藩・分家などの当主に与えられる例は極めて稀であり、特に選ばれた一代などを除き、代々与えられる例はない。 一部を例示するが、徳川家光の「光」から徳川光圀、徳川光友、徳川家綱の「綱」から徳川綱重、徳川綱吉、徳川綱吉の「吉」から柳沢吉保、徳川吉宗、徳川吉宗の「宗」から徳川宗春、徳川家治の「治」から徳川治済、上杉治憲、徳川家斉の「斉」から徳川斉昭、島津斉彬、徳川家慶の「慶」から徳川慶喜、松平慶永などと、枚挙にいとまがない。
女性でも偏諱の慣習がみられる。それは女性が朝廷官位を得るのに際して与えられる位記に諱を書く必要があることから、父親ないし近親者から偏諱を受けるといったことである。北条時政の娘・北条政子(正しくは平政子)、近衛前久の娘・前子(中和門院)、豊臣秀吉の正室・吉子(高台院)などの多くの例がある。
稀ではあるが、弟が兄に対して偏諱を与える例もあった。これは(長幼の序の考え方でいうなら兄が上で弟が下の立場ではあるが)兄が庶子であるが故に弟が嫡男もしくは上の立場となり、兄弟の扱いが逆に(弟が兄、兄が弟として)扱われていることによるものである。例えば、室町幕府第6代将軍足利義教の庶子で僧となっていた清久(せいきゅう)は、のち還俗する際に、異母弟で第8代将軍となっていた足利義政から「政」の字の授与を受けて足利政知に改名している。また、水戸藩第4代藩主徳川宗堯の庶長子であった松平頼順は初め、弟で同藩の第5代藩主となった徳川宗翰から「翰」の字を与えられて松平翰鄰(もとちか)と名乗っていた。
また、「賜った1字(偏諱)は授与を受けたその人物しか用いることができない」という規定は全くない。その例として、
など、数多く見られ、こういった例により、前述の「武家において偏諱を授けるということは直接的な主従関係の証となるものであり、将軍等から偏諱を授かった大名等が自分の家臣(陪臣)にそのままその字を授けることが出来ない」といった原則が戦国時代以降では通用しなくなっていることが証明されている。