●奈良時代(聖武天皇)
Fujiwara no Hirotsugu rebels in northern Kyushu.
詰(なじ)れ広嗣 元気よく。
740年 藤原広嗣の乱 玄 吉備真備 恭仁京
藤原四子が相次いで病死すると、橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した玄と吉備真備を重用。740年には式家の藤原広嗣が玄・真備の追放を求めて九州で反乱を起こしたが敗れた(藤原広嗣の乱)。
聖武天皇は乱の平城京への波及を恐れ、恭仁京へ遷都した。
2014立大・文
下線部3聖武天皇が行ったことはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.勘解由使を設けた(×797年桓武天皇)
b.検非違使を設けた(×816年嵯峨天皇)
c.恭仁・難波・紫香楽と遷都した(〇)
d.弘仁格式の編纂を命じた」(×820年嵯峨天皇)」
2013慶大・文
次の史料(イ~ニ)は、いずれも『万葉集』に収められた歌である。これらを読んで、設問に答えなさい。(イ~ハ略、原万葉仮名)
(ニ)「今造る ( C )の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし」
問8(C)にふさわしい、聖武天皇が新規に造営した都の名称を記しなさい。
問9 聖武天皇が(C)に遷都する直接的原因となった出来事とは何か、記しなさい。
(答:C恭仁京、藤原広嗣の乱)
2013早大・文化構想
ながい日本の歴史のなかで、人々は政治や社会について様々な意見を述べ、また、議論をしてきた。それが知られる早い例は、744年から翌年にかけて、遷都をめぐる幅広いa意見聴取がおこなわれたことである。」下線aの意見聴取において、最終的に決まったところはどこか。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号を、マークしなさい。
ア平城 イ難波 ウ恭仁 エ紫香楽 オ藤原
(答:ア ※「恭仁京→難波宮→紫香楽宮」と遷都した挙げ句、最後は再びもとの平城京に還都されたことを忘れがちである)
2013法大・法国際文化キャリアデザイン
問 下線部a~cのなかから正しくないものをそれぞれ一つ選び、その記号を解答欄にマークせよ。なお、下線部a~cがすべて正しい場合には、dをマークせよ。
a7世紀の末に藤原京が都に定まると、b3人の天皇が、即位してから死去するまで、藤原宮に住み続けた。ついで[ A ]のとき、都が藤原京から平城京にかわると、平城宮は数人の天皇の宮として継続した。即位してから死去するまで平城宮に住み続けた最後の天皇は[ B ]である。cただし、その間、別の地に宮を設けた天皇もいた。
(答:A元明天皇、B光仁天皇、a〇694年、b×3人は持統・文武・元明各天皇だが、持統の治世の途中に遷都、また元明も治世の途中で平城遷都している。c〇聖武天皇で恭仁京→難波宮→紫香楽宮)〉
2010早大・法
2.下線a8世紀に鋳造された日本の東大寺盧舎那大仏について。この頃の歴史事象として正しいものは次のうちどれか。2つ選び、マーク解答用紙の該当記号をマークしなさい。
あ 聖武天皇は近江紫香楽宮で盧舎那大仏の造立を宣言した。(〇743年造営中の紫香楽宮で詔を出す)
い 諸国に国分尼寺を建て、尼僧20人と金光明最勝王経を置いた。(×741年国分寺・国分尼寺造立の詔)
う 八幡神の託宣により、淳仁天皇が廃された。(×769年宇佐八幡宮神託事件)
え 光明皇后は、聖武天皇が没した後、帝位に就いた。(×そのような事実はない)
お 740年には藤原広嗣の乱が起こり、この後、聖武天皇は都を度々移した。(〇)
2014同志社大・文
遣唐使たちは、唐から先進的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した( c )や吉備真備は、のち聖武天皇に重用され政界でも活躍した。
(答:玄)
2013明大・商
しかし、天然痘の流行で四子が相次いで病死すると勢力は一時衰え、政権は皇族出身の[ 3 ](684~757)や唐に留学経験のある玄、吉備真備らの主導するところとなった。玄と吉備真備は、[ 3 ]に重用されて活躍したが、d【1)藤原百川 2)藤原武智麻呂 3)藤原緒嗣 4)藤原冬嗣 5)藤原広嗣】は、彼らを除くことを名目に、740年、乱を起したが、敗死した。
(答:3橘諸兄、d(5))
The "Kagami-jinja Shrine" located to the west of Shinyakushi-ji Temple was built in order to soothe FUJIWARA no Hirotsugu's vengeful spirit.
なお、新薬師寺の西隣に鎮座する「鏡神社」は藤原広嗣の怨霊を鎮めるために創建されたものである。